第20話 ふたりの紅茶と、距離の名前(芽吹月五日・夕刻)
夕刻、陽が傾くころ。
東庭の片隅に、今日最後のブレンドを持って私は立っていた。 カップはふたつ。ひとつはいつもの姫様用、もうひとつは──試しに自分の分も用意してみた。
「……姫様が、いらっしゃるとは限らないのに」
苦笑しながらも手を動かし続ける。 テーブルクロスのしわを丁寧に伸ばし、風に煽られないよう石をそっと置く。
そのとき、東庭の入口から小さな足音が聞こえた。
「やっぱり、いた」
振り向けば、白銀の髪が風に揺れていた。
「姫様……」
「うふふ、今日も“ふたり分”あるのね。じゃあ私も座っていい?」
「どうぞ」
ふたりで並んでベンチに腰を下ろす。 紅茶の湯気がふわりと立ち昇り、静かな時間が流れる。
「今日のは……“星の涙”、だよね」
「ご存じでしたか」
「ベルンに聞いたの。なんだかロマンチックな名前だなって」
「産地名です。幻想的な土地で取れるため、そう名づけられたと聞きました」
「じゃあ、今日のブレンド名は“距離の名前”にしようかな」
「距離、ですか?」
「うん。今日の私とあなたの間にある距離。それが、名前」
私は答えに迷った。 けれど姫様は笑って、カップを口元に運んだ。
「ちょっと熱いけど……おいしい」
「ありがとうございます」
「ねえ、アイリス」
「はい」
「今日、あなたがふたり分用意してくれたこと。すごく、うれしかった」
「……それは、姫様がいらっしゃると信じていたからです」
「じゃあ、明日も?」
「……はい。明日も、ふたり分を」
姫様は、その返事にしばらく何も言わなかった。 ただ、両手でカップを包むようにしながら、少しだけ目を伏せて微笑んだ。
そしてぽつりと、小さく呟いた。
「“ふたり分”って、特別な言葉だね」
「……特別、でしょうか」
「うん。だって、それは“私の分だけじゃない”って意味で、“あなたもここにいてほしい”って、そういう……」
言いかけて、姫様はまた言葉を切った。 でも、もうそれ以上は必要なかったのかもしれない。
紅茶をすすりながら、私もまた静かに頷いた。
「明日は、もう少し温かめにしておきます」
「……そうして」
ふたりの距離。 それが“どれくらい”なのかは、まだわからない。
けれど、こうして一緒にいられる時間。 それこそが、名付けがたい“特別”なのだと思えた。




