第3話 花影に佇む声(王城歴1349年 春月二十四日)
その日も東庭には、静かな風が吹いていた。 王城の朝は規則正しく、私の一日も同じように始まった。食堂の片付けを終え、いつものように箒を手にして庭へ向かう。
春月も二十四日。気温が少しずつ緩んできたのか、昨日よりも庭に差す陽が柔らかく感じられた。
「……昨日よりも、花が開いてる」
白花草。東庭の南隅に咲くその花は、寒さに強く、春の初めに最初に咲くと言われている。 今では花弁が二枚、三枚とそろい、開いた姿を見せはじめていた。
その前にしゃがみ、私はそっと土の表面を整える。指先に残る湿り気が、目覚めたばかりの春を告げていた。
──その時だった。
「おはよう、アイリス」
聞き慣れた声が、私の背後に落ちた。
「……姫様、おはようございます」
振り向けば、今日もまた姫様――セレナ・フィリア・ヴァルテリナが立っていた。今日も完璧な身だしなみ、銀髪は風にそよぎ、眩しいまでに整っている。
「今日もいい天気ね。私の登場と共に空まで晴れるなんて、ちょっと感動的だと思わない?」
「……はい。偶然とは思えません」
「それ、褒めてる?それとも天然の皮肉?」
姫様はくすりと笑いながら、花壇の縁に腰を下ろす。私も静かに隣へ箒を置いて、控える。
「そういえば、昨日の白花草。ちゃんと咲いてたわよね。アイリスの管理の賜物だと思うの」
「……恐縮です。ですが、私のしたことといえば、草を抜き、土を少し均した程度です」
「そういうのを、手入れって言うのよ。世の中の貴族はね、もっと無駄なことばっかりしてるの」
「……そうなのでしょうか」
「そうなの。たとえば昨日、叔母様が十枚以上のレース布を選ぶために三時間悩んでたの。こっちの方がレースの密度が高いとか言いながらね。もう裁縫職人が泣いてたわ」
「……三時間もですか」
「そう。私なら一分で決めるのに。『全部却下』って」
私は思わず口元を押さえた。笑ってはいけない、と思いつつも、肩が少しだけ震えた。
「ふふ。今、笑いそうになったでしょ」
「……気のせいです」
「そういう素直じゃないところも、ちょっと好きよ」
「……姫様」
「冗談よ」
風が吹く。白花の上をふわりと撫でるように、やわらかく。
「でも、本当のことを言えばね。……あなたと話すと、すこし落ち着くの」
その声は、先ほどの冗談混じりとは打って変わって、素直で、まっすぐだった。
「……光栄です」
私は、静かに一礼した。
そしてその日、姫様はしばらく黙って、私の横で風と花とを眺めていた。