第32話 紅茶と沈黙の余白(芽吹月七日・夕刻)
夕刻の東庭は、昼間よりもさらに静かだった。
風は落ち着き、鳥たちの声もどこか遠く、花の香りだけが淡く残っている。
陽は西に傾き、紅茶を飲み終えたカップに映り込む光も、どこか金色がかっていた。
私は片付けの続きをしながらも、午後の姫様の言葉を何度も反芻していた。
──最初から“そうだった”。
その言葉の意味を考えるたび、胸の奥がわずかに軋む。
はっきりした言葉ではなかった。
けれど、確かにそこに何かがあった。
(理由なんて、ないのかもしれない……)
“ただ、最初からそうだった”。
それは、私が紅茶を淹れる理由と似ている気がした。
誰に言われたわけでもなく、ただ、そうしていたいから。
言葉にされない好意。理由を明かさない優しさ。
それを「分かりたい」と言われても、私にはまだ、どうすればよいのか分からなかった。
「……“理解”と“受け入れる”は、違うのに」
つぶやいた声は、風にさらわれて消えていく。
私は空になったポットを抱えて、ゆっくりと厨房へと戻った。
厨房では、カレンが椅子の上でぼんやりと足を揺らしていた。
入り口の音に気づくと、軽くこちらを見上げて笑った。
「おかえり、アイリス。今日も姫様来てたね」
「……はい。午後も」
「へえ、まさかの二部制? それはそれは」
私は無言で棚から紅茶缶を取り出し、静かに整理を始めた。
茶葉の瓶を一つずつ指先でなぞるように確認していると、カレンの声がまた、ふいに落ち着いた調子で届く。
「……なんか、あった?」
「……いえ、何も。ただ少し、分からないことが増えただけです」
「ふうん……好きって、そういうもんよ?」
私は思わず、動きを止めた。
「……それは、誰の話ですか」
「さあね? でもさ、アイリス。あんた、最近ちょっと変わってきてるよ」
「変わって……?」
「前より優しくなった。言葉も、少しあったかい。姫様に会ってから──ね」
私は答えなかった。
けれど否定もしなかった。
少し前の私なら、この言葉に戸惑っただろう。
けれど今は──わからないながらも、受け止めようとしている自分がいる。
「……人って、変わるものなのでしょうか」
「変わるんじゃなくて、見えてなかったものが、見えるようになるだけじゃない?」
カレンはそう言って、立ち上がり、空の鍋を片づけはじめた。
その背中を見つめながら、私はそっとティーポットの中を覗き込む。
“ふたり分の紅茶”。
その温度はすでに冷めているはずなのに、なぜかまだ、心の中では温かかった。
窓の外では、星がまたひとつ、顔を出していた。
夜がゆっくりと訪れる中、今日という一日の記憶が、ふたり分の紅茶の香りと共に、静かに私を包んでいた。




