第31話 紅茶の理由と、ひとつのすれ違い(芽吹月七日・午後の続き)
午後の紅茶会が終わったあとも、姫様は珍しく席を立たずに、カップの縁を指でなぞっていた。
「……なんだか今日は、時間が止まってるみたい」
「午後の陽は、そう感じさせるものです」
「違うの。たぶん……ここにいるから、だと思う」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
「……アイリス、聞いてもいい?」
「はい」
「あなたにとって、紅茶って何?」
思いがけない問いに、私はカップの中身を見つめた。
紅茶の表面には、午後の陽がきらきらと反射している。
「……境界、のようなものかもしれません」
「境界?」
「人と人との間に置かれる“静けさ”のようなものです。互いを傷つけずに、ひとつの温度を共有する……そんな存在です」
姫様は驚いたように目を瞬かせ、それからぽつりとつぶやいた。
「……やっぱり、アイリスって難しい」
「申し訳ありません」
「でも、それがいいの。……分かりたいと思えるから」
その笑顔に、私は何か返さなくてはと思った。
けれど言葉は、簡単には出てこなかった。
「……姫様」
「ん?」
「いつも、どうしてそこまで……私に、丁寧なのですか」
姫様は、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、私はふいに不安を覚える。
(……私は、聞いてはいけないことを)
「ごめんね、アイリス。……本当はね、理由なんて、ないのかもしれない」
「……そう、ですか」
「でも、もし理由をつけるなら──きっと、最初から“そうだった”の」
その言葉は、優しいけれど曖昧だった。
私には、まだ理解できない“何か”が、姫様の中にある。
けれど、それを問うには、私はまだ、その理由を受け止める準備が足りない。
「本日は、長くお時間をいただき、ありがとうございました」
「……また明日も来るから。今日のこと、忘れないで」
「……はい」
姫様の足音が、午後の風に溶けていった。
私は紅茶を片付けながら、胸の奥に残る小さなすれ違いに気づいていた。
それが、どちらのものだったのかも分からないまま──。




