第15話 書庫の影と姫様のため息(芽吹月四日・夕刻)
書庫の空気は、東庭とはまったく異なっていた。 窓から差し込む夕方の光は静かで、紙とインクの匂いが満ちている。
文書を抱えたまま入った私は、すでに見知った係員──ベルンの手を借りて配達先を確認した。
「この棚の……上から三段目。ありがとう、助かります」
「こちらこそ。あ、あと姫様……今日も来てましたよ。午前中だけど」
「姫様が……」
「うん。何か探してるみたいで。カード? みたいな紙をたくさん持ってました」
「……ご本人は、楽しんでおられるようで何よりです」
私はそう返しながらも、なぜか少し胸の奥がざわついていた。
用を終えて廊下を出ようとしたとき、角を曲がった先から軽い足音が響いた。
「……あ、やっぱり」
そこにいたのは、まぎれもなく姫様だった。
ドレスの裾をやや持ち上げて軽やかに歩いてくる姿は、まるでこの廊下が彼女の庭のようだった。
「姫様。……偶然ですね」
「ほんと偶然。でも、なんだか今日は、よく会える日なのかもしれないわ」
「……そのような日もございます」
ふたりきりになった空間に、少し沈黙が落ちる。
「えっと、さっき書庫で少しだけ……考えてたの。アイリスって、もし私のことを──」
姫様は、言葉を止めた。 その視線がこちらに向いていたことは分かっていたのに、私は何も返せなかった。
「……あ、ううん。なんでもない!」
「姫様?」
「考えてたの。明日の紅茶、何にしようかなって!」
無理に笑ってごまかすようなその声に、私はゆっくりと頷いた。
「それでしたら、私も候補をいくつか考えておきます」
「うん、お願いね」
ふたりはそのまま並んで歩き出した。 沈黙が続くかと思ったが、姫様がふと呟いた。
「……もし、明日も会えなかったらって、ちょっとだけ考えてた」
「私は……明日も参ります」
「……そっか。よかった」
そして姫様は、ひとつ深く息を吐いた。 それは安堵のような、名残惜しさのような、小さなため息だった。
「じゃあ、また明日。楽しみにしてる」
その背中を見送って、私は思った。
(……あの言葉の続きを、もしも彼女が話していたら)
けれど、それはまだ早すぎる問いなのかもしれない。 紅茶の香りのように、ゆっくりと──今はただ、時を重ねていくしかない。