第27話 名前のない香りと、明日への選択(芽吹月六日・夜)
夜、厨房の片隅。 皆がそれぞれの作業を終えて持ち場を離れたあと、私はひとりで茶葉棚の前に立っていた。
明日の準備。それはもはや儀式のようなもので、私の中で“今日を締めくくる行為”になっていた。
「……今日は、“想いの予感”」
ふたり分の紅茶。 その言葉は、誰に言われるまでもなく、今の私にとってひとつの“意味”を持ち始めていた。
(姫様は……明日も来られるだろうか)
ふとそんな思いがよぎる。忙しさの中でも、いつも必ず時間を作って足を運んでくださる姫様。 私が信じているのは、その事実だった。
「明日は……どんな味にしましょうか」
私は瓶のひとつに指をかけて、すぐにやめた。 今日はどこか、どの香りもしっくりこなかった。
甘すぎても、重すぎても、軽すぎてもいけない。 けれど、昨日と同じにはしたくない。
(姫様は、きっと気づかれる)
“あ、この紅茶……昨日と同じ”──そう言われる未来が想像できてしまった。
「……本当に、私は」
ため息ともつかない吐息をもらして、私はようやく、ある瓶に手を伸ばした。
それは、名前のない試作品。 まだ組み合わせを試している途中のもので、今朝、偶然ふと混ぜたまま棚の奥にしまっておいたものだった。
封を開けると、淡い花の香りと微かにスモーキーな香りが混ざっていた。 甘さでもなく、苦さでもなく、懐かしさでもなく──説明できない何かがそこにあった。
(……まだ、完成じゃない。でも)
私はその香りに、一歩だけ近づいた気がした。
「これは……“明日”にしても、いい気がします」
誰に聞かせるでもなく、私はそうつぶやいた。
名づけはまだしない。 けれど、明日の朝に姫様と一緒に飲んだとき、ふたりでぴったりな名前をつけられたら──
きっと、それは特別になる。
私はそっと蓋を閉じ、明日の支度を終えた。 袋に茶葉を包み、紅茶缶に貼るラベルだけはまだ空白のまま。 “未命名”という名前が、今の私にとって一番ふさわしかった。
椅子に腰かけ、静かに湯を沸かして明日の予行を始める。 夜の厨房に、カップと茶葉の香りだけが静かに広がった。
ふと、窓の外を見上げる。 星のきらめきが、まるで誰かの返事のように瞬いていた。
「……明日も、姫様と一緒に」
そう願ったその夜は、やけに静かで、そしてやさしかった。




