第11話 雨と傘と、お菓子の話(芽吹月二日)
芽吹月二日。 朝からしとしとと雨が降っていた。 春の雨は優しいけれど、王宮の敷石を滑りやすくし、空気を重くする。
私は厨房での当番を終えると、慎重に包みを抱え、足元に気をつけながら回廊を進んだ。
今日は、姫様はいらっしゃるだろうか。 雨の東庭は滑りやすく、冷たい。けれど、彼女なら──そう思いながら、傘を差して東庭へと向かう。
「……いらっしゃった」
花壇のそばに、今日も姫様はいた。 濃いグレーの外套にフードを深くかぶって、膝に膝掛けをかけている。
「おはようございます、姫様」
「アイリス! 来てくれた!」
姫様は嬉しそうに顔を上げ、私を手招きした。
「まさか……この雨の中でもおいでになるとは」
「むしろ、こんな日に来てくれるかどうかで、信頼度が試される気がしてたの」
「……それは、少々、重すぎる試験では」
「でも来てくれたから合格!」
姫様はそう言って、胸の前で小さくガッツポーズをした。
私は彼女の前で傘を閉じ、準備していたクロスを地面に敷いてから、茶器を並べた。
「本日は、生姜入りのハニーブレンドです。少しでも冷えが和らげばと」
「気が利きすぎてて、ちょっと泣きそう……」
姫様は紅茶を受け取り、両手で抱え込むようにして口をつけた。
「……あったか……美味しい。これ、ほんとに私専用ってことでいい?」
「ご希望とあらば、何度でもお淹れします」
「じゃあ、十回分くらい予約したい」
「……お受けいたします」
小さな笑いが交わされ、雨音がその隙間を優しく満たしていく。
「ところで、今日のお茶菓子は?」
「本日は、厨房の片隅にあったレーズンクッキーを少しだけ……」
「レーズン、好き! アイリス、今日の紅茶と相性ぴったりよ!」
「それは光栄です」
姫様は口元にクッキーを運び、満足そうに頷いた。
「ねえ、雨の日もこうしてお茶できるって、ちょっと贅沢だと思わない?」
「……確かに、そうかもしれません」
「雨音と紅茶とお菓子と、アイリス。完璧な組み合わせだわ」
「最後の要素に違和感を覚えますが……ありがとうございます」
ふたりで笑ったあとの静寂が、不思議と心地よかった。
姫様が侍女に呼ばれて戻ったあと、私はゆっくりと片付けを始めた。 雨は少しだけ弱くなっていて、空気はまだひんやりしていた。
「……明日は晴れるでしょうか」
紅茶の香りが染み込んだクロスをそっと畳み、私は傘を差して東庭を後にした。