第34話 朝靄と、心に差す光(芽吹月八日・早朝)
芽吹月八日、夜が明ける前。
私はまだ薄暗い厨房にひとり立ち、火を灯す前の静けさを感じていた。
窓の外では靄が低く漂い、王城の石畳がぼんやりと湿り気を帯びている。
空気はひんやりとしているのに、胸の奥は妙に温かいままだ。
昨夜の姫様の姿が、どうしても頭から離れなかった。
静かな中庭を歩くあの背中。月明かりに照らされた銀の髪。
(……あの時、声をかけていればよかったのだろうか)
けれど、それは叶わなかった。
言葉も、気持ちも、まだ自分の中で整っていなかった。
だから、今日こそは。
私は茶葉棚の奥から、ひとつの瓶を取り出した。
以前、偶然できた未名のブレンド──優しさと余韻が重なる香り。
「……今日は、これでいこう」
まだ名前は決めない。
けれど姫様とふたりで過ごす時間の中で、ふさわしい名が浮かぶ気がしていた。
湯を沸かし、ポットを温め、慎重に分量を測る。
何百回と繰り返してきたこの動作も、今日はどこか新鮮に思えた。
「おはようございます、アイリス」
背後から届いたその声に、私は小さく振り返る。
「……姫様。おはようございます」
「もう準備してたの? もしかして、私が来るってわかってた?」
「ええ。姫様は、必ずいらっしゃると思っていましたので」
姫様は照れたように微笑み、そっと椅子に腰を下ろす。
東庭の花が、朝の光を受けて静かに揺れる。
「今日の紅茶は、どんな名前?」
「……まだ、名付けておりません」
「じゃあ、ふたりで決めようか。そういうの、好き」
私も席につき、ポットからゆっくりと紅茶を注ぐ。
湯気がふわりと立ち上がり、朝靄と混ざり合う。
「香りが……やさしいね。何か、抱きしめたくなるような味」
「ありがとうございます。そう感じていただけたなら、嬉しいです」
ふたりで静かにカップを傾ける。
その時間の中に、昨夜の迷いが少しずつ溶けていくのを感じた。
「……“夜明けのぬくもり”とか、どうかな?」
「え?」
「名前。今朝の紅茶、そんなふうに感じたの。夜の冷たさを越えて、差し込んでくる……そんなぬくもり」
「……とても、素敵です。採用させていただきます」
姫様は、嬉しそうに笑った。
朝靄の中。
ふたりの心に、同じ温度の光が差していた。




