第10話 午後の東庭と、ちいさな計画(芽吹月一日)
芽吹月一日。 暦の上では新しい月のはじまりだが、厨房は相変わらずの喧騒だった。 パンを焦がす者、皿を割る者、塩と砂糖を間違える者……。
そんな中、私はいつもより早く、静かに仕事を終えた。 例の包みを確認し、そっと胸に抱えて東庭へ向かう。
「今日は……お会いできるでしょうか」
小さく呟きながら足を運んだ東庭には、姫様の姿はなかった。
「……いらっしゃらないのですね」
私は静かに息を吐き、花壇の縁に腰を下ろす。 ひとりで紅茶を淹れ、湯気の立ち上るカップを手に取る。
……昨日と同じようなはじまり。 けれど、今日の空気はどこか違っていた。
「ごめんなさい、遅くなったわ!」
その声とともに、姫様が駆け込んできた。
「姫様……本日はお忙しいのかと」
「書庫にいたの。どうしても今日伝えたいことがあって!」
姫様は頬を赤くして、少し息を整えると、懐からノートを取り出した。
「これ、見て!」
差し出されたノートには、“紅茶会拡張案”という文字が躍っていた。
「お菓子、茶葉の組み合わせ、話題のテーマリスト……これは……」
「ふふ、すごいでしょ? わたし、昨夜からずっと考えてたの」
「……情熱的でいらっしゃいますね」
「紅茶には本気なの!」
姫様はノートの端をぱたぱたとめくりながら、まるで子供のように笑っていた。
そのあとも、ふたりであれこれ案を出し合った。 “紅茶に合う架空のお菓子名を考えるゲーム”や、“今日のブレンドに名前をつける選手権”など、ひとつひとつがどれもくだらなくて、けれど楽しかった。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「あなた、いつも真面目だけど……こういう時間も嫌じゃない?」
「……楽しいと思っています」
「……それ、すごく嬉しい」
そう言って姫様は、湯気の向こうでやわらかく微笑んだ。
気づけば、カップは空になっていた。 午後の東庭に差す光は、昨日よりも少しだけあたたかく感じられた。
姫様が侍女に呼ばれ、その場を去ったあと、私はゆっくりと立ち上がった。
その足で、私は片付けのため厨房へと戻った。 途中の廊下で、同僚の使用人が私の手元の茶器に気づき、興味ありげに声をかけてくる。
「また紅茶してたの?」
「……ええ、少し」
「へぇ~……姫様、毎日来てるんでしょ? うらやましっ……じゃなくて、大変だね」
「……慣れてきました」
私は笑われるのも、注目されるのも少し苦手だ。だから深く踏み込まれないよう、言葉を丁寧に選ぶ。
厨房に着いて茶器を洗いながら、今日のことをひとつひとつ思い返す。
姫様のノートの文字、笑った顔、紅茶の味。 すべてが、自分の中に穏やかな余韻として残っていた。
「……明日は、甘いお茶にしましょうか」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は手を動かし続けた。
夕暮れが近づき、厨房の窓から差す光が、ティーカップの水滴を静かに照らしていた。