第100話 春風に紛れて(芽吹月二十六日・午後/姫様視点)
午後の陽射しは穏やかで、風が草木をなでていく。
中庭から戻ってきた私とアイリスは、いつものように小さな紅茶の時間を過ごしていた。
机の上には、今日のために選んだハーブブレンド。さわやかな香りが鼻をくすぐる。
「……今日のブレンドも優しい味ですね」
「ええ。あなたの好みに合わせて、少し花の香りを強くしてみたの」
「ありがとうございます。姫様って、ほんとに細かいところに気を配られてますよね」
「ふふ、それはあなたが可愛いから。撫でカウント:10ね」
「また増えた……」
アイリスが照れたようにカップを持ち上げる。その頬がうっすらと紅く染まっていて、私は心の中で“可愛い”の評価をさらに加点していた。
──このまま時間が止まってくれたら、どんなにいいか。
そんなことを思うのは、決して夢見がちなだけではない。
最近、胸騒ぎのようなものが、私の中でずっと続いていたからだ。
紅茶の温度が落ち着いた頃、扉の外で控えていたカティアが軽くノックをした。
「姫様。報告がございます。少々、お耳を」
「入ってちょうだい。アイリスも一緒で構わないわ」
カティアは短く頷いて、部屋へと足を踏み入れた。
その表情には、緊張の色があった。
「……先ほど、南門近くの見張りが、外套を深く被った人物を目撃しました」
「それだけなら、城下の訪問者では?」
「問題は、その人物が“ある特定の花”に触れていたことです」
「花?」
「ええ。──“銀茨”です」
私は息を呑んだ。
銀茨。それは、王家の庭でも極めて限られた区画にしか育たず、またとある“古い契約”と関係のある植物だった。
「……まさか、あれが狙い……?」
カティアは静かにうなずいた。
「花は切られていませんでした。ただ──土に、わずかに薬品の香りが残されていました」
「毒?」
「その可能性もあります」
アイリスの表情が、わずかに曇る。
「姫様。城内の警備を──」
「強化するわ。すぐに」
立ち上がる私の声は、意識せずに少し硬くなった。
「それと、銀茨の区画。誰にも近づかせないように。騎士を二重に配置して」
「かしこまりました」
カティアが再び頭を下げ、退出したあと。
部屋には、再び静寂が訪れた。
けれど、その静けさは──もう、さっきまでの“甘やかな午後”とは違っていた。
アイリスは、カップに口をつけることなく、じっと何かを考えるような表情で、俯いていた。
「アイリス、大丈夫よ」
「……わたし、また何かに関係してるんでしょうか」
「そう思うの?」
「なんとなく……直感みたいなものです。でも、こうして姫様の近くにいることが、誰かの狙いに繋がっているのだとしたら──」
「なら、なおさら離れさせないわ」
私は椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろした。
そして、そっと指を絡めて、手を握る。
「あなたは鍵。──それが本当だとしても、あなたの意志まで鍵で縛られるものじゃない。わたくしが、それを証明してみせる」
アイリスは、わずかに目を見開いて、私を見た。
「……姫様」
「あなたが無事でいてくれる限り、何度でも撫でるわ。撫でカウント、リセットしてゼロから始めるくらいに」
「……あの、なんかすごく変な誓い方をしてませんか?」
「変でも誠実よ」
「……はい」
アイリスが笑った。その笑顔が見られただけで、私はようやく胸の中に溜まっていた不安を少しだけ外に吐き出せた気がした。
春の風が、開けた窓のレースを揺らしていた。
だがその向こうに──
ひそやかに、再び忍び寄る影の気配が、確かにあった。
そして、その影が落とす闇は、私たちの未来に確実に手を伸ばそうとしていた。