第26話 噂と午後の台所と、そわそわする誰か(芽吹月六日・午後)
午後。 厨房に戻った私は、カップを丁寧に洗っているところだった。 水の音、布巾を絞る音、そして窓から差し込む光。いつもと同じ風景のはずなのに、どこか違って感じた。
──あの笑顔が、まだ胸の内に残っているからかもしれない。
そこへ、例のごとくカレンがやってきた。
「おーい、紅茶職人、今日もいい仕事したって顔してる〜?」
「……何のことですか」
「何って、そりゃあ東庭よ。姫様、今日もめちゃくちゃご機嫌だったじゃん」
「そう見えましたか?」
「見えましたよ! 侍女たちの間でも噂になってるってば。“姫様が笑いながら朝を過ごしてる”って」
私は黙って、布巾でティーポットを拭き続けた。
「ねえ、ほんとに何もないの? アイリス、姫様のこと……」
「……私は任務を遂行しているだけです」
「ふーん……あんたがそう言うなら、信じるけど。じゃあ代わりに、今日の紅茶の名前、教えてよ」
「“想いの予感”です」
「…………なにそれ!?」
カレンはまるで恋バナでも聞いたような反応をした。
「いや、うん、すごい名前! 想いの予感って、完全に告白前夜じゃん!」
「そんな意図では……」
「それはそういう空気が流れてる証拠よ! いやー、恋って素敵ねぇ……」
「……ため息混じりで言うのはやめてください」
「言ってない言ってない! ほら、ユトラもそう思うよね?」
「え、ああ……うん。“想いの予感”はちょっと……うん……聞いた瞬間ちょっとニヤけた」
ユトラがいつの間にか後ろにいて、静かに笑っていた。
「ねえアイリス、本当に自覚ないの?」
「自覚……とは?」
「姫様とあんたが、“ふたりだけの時間”を過ごしてるって、みんなが思ってるのよ。しかも、毎日」
「それは、確かに……事実ではあります」
「でしょ? なのにその顔は何? なんで本人だけ“自分はただの使用人です”みたいな顔してるの?」
「……私は、姫様のご期待に応えているだけです」
「もうそれが一番あぶないって! 気づいたら両想いでしょ!」
私は困ったように目を伏せたが、カレンとユトラの視線はどこか優しかった。
「……明日はどうしようかな」
「もう明日の名前考えてる!?」
「いやいや待って、もしかしてストックしてる? 毎日違うブレンド名考えてる?」
「できる限り、変化をつけたいとは思っています」
「もうね、完全に姫様専属ティーマイスターだよ、それ」
「“ふたり分の紅茶”、か……いいなあ」
ユトラのその小さな呟きが、厨房の音の隙間に優しく残った。
“特別”という言葉の正体を知らぬままに、私はまた、ふたり分の準備を始めようとしていた。
けれど──それは、きっと悪いことじゃない。 そう思えたのは、たぶん今の私に、ほんの少し余裕が生まれているからだった。




