第35話 カップの底に沈むもの(芽吹月八日・朝)
朝靄が晴れ始めた東庭で、私は姫様と向かい合っていた。
「“夜明けのぬくもり”、か……名前をつけるって、やっぱり素敵なことだね」
姫様は紅茶のカップを両手で包みながら、ぽつりとそう言った。 その声はどこか、昨夜よりも軽く、けれど少しだけ熱を帯びているように思えた。
「名を与えることで、想いが形になることもございます」
「うん。……そして、誰かと共有できるのもいい」
私は頷きながら、もう一口、紅茶を口に運ぶ。 たしかに今朝の味は、昨日とは違っていた。 夜を越えて、心の奥のひんやりとしたものが少しずつ溶けていく──そんな温かさ。
姫様はテーブルの縁を指先でなぞるように触れながら、言葉を探すように視線を泳がせていた。
「……アイリス」
「はい」
「私ね、最初の頃は、紅茶を通してあなたに近づこうって思ってたの」
その言葉に、私は一瞬だけ動きを止めた。
「でも最近は……なんだか、違うの。紅茶のことももちろん好きだけど、それより……あなたと、過ごすこの時間が……」
そこまで言って、姫様はふいに視線を落とした。 その頬は、朝の陽に照らされているせいだけではないほどに、わずかに色づいている。
「……すみません、話がうまくまとまりませんでした」
「いえ。姫様の言葉は、いつも……心に響きます」
どんな意味か、私自身、分かりきっていたわけではない。 けれど、姫様の口からこぼれるひとつひとつが、まるで茶葉の香りのように、私の中でふわりと広がっていた。
「……今日は、いい天気ですね」
私はそっと話題を変えた。 姫様は驚いたように顔を上げ、それからふっと笑った。
「そうだね。雲ひとつない青空。……ふたり分の紅茶には、ぴったりかも」
「そうですね」
言葉はそれ以上、続かなかった。 けれど、ふたりの間にはやわらかな静けさが流れていた。
──カップの底に、沈んだままの“何か”。
それがいつの日か、はっきりとした形になるのかどうかは、まだ分からない。 けれど今は、ただこの時間を、名前のないまま大切にしたいと思った。




