第33話 夜の帳と、胸に沈むもの(芽吹月七日・夜)
夜の帳が王城を静かに包み込みはじめるころ、私はひとり、小さな灯りの下で明日の茶葉を選んでいた。
棚に並ぶ瓶のラベルを指先でなぞりながら、どれもしっくりこない自分に気づく。
「……“遠くの記憶”、では届かない気がする」
今日一日の中で交わされた言葉、微笑み、そして──ほんのわずかなすれ違い。
姫様はたしかに、私を“見て”くれていた。
けれど私は、あの言葉にどう応えればよかったのだろう。
理由はない。
最初からそうだった。
それは拒絶ではなく、肯定でもなく。
けれど、まるで私だけが“先に進んでいない”ような、そんな錯覚に陥ってしまう。
(私の中にはまだ、“境界”がある)
紅茶の湯気に守られながら、私はずっとそれを拠り所にしていた。
でも、姫様の眼差しは、それを越えて、まっすぐに向けられていた。
「……変わらなければ、いけないのかもしれない」
そうつぶやいた自分の声が、思ったよりも大きく響いて、私は慌てて口を閉ざした。
ふと、外の気配に気づく。
窓の向こう、中庭を歩く人影。
──姫様だった。
従者も連れず、ひとりで歩いている。
月明かりに照らされたその姿は、どこか寂しげで、それでもどこか迷いなく見えた。
私は思わず、扉に手をかけた。
けれど、その手をそっと引き戻す。
「……今、行っても、言葉が足りない」
私はまだ、“境界”を持っている。
それが悪いことではないと、誰かが言ってくれたとしても。
姫様の真っ直ぐな想いに、今の私はきっと──応えきれない。
それに、私はまだ“気づいて”いない。
姫様が私に向けている、その感情の名を。
やさしさだと、思っていた。
親しみだと、感じていた。
けれど、それが“それ以上”だと知るには──まだ、私は遠すぎる。
だから今は、見守るだけ。
心に沈んでいく熱を、ひとつ、またひとつ、名前のないまま抱きしめながら。
明日、またふたり分の紅茶を淹れる。
その時間の中で、少しずつでも変われるように。
私はそっと、灯りを落とした。
夜が静かに、全てを覆っていった。




