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女傑アタランテの恋物語・4

扉絵:アフロディーテ イメージ画


挿絵(By みてみん)

 アポロン神殿の前に特設された競技用の直線コース。


 そこを囲むように集まった大勢の観衆が怒涛のように喝采を浴びせているのは、長い黄金の髪をきつく結い上げた、まさに女神の如き美しさを誇る美丈夫、アタランテ姫その人だ。

 その端麗な容姿も相まってのことなのか、彼女の人気の高さは尋常ではないらしい。アタランテは凛とした姿勢を崩す事無く、極めて冷静に薄く微笑みながら観衆の声援に応えようと手を振っていた。


「しかし――凄えなあ。名のある英雄ってのがここまで人を惹き付けるもんだとは」

「名のある英雄の上に、極上の美人だからねえ。こりゃ競争率も半端なさそうだ」


 締まりの無い顔でアタランテを見つめていたアステリオスは、頬杖をついてニヤリと微笑んだ。

 メラニオンが顔を利かせてくれたおかげで、俺達は沸き立つ観衆にもみくちゃにされることもなく、アルカディア王宮の関係者達のために用意された“特等席”ってやつにありつく事が出来ていた。


「それにしてもよ、何でお前まで花婿候補に志願したんだよ。勝てるわけねえだろ、あんなもん」


 アタランテが風のように駆ける姿を一目見ただけで、彼女の天下無双振りを確信した俺は、道すがら露店で買ったトリヨン(※1)を口いっぱいに掻き込むアステリオスを見ながら眉をひそめていた。


「別に参加するしないは自由じゃないか。駄目で元々なんだし、やらないよりマシだろ。安心してよ、万が一僕が勝っちゃってもアタランテはメラニオンに譲るって約束するから。せっかくだから一回くらいデートはしてもらうけどね」

「は、はあ……それはどうも」


 もごもごと口を動かすアステリオスに苦笑いを返したメラニオンは、不安げな面持ちを崩さないまま、再びじっと競技場を見つめ始めた。


「でも本当に大丈夫なのかなあ? 本当にアフロディーテ様直々に手助けなんてしてもらえるの?」


 浮かない顔で露店の女に押し付けられたオベリオス(※2)をもそもそとかじったイカロスは、さっきからずっと同じ調子でメラニオンの心配ばかりしている。


「昨日のお話ではそのはずでしたけどね。どちらにしろ僕、既に参加を申し込んで来てしまいましたから……もうあとは女神に賭けるしかありませんよ」


 彼が憂鬱さを浮き彫りにしているのも無理はないのかもしれない。たとえ正攻法で負かされることなどないとは言っても、自分の好きな女の花婿になるかもしれない男達が次々と目の前に現れるのを眺めているのは気が気でないのだろう。

 少しでも彼の不安が紛れるようにと、俺はつとめて明るく笑いながら、物憂げなメラニオンの肩を強く叩いていた。


「大丈夫だって、女神はきっとやって来るさ」

「ええ、そうですね――というより、そうでなくては困ります。勝ち目のない勝負でこてんぱんにやられた挙句、まだたいして使ってもない体の一部を切り取られちゃうなんて御免ですから」

「体の一部?」


 負けた奴に制裁が加えられるなんてルール、あったんだったか? まあ確かに、結婚する気のないアタランテからすりゃ、アステリオスのように軽々しく参加しようとする男に牽制をかけられるし、負けた奴にも二度と競技に参加する気にならないようにしてやれるしで、なかなかの妙案かもしれねえけど。

 俺が両目をしばたたかせてメラニオンを見つめていると、あっという間に顔色を青白く染めたアステリオスが、一気に食欲をなくした様子でトリヨンの残りを俺に押し付けてくる。


「な、何それ……全然聞いてないんだけど」

「え、ご存知なかったんですか? あまりに参加者が多いからって、今朝になってルールが追加されたんですよ」

「冗談じゃないよ! 体の一部を切り取られるなんて……死んじゃったらどうするんだよ!」


 取り乱したアステリオスが血相を変えてメラニオンの胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶり始めた。細身の怪力男に、いとも容易くつま先が浮くほど持ち上げられたメラニオンが苦しそうにもがくのを見て、俺は慌ててアステリオスの後頭部にげんこつを浴びせる。


「馬鹿野郎、離せ! 競技に入る前からメラニオンが死んじまうだろうが!」


 窒息の危険からようやく逃れたメラニオンが喉元を押さえて咳き込むのを見ても、アステリオスの怒りは収まらないようだ。人権侵害だとか、またハデス様の所で使い走りにされるのは嫌だとか、自分勝手な理由を喚き散らしながら、周囲の好奇の目を集めている。


「や、やっぱり知らないで申し込んでしまってたんですね……僕はまた、命を賭けて援護しようとしてくれたんだとばかり……」

「僕がそんな善良な人間なわけないじゃないか!」

「そこを偉そうに言うな、そこを!」


 またも掴みかかろうとするアステリオスを張り倒し、俺はしゃがみこむメラニオンに肩を貸し、助け起こしてやった。


「なあメラニオン。体の一部って、具体的に決まりがあるのか?」


 嫌な予感を募らせながら訊ねると、メラニオンは気まずさ丸出しの苦笑いを浮かべ、体のとある部分を指差していた。そのゴツゴツした指先の指し示すものが何であるのかを理解した時、俺の脳味噌を支配していた感情は同情などではなく、むしろ――


「う、嘘だ――そんなの嘘だ――」


 なよなよとその場にへたり込んだアステリオスを見て、俺はこみ上げてくる笑いを隠さずにはいられなかった。

 

「確かにそりゃ二度と参加する気には……つーか、参加出来ねえわな、物理的に! 結婚したって、“それ”じゃあいつまでたっても世継ぎは生まれねえんだし!」

「サイアス、笑いすぎだよ……」


 腹を抱えて笑い転げる俺と、申し訳なさそうに笑いをかみ殺そうとするイカロス。どちらともなくそれを恨みのこもった双眸で睨んだアステリオスだったが、落胆が大きすぎるのか、言い返す気にもなれないらしい。


「嫌だ……女っ気のない冥界から解放されたばっかりなのに、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ……」


 そんなもん、お前が馬鹿だからに決まってんだろうが。

 本気でそう言ってやりたかったのだが、体の奥底から染み出してくる笑いがそれを赦そうとはしてくれない。


「ちょっとサイアス……笑ってないで何とかしてよ! 僕ら、友達だろ?」

「てめえと友達になった覚えは無えな。むしろこれからはてめえの鬱陶しいナンパに付き合わされなくて済むし、俺には利点しかないね。潔く切られちまえ! 男だろ、今んとこ」

「悪魔! 人でなし!」


 何とでも言えと笑って、すがりつくアステリオスを押し退けた俺は、前方から人ごみを掻き分けてこちらに走り寄ってくる、やたらと派手な身なりの女を見つけ、はっと目を見開いていた。


「サイアス、ごめんね。待った?」


 身にまとう衣服の色彩こそ派手だが、昨晩ほど露出の多い服は着ていないようだ。そこは彼女もお忍びでやって来ている身分だし、無闇やたらと目立つ事のないようにとの配慮なのだろう。

 何故か両頬をほんのり紅く染め、もじもじとはにかむような仕草で俺の目の前に現れたのは、女神アフロディーテだった。


「び、美人だ……!」


 いつもは少しでも好みに近い女に出逢う度にすぐさまパタパタと尻尾を振るアステリオスも、声をかけることすら忘れてただ圧倒されている。それほど、彼女の醸し出す美しさは半端なものではないのである。しかしどうも、昨日と比べると妖艶さに欠けているような気がしなくもない。それが、露出度のせいだけではないような気がするのは俺の思い過ごしなんだろうか。


「そりゃ待ちましたよ、貴女に会うために来たんですから。アフロディーテ様」

「やだ、サイアスったら……」


 紅潮した頬に手を当て、アフロディーテは惚けたような目で俺を見つめてくる。


「おい、何か昨日と随分違わねえか……鳥肌立ってきやがったぜ」

「気配は間違いなくあのお方のものだと思うんですが――」


 一般的な感覚からすれば目も当てられないような格好をしていた昨日とは大きく印象が変わっているせいなのか、打って変わって落ち着いた様子で女神を観察していたメラニオンは、至極真面目な表情で俺の肩をポンポンと叩いた。


「彼女、本気で貴方のことを好きになってしまったんじゃないでしょうか。あれはどう見ても、ごく普通の恋する女性の見せる顔です」

「何かお前、やけに自信あり気だな」

「まあ、それなりにはいろんな女性を見て来てますから。どうです、これを機にサイアスさんも身を固められては?」

「冗談きついぜ――」


 乾いた笑顔を浮かべ、俺は悩ましげなボディラインをくねくねと動かしながら何やらうわごとのようにブツブツと呟いているアフロディーテを恐る恐る見てみた。


「ねえ、サイアス。私がうまくやれば、私と付き合ってくれるのよね?」

「貴女の事を好きになるかもしれないとは言いましたが、付き合うとは言ってないと思うんですが」

「同じ事じゃないの、サイアスのイジワル」


 冷たくされればされるほど嬉しそうに微笑んで、アフロディーテは俺の腕に飛びついてくる。


「え、え、え、サイアス……女神様とそんなに仲良かったの? 知り合いなの?」

「うーん……イカロス君、話せば長くなるんです。君にはまだきっとこういう話は早いです」


 両手でイカロスの蒼い双眸を覆ったメラニオンが、困ったように笑っている。


「子供も居るし、ここは公の場なんですし――ん?」


 ふわりと甘い香りが漂い、頭の芯が軽くなる。

 まただ、またこの香り。昨日も散々俺の脳髄を震撼させた、花の香りだ。

 おそらくこの香りは、彼女が魅惑の魔法を使うときに現れる兆候なのだろう。昨日はたった数分この香りを嗅がされただけで、あれほど危ない状態に陥ったのだ。今日またこれからずっとあんな状況に晒されるのかと思うと、生きた心地がしない。逆に悦ばれてしまうことは解っていたものの、俺は反射的にありったけの敵意をたぎらせ、アフロディーテを睨み付けた。


「それ、やめてもらえませんか? こういうところで真っ向勝負しようとしない女なんて、俺は好きになれる気がしませんよ」

「あら、ごめんなさい。癖なのよね、これ。もう……そんなに怒らないで。怒った顔もステキだけど」


 少しも申し訳無さそうには見えない調子で言い、女神はようやくその甘い香りをどこかにしまい込んでくれたようだった。反省していないどころか、怒られたくてわざとやっているような気さえする。これ以上悦ばれても困るので、俺はなるべく無表情を崩さないようにしながら話題を本筋へと押し戻す事にしていた。


「で、俺の友人を助けるための秘策は考えて来て頂いたんでしょうか」

「もちろんよ。これを見て頂戴」


 会って間もないメラニオンを友人と認めるくせに、どうして僕のことを友達じゃないなんて言うんだとぶつくさ言っているアステリオスは無視し、彼女が取り出した小さな布袋を覗き込む。僅かに開いた袋の口から見えたのは、目のくらむような金色の輝きを宿した“林檎”だった。


「これは――林檎ですか?」

「そうよ、でもただの林檎じゃないわ。人の心を惹き付ける、魔力を秘めた黄金の林檎よ」


 意志の強そうな眉を持ち上げて首を傾げて見せたアフロディーテの笑顔は、昨晩嫌というほどに見せ付けられた妖艶な微笑と、寸分違わないものだった。






※1=古代ギリシア発祥のチーズケーキ。ケーキというよりはプリンに近い。

※2=古代ギリシア発祥のパンの総称。最も一般的なのは、今で言うワッフル(但し、網目はついていない)のような形状のもの。

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