第1話 東庭の少女
王宮には、表と裏がある。
華やかな舞踏会が開かれる鏡の間。大臣たちが論争を交わす政庁の回廊。高貴な者たちが行き交う玉座の間。
それらはすべて「表」に属するもの。誰もが目を向け、言葉を交わし、記憶に留める場所。
けれど、私が掃除を任されているのは、もっと地味な場所だった。
人の出入りも少なく、花の咲き方も、風の抜け方も、静かで穏やかな――王宮の東庭。
「……落ち葉、もう少しで終わり、かな」
私は箒を手に、腰を落とすようにしゃがみ込んでいた。
春の初めだというのに、古い木々からはまだ冬の残り香のような葉がこぼれ落ちてくる。
枝の影が敷石にゆらゆらと揺れて、それがやけに柔らかく感じられる朝だった。
掃除係――王宮ではいちばん下の階級の仕事。
でも、私はこの仕事が嫌いではなかった。誰にも見られない。誰とも話さなくていい。
ただ静かに、風と石と草木とだけ向き合っていられる。
十四歳になったばかりの私は、まだ自分の“居場所”を探していた。
けれどこの東庭は、私にとって唯一、「無に戻れる場所」だった。
「……」
かすかな足音が聞こえたのは、そのときだった。
コツ、コツ、と、硬い靴底が敷石を叩く音。
でもそれは、近づいてくるのでも、通り過ぎるのでもなく――まるで、私の真後ろで止まったように感じられた。
反射的に立ち上がり、振り返る。
その瞬間、春の陽射しのなかに――白い肌と、銀の髪が、そこに在った。
「……お掃除、ご苦労さま」
その声は、想像よりもずっとやわらかくて、けれどどこか芯のある響きだった。
言葉より先に、私は地に膝をついて頭を下げていた。
「お初にお目にかかります、姫様……」
そう。
そこに立っていたのは、アルセリオ王国の第一王女、セレナ・フィリア・ヴァルテリナ。
この国で最も高貴な少女。
王族でありながら、剣と魔導の両方をたしなみ、幼い頃から政務にも通じていると噂される、まさに“未来の君主”。
そんな存在が、どうしてこんな裏庭のような場所に――しかも、ひとりで?
私は思考を止め、ただ視線を落としたまま、風の音に耳を澄ませていた。
「顔を上げて。……そんなに緊張しないでいいわ」
おそるおそる顔を上げると、姫様は私のほうを見て、かすかに微笑んでいた。
淡い青の瞳。その目に私は、なぜか“緊張”よりも先に、“不思議な違和感”を覚えた。
彼女の瞳には、“恐れられている者の余裕”がなかった。
王族に対する礼儀は、私は学んでいた。
私のような者が、姫様にまっすぐ視線を返してはならない。
けれど――彼女の目は、そう言っていなかった。
「……名前を、聞いてもいいかしら?」
「……はい。アイリス、と申します」
「アイリス。……覚えたわ」
それだけ言うと、姫様はそっと視線を遠くに向けた。
庭の奥のほうに咲き始めたばかりの白い花を見つめて、何か考えるように。
「ここ、好きなの。東庭。人があまり来なくて、静かで。……風が綺麗」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
――この庭を、“綺麗”と感じる人が、他にもいるんだ。
「……姫様も、よくここに?」
「今日が、初めて」
「……そうですか」
「でも、また来るわ。……あなたも、いるでしょう?」
その言葉に、なぜか手が止まった。
問いかけでも、命令でもない。
ただ確認するような、あまりにも自然な口調だった。
「……いる、と思います」
「よかった」
そう言って、姫様はふっと目を細めた。
姫様はそれ以上何も言わず、足音を残して去っていった。
私はその背中を、ただ黙って見送った。
それが、すべてのはじまりだった。