第36話 交わらない問いと、確かな習慣(芽吹月八日・午前)
紅茶の片付けを終えた私は、いつものように厨房へと戻っていた。 けれど足取りは、昨日までとは少し違っていた。
姫様と交わした言葉、交わせなかった言葉──それらが胸の中で、まだ熱を持って残っていた。
「アイリスー、おかえりー」
カレンが入口から手を振る。 その声も明るく、いつもの調子なのに、なぜか今日はすぐに返せなかった。
「おかえりって言ってるのに、反応薄いじゃん」
「……すみません、少し考えごとをしていました」
「姫様?」
言葉の芯を突かれたように、私は手を止める。
「図星だね〜。で、今日もふたりで“名付けごっこ”してたの?」
「……名付けは、紅茶の味と香りを明確にする大切な工程です」
「そういう言い方、すっごくアイリスっぽい。でもさ、それだけじゃないでしょ?」
私は、否定もしなかった。 けれど、肯定もできなかった。
姫様の言葉──“最近は、違うの”。 あのとき、私はきっと何かに近づけたはずだった。 けれど今はまだ、その“何か”の正体を掴みきれずにいる。
私は無言でカップと器具を洗い始めた。 水音だけが響くなか、カレンはカウンターに腰かけ、顎に手を添えてこちらを見ていた。
「……真面目だね、アイリスって」
「そうでしょうか」
「うん。律儀で、丁寧で、真っ直ぐ。でも、だからこそ、見えにくいこともあるよ」
「たとえば?」
「“気持ち”ってやつ」
私は手を止めることなく、そのまま布巾を取り出して食器を拭いた。
「……自覚するには、まだ早いのでしょうか」
「気づかないふりしてるだけかもね」
「……私は、自分に正直であるつもりです」
「それなら、姫様の言葉に、もう少し揺れてもいいんじゃない?」
揺れる──その一言に、心が微かに反応した。 たしかに、姫様と過ごす時間の中で、自分でも説明できない感情はあった。 けれどそれを“名前のある何か”として認識するには、まだ何かが足りなかった。
カレンは何も言わず、代わりに空のティーカップを差し出してきた。
「試作、ある? 今日のやつ飲んでみたい」
「……あります。少しだけ、残っていますので」
私はポットを取り出し、そっと注いだ。 香りは、今朝の“夜明けのぬくもり”とよく似ていた。
「……あ、これ。落ち着く。優しいのに、ちょっと切ない」
「姫様も、似たような感想をおっしゃっていました」
「でしょ。つまり、そういうことだよ」
「……何が、ですか?」
カレンは笑って首をすくめた。
「答えは、自分で見つけな。ゆっくりでもいいから」
その言葉に、私は小さく頷いた。
言葉にはできない何かが、確かにあの紅茶の中にあった。 そして、私の中にもあった。
変わりゆくものと、変わらずに積み重ねていく習慣。 その交差点で、私は今日も、ふたり分の紅茶を用意する。
名前をつけられない感情は、まだ宙に浮いたまま。 けれど、それでも私はこの時間が好きだった。




