第37話 寄り添う午後と、名前のない期待(芽吹月八日・午後)
午後の東庭には、朝とは違う静けさがあった。 陽射しはやや強くなっていたが、風が心地よく吹き抜け、庭の花々を揺らしている。
私はひと足早く東庭に入り、ふたり分の紅茶を淹れる準備をしていた。 今朝と同じ茶葉、けれど配合は少しだけ変える。 午後の空気に合うように、香りをやや落ち着かせた。
「……少しだけ、苦味を足してみましょうか」
思いつきではない。 姫様の“いつもの午後”を思い出して、それに合うように整えた味。
その時、背後から足音がした。
「こんにちは、アイリス」
「姫様。お越しくださり、ありがとうございます」
「ふふ、もうそれ言われるの慣れちゃった」
姫様は軽やかに笑って、いつもの席へと腰を下ろした。
「午後って、やっぱりいいね。朝とは違う優しさがある」
「時間の流れが、少し緩やかになるからでしょうか」
「うん……それに、なんだか、気持ちまで溶けていく気がするの」
私は湯気の立つカップをそっと差し出した。
「本日の紅茶は、今朝と同じ茶葉ですが、午後に合うように調整しております」
姫様は一口飲み、目を細めた。
「……ねえ、これ、“安心の続きを飲んでる”って感じがする」
「……詩的な表現ですね」
「だって、ほんとにそうなんだもん。朝の“ぬくもり”が、午後になっても残ってるみたい」
私もカップを手に取り、そっと口をつけた。 その味は、確かに朝の名残を感じさせた。
「じゃあ、この紅茶の名前は、“ぬくもりの午後”にしようかな」
「……ふふ。採用、ですね」
姫様はゆっくりと、テーブルに手を置いた。 その指先が、無意識に私のカップの方へと伸びる。
けれど、何かを思い直したように、そのまま自分のカップに戻った。
「アイリス。もし、紅茶がなかったら……私たちって、ここまで話せてたと思う?」
私は、少しだけ言葉に詰まった。
「……分かりません。ですが……私は、姫様がここに来てくださる限り、紅茶を用意し続けます」
「うん……そういうところ、ほんと好き」
私は、姫様の“好き”という言葉を、感謝や冗談の類と受け止めていた。
けれど、カップの奥に残った最後の一滴は、ほんの少しだけ、甘く感じた。
「ねえ、アイリス。今日、紅茶を飲んでから少しだけ、話してもいい?」
「もちろん。お時間の許す限り、私はここにおります」
姫様はカップを両手で包み込みながら、静かに頷いた。 そして、ほんの少しだけ迷いを含んだ声で言葉を継いだ。
「……アイリスはさ、誰かと過ごす時間が、ずっと続けばいいって思うこと、ある?」
「……はい。特に、誰かと静かにお茶を飲んでいる時などは、そう感じることが多いです」
「そっか……私も、そう」
その声には、たしかに少しだけ揺れる響きがあった。 けれど私は、姫様の言葉の奥にある“気持ち”までは、まだ気づいていなかった。
ただ、今この時間が、とても大切なものに思えた。
午後の陽が傾き始めるなか、ふたりの影がゆるやかに並ぶ。 名もつかぬ想いが、紅茶の香りの中で、静かにふくらんでいた。




