第21話 夕暮れの背中と、気づかない想い(芽吹月五日・夜)
日が沈み、空がゆっくりと青から紫へと移り変わっていく。 東庭での時間を終え、私は姫様と別れて厨房へ戻っていた。
けれど、なぜか足取りはいつもよりゆっくりだった。
(……“ふたり分”は、特別)
姫様が言ったその言葉が、頭の中で何度も反響する。
厨房に戻ると、カレンが鍋のふたを開けながら振り返った。
「おかえり、ふたり分のアイリス」
「……誰に聞いたのですか」
「ユトラが見たって。朝から夕方まで付き合って、もうプロポーズ一歩手前じゃんって」
「……誤解です」
「もはや誤解ですらないと思うけどなあ。姫様のあの笑顔、アイリス以外に見せてるの見たことないし」
私は反論せず、茶器を丁寧に洗い始めた。
「なあ、アイリス」
「はい」
「自分が誰かの“特別”になるって、嬉しいと思わない?」
「……わかりません」
「じゃあさ、反対に。誰かが自分を“特別”って思ってくれてるの、気づいたらどうする?」
その問いには、すぐに答えられなかった。
「……どうすれば、よいのでしょうか」
「それは、あんたがどう思うか次第でしょ。けどさ、逃げないで考えな」
そう言って、カレンは鍋をかき混ぜながら背中で笑った。
その夜、私は寝台に横になってからも、なかなか眠れなかった。
姫様の声、紅茶の香り、ふたりきりの夕暮れの庭──
すべてが、今日一日でほんの少しだけ変わってしまった気がしていた。
“特別”とは、いつ始まるのか。 “気づき”とは、どこからなのか。
その答えはまだ見えない。 けれど、私は明日もまた、ふたり分の紅茶を淹れるつもりだった。




