第16話 夜の小部屋、紅茶の支度(芽吹月四日・夜)
芽吹月四日の夜。
厨房の片隅、夜当番を終えた私は、静かにカップと器具の手入れをしていた。 誰もいない時間帯の厨房は、不思議と落ち着く。
カレンもユトラももう戻っておらず、今夜は私ひとり。
「……明日は、少し甘い香りのブレンドにしましょうか」
思わず小さく呟いてしまう。
そのとき、背後の扉がかすかにきしんだ。
「……アイリス?」
振り返ると、そこに立っていたのは姫様だった。
「姫様……おひとりで、こんな遅くに」
「ちょっとだけ、歩きたくなって。そしたら明かりが見えて、ね」
姫様はふわりと微笑むと、私が手入れしていた器具に目を留めた。
「……紅茶の準備?」
「明日に備えて……少しだけ、選別を」
「そうなんだ。じゃあ、少しだけ……その準備、手伝ってもいい?」
「姫様が、ですか?」
「“手伝う”っていうか、“見る”に近いかもしれないけど。……隣、いい?」
「……どうぞ」
ふたりで並ぶ形になり、私は茶葉の瓶をひとつずつ持ち上げて見せる。
「これは……?」
「蜂蜜で乾燥させたリンデンの葉です。喉にやさしく、香りが甘いです」
「いい匂い……。じゃあこれを使って明日は……“優しい時間”にしようか」
「“優しい時間”……それが明日のブレンド名ですか?」
「うん。私が決めていい?」
「もちろん。姫様は、いつでも紅茶会の主賓です」
姫様はその言葉に少しだけ目を見開いてから、穏やかに微笑んだ。
「ねえ、アイリス。今って、こうしてふたりきりで話してるけど……これ、なんか変だと思う?」
「……変、ですか?」
「ううん、なんでもない。……でも、私にはすごく自然に感じるの。あなたがそこにいるのが、ね」
私はそれには、うまく言葉を返せなかった。 ただ、紅茶の瓶をそっと蓋をして、静かに棚に戻す。
「……明日は、朝から東庭におります」
「……うん。じゃあ、私も早めに行くね」
その夜、ふたりはそれ以上何も言わなかった。 けれど、静かな厨房に残った紅茶の香りが、翌日をそっと予感させていた。