女傑アタランテの恋物語・3 (2011/01/26 改稿済)
「本当に結構です。助けて頂いただけで、僕は――」
「いいからいいから、遠慮すんなって。全額奢ってもらったんじゃ、さすがに悪いからさ」
遠慮しているのか、本当に嫌がっているのかはよくわからないのだが、俺は大喰らいと大酒飲みとで飲食代を倍増させかねないアステリオスと、酒に付き合えないお子様のイカロスを無理矢理宿に帰らせ、さっきの酒場で貰ったタダ酒を手に、気弱な青年を引き摺って二軒目の酒場に辿り着いていた。
この青年、とにかく今までに出逢った事がないくらい感じのいい男で、酒場での飲み代はおろか、喧嘩で壊れた調度品まで弁償しようとしていたのだ。さすがにテーブルや椅子やらは俺達の責任ではないからと女将が気を遣ってくれたのだが、それでも見ず知らずの好青年に一方的に奢らせてしまったとなれば、さすがの俺も何だか悪い事をしているような気になってしまう。
それに、こんないい奴がどうしてあんなに大勢の男達に取り囲まれてぶん殴られなければならなかったのか。きちんと聞いておかなければ後悔が残るような気がしたのだ。
さっきの店と比べると少々裏ぶれた静かな佇まいの店を選び、俺は遠慮する青年を半ば強引に店の奥へと押し込む。そこは、いかにも海の荒くれの御用達といった雰囲気の、大衆食堂の域を出ていなかった一軒目とはまるで違う。ほの暗いその酒場は、ゆらゆらと揺れるオイルランプの前で吟遊詩人が静かに竪琴を鳴らす、男同士で入ることが悔やまれるほどにムードのある店だった。
狭い店内の大半は、店主と向かい合わせのカウンター席が占めていて、遠慮がちに据えられたテーブル席が二つ。カウンター席には、明らかに商売女といった雰囲気の女が一人で座っていて、俺は何となくそこを避け、足早にテーブル席へとついていた。
「あの、かえって気を遣わせてしまってすみませんでした」
「何言ってんだ。気を遣ってるのはお前だろ」
この期に及んでまだ謝罪の言葉を口にした男に、俺は笑顔を返さずにはいられなかった。
「こっちこそ、感謝してるよ。まだしばらく島に滞在するつもりだったから、飲まず食わずで過ごさなきゃならないところだった」
「いえ、そんな――ところで、貴方のお名前は? 僕はメラニオンといいます」
メラニオンは、彼の温和な雰囲気を一際引き立てる優しげな黒い瞳をすっと細め、にっこりと微笑んでいた。
「俺はサイアスだ。どこってわけでもなく世界を旅して回ってるんだが、お前は?」
「僕はアルカディアの狩人です」
狩人――?
言われて俺は、羽織っていたマントを椅子の背もたれにふわりと掛けたメラニオンの体格をまじまじと観察してみた。
メラニオンは、癖のある黒髪、垂れ気味の眉、両目と、いかにも優男を絵に描いたような外見で、とことん温和そうだ。しかしよく見れば、その服の裾から覗く腕や胸元には俺よりもずっと鍛え抜かれた筋肉が見て取れ、体のいたるところには、一体どんな猛獣に付けられたのだろうというくらいの酷い傷跡なんかもある。
「あ、僕――狩人になる前は、剣闘奴隷だったんです。酷い怪我を負って死にそうになっていたところを、アルカディアの姫様に助けていただいて。姫は僕を買い取ってくださった上、自由にしてくださったんです」
剣闘――俺にそんな気持ちの良くない娯楽を愉しむ趣味は無いが、それは大都市の円形劇場なんかでよく行われる、闘いのショーのことだ。剣闘には一騎討ちや乱戦、中には猛獣や怪物と人間の闘いを見せる形態もあるらしいが、命のやり取りを強いられるのは、“剣闘奴隷”と呼ばれる剣闘ばかりを専門に行う奴隷階級の者達。名声を得て、金持ち連中の目に止まる事が出来れば自由を得るチャンスもあるらしいが、その多くは、無茶な闘いの中で命を落としたり、大怪我を負っても十分な治療を受けることが出来ずに死んでいったり、凄惨な末路を辿る者ばかりだと聞いている。おそらく彼のように、死にそうになっていたところを運良く助けられる事など、よっぽどの奇跡が起こらなければ有り得ない事だ。奴隷を単なる“労働力”としか見ていない連中には、今にも死に掛かった役に立たないものを買い取るメリットなどどこにもないからである。
「あ、あの――すみません。僕が奴隷出身だと聞いて、気分を悪くされたんですよね」
哀しそうに目を伏せるメラニオンを見て、俺は慌ててかぶりを振る。
「そういう訳じゃない。俺は奴隷を雇うような連中が嫌いなだけだ」
こんなに慌ててまくしたてたのでは説得力の欠片も無いんじゃないかと思ったが、くすくすと笑い出したメラニオンを見て、その思いは杞憂に終わったのだと確信する。
彼はおそらく、力でねじ伏せられる事の痛みを誰よりも深く理解しているのだろう。だから敢えて、相手を凌駕する力を持っているにもかかわらず、それを振るうことはしない。それに、理不尽な暴力を振るわれた時の、あの怯えた顔つきは尋常ではなかった。痛みを理解しているというよりは、もしかすると、病的なほど深い心の傷を負っているのかもしれない。
「貴方は変わった人ですね。奴隷なんてありふれたものにそこまで嫌悪感を示すなんて。姫様と同じだ」
「俺にはずっと家族が居なかったからな。独りぼっちで生きていかなきゃならねえ奴隷が市場で売られてんのを見てると、胸が痛くなる」
俺のグラスにワインを注いでくれていたメラニオンの表情がさっと曇るのがわかる。
「そうでしたか。それは……姫様も同じだったようです。彼女も、幼い頃ご両親に捨てられた過去をお持ちですから」
「そ、そうなのか?」
メラニオンに代わってワイン瓶を受け取り、彼のグラスになみなみとワインを注いでいた俺は、注ぎすぎたワインがボタボタとテーブルを汚している事に、数瞬の間気付けずにいたのだった。
「ええ、アルカディアの王は王子が生まれることを心から望んでおられましたからね。しかし、並みの男では足元にも及ばないほどの数々の武功を挙げた娘の噂を聞き、自分の考えは間違っていたと姫に謝罪し、もう一度姫を自分の娘として迎え入れたのだとか」
「ふーん、姫にも苦労があったんだなあ……」
「何でも、ご両親に捨てられた当初は熊に育てられたんだとか」
「く、熊あ?」
飲みかけのワインを吐き出しそうになるのをグッとこらえ、俺は熊と戯れる幼い日のアタランテの姿を想像しながら、笑いをかみ殺していたのだった。
「道理で怪物みたいに強くなるわけだぜ……納得だ」
「サイアスさん、姫に会った事があるんですか?」
驚きに目を見開いたメラニオンのワイングラスは既に空になってしまっている。
彼の予想外の酒の強さを目の前に、俺はまたも財布の中身を気にしつつ、それを決して表に出すまいと表情を強張らせていた。
「ああ、ここに来る時の船でたまたま一緒になったんだ。その時はまさか、あいつがアルカディアの姫君だなんて気が付きもしなかったけどな。船旅の途中で現れたガーゴイルの群れを、まるで蝿でも落とすくらいの勢いで平然と射ち落としてたぜ」
「ははは、それは間違いなくアタランテ様ですね」
乾いた笑いを浮かべ、俺達は一斉に喉の奥へとワインを流し込んだ。
「ところで、お前はアタランテと結婚するためにここへやってきたんだろ?」
グラスから口を離したメラニオンがちらりとこちらに視線を送る。妙な間を置いてから、彼は苦笑いを浮かべてゆっくりとグラスを置いていた。
「最初はそう思ってました。でも、きっともう無理なんです」
オイルランプの小さな火がゆらゆらと揺れ、その揺れに合わせるかのように、メラニオンの黒い瞳の奥にオレンジ色の光がちらつく。
「どういう意味だ?」
「僕、姫がここに到着したばかりのときに、一度お逢いしてるんですよ。アタランテ様は、親の都合で誰かと無理矢理結婚させられるのは心底まっぴらだと怒っておいでで、絶対に結婚できないようにするにはどうしたらいいのかと相談を受けたんです。僕は姫の願いを叶えるために、一緒になって策を考えて――結局、絶対に花婿が現れることの無いような選考方法を考え付いたんですけど、それって、要するに僕が姫の花婿に選ばれることも絶対無いってことなんですよね」
グラスに残ったワインをゆっくり傾け、メラニオンは自嘲していた。
「どんな選考方法なんだ、それ? まさか弓の腕前で対決するとか?」
「いえ、アタランテ様が最も得意とされているのは、弓術ではなく“徒競走”なんですよ。僕は今まで、アタランテ様ほどの俊足の持ち主には出会ったことが無い。空を駆ける天馬であっても、姫の俊足には敵わないでしょう」
驚きだ、としか言いようが無い。船上で披露していた弓の腕前も相当なものだと思ったのだが、それよりも得意なことがあったとは。俺は実際天馬にも乗ったことがあるのだが、馬術の得意な俺であっても天馬のスピードは恐ろしくなるほどに速いと思えた。何せ天馬は、俺が数十日かけてようやく踏破したミノス島からオリュンポス山までの距離を、半日足らずで駆け抜けてみせたのだ。それにも勝る速度なんて、もはや想像もつかないレベルだ。
「じゃあ、その徒競走でアタランテに勝った男だけが花婿に選ばれるってのか?」
「そうです、おそらく選ばれる者は誰も居ないと思いますが。それでさっき、その入れ知恵をしたのが僕だと嗅ぎ付けられてしまって――」
「ああ、それであの軍人どもに囲まれてたんだな」
「そういうことですね。あの軍人達のリーダー格の“ヒッポメネス”という男はかなり出世欲の強い男で、前々からアタランテ様以外にも王家の方々に言い寄って、出世を目論んでいるような節があったみたいで。まあ、あのアタランテ様があんな低俗な男に負けるなんて思えませんが」
仄かに怒りの色をちらつかせながら、メラニオンは穏やかな瞳を鋭く細めている。個人的な感情抜きにしても、あんなムカつく男が美人のアタランテと結婚するなんて光景を想像したら、誰だって気分が悪くなるのが当然だろう。
「わかんねえぜ、お前の講じた策は破ろうと思えば簡単に破れる。もし王宮内に、姫との結婚を目論む参加者と内通してる奴が居たらって事は考えたのかよ。姫がいつもの調子を発揮できないようにする方法は、それこそ星の数ほどあるぞ。いくら姫が相当な実力者だとしても、相手が正攻法で来るとは限らねえだろ。アタランテの花婿になるってことは、要するに次代のアルカディアの王になるってことだ。どんな汚い手を使ってでもその玉座を狙おうとする奴らが、この先吐いて捨てるほど湧くに決まってる」
「そんな事は言われなくてもわかってますよ!」
静かな店内に、メラニオンの叫び声は酷く大きく響き渡っていた。
吟遊詩人の竪琴の音が止み、他の客の視線が一気に集まるのに気付いたが、今はそれどころではない。敢えて気にしないことにして、俺は黙ってメラニオンの真っ黒な双眸をじっと見つめていた。
哀しみに暮れるメラニオンの表情を見たとき、突然俺の意識の中に、どこかで見た事のある光景が矢のように流れ込んでくる。
美しい霊峰。ここはオリュンポスの山の頂。
壮麗な神殿の庭に座り込む一組の男女がいる。
「ねえ――退屈だわ。どこかで面白い事、ないかしら」
ロイヤルブルーの露出度の高いローブから白い足がちらりと覗く。悩ましげにその足を組み直した金髪の美女は、何というか――物凄く目の遣りどころに困る感じだ。
「母上――毎日そればっかりじゃないですか。ちょっとくらい、地道にお仕事でもなさったらどうですか? 僕、こうして母上とお話している間にも、どんどん仕事が溜まっていってたりするんですけどねえ」
美女の隣に腰掛けた男は、こちらもまた彼女にひけを取らないほどの美青年だ。彼の背中には、鳥のような白い翼が生えている。俺にはどう見ても同じくらいの歳にしか見えないのだが、どうやらこの二人は親子らしい。おそらく二人とも、永遠の若さを持った神だということなのだろう。
「ねえ、エロス。私が地味な仕事が大嫌いなの、知ってるでしょう? ヘパイストスのように、醜い怪物たちと地下神殿に閉じこもって仕事ばかりする毎日なんて絶対に御免だわ」
「はいはい、それは身に染みてわかってますって」
苦笑いを浮かべた美青年は“エロス”と呼ばれていた。そして、彼女の出した鍛冶の神“ヘパイストス”の名前から推測される彼女の正体は――おそらくヘパイストスの妻の、女神アフロディーテだ。
「そういえば、地上のデロス島で今、アポロン様とアルテミス様のお祭りが行われていますよね。そこでは美丈夫と評判の、あの英雄アタランテが花婿探しをやっているそうです」
「アタランテ?」
アフロディーテは形の良い眉をぴくりと跳ね上げ、半ば睨んでいるような目つきでエロスの話に釘付けられている。聞き及ぶ限り、彼女はとりわけ男にもてはやされる美人が嫌いなはずだ。美の女神である自分の知るところで、他の女が美しいと褒められるのが大嫌いな性格だとか何とか。実に恐ろしきは、女の何とやらってやつだ。
「ああ、アルテミスに“永遠の処女”の誓いを立てた、あの男みたいに野蛮な女のことね」
「そうです。だけどね、彼女はその誓いを破るのが嫌で、結婚なんかしたくないと言って、花婿候補の男達に無理難題を押し付けて煙に巻こうとしているらしいんですよ。当然、そんな難題を易々と解決出来る男なんてそうそう居やしない。だから言い寄る男が後を絶たない。これからも彼女は、言い寄る男達を跳ね除けながら、それでも男にもてはやされて生きていくんでしょうねえ」
こいつ、母親をけしかけようとしてやがるんだろうか。涼しげに笑ったエロスは、みるみるうちに肩をいからせる母親を見て、満足そうに何度も頷いていた。
「お気持ちはわかります、わかりますよ母上。でしたら、どうでしょう? 母上も、退屈しのぎに彼女の花婿探しに一役買って差し上げては?」
「貴方はどうする気なの、エロス。当然私と一緒に地上へ降りてくれるのよね」
「そうしたいのはやまやまですけど、母上が天界を空けられたら、仕事がまた溜まってしまいますからね。そっちは僕がやっておいてあげますから、母上はどうぞ地上でごゆっくりなさってください。デロスには今、母上好みの美青年がたくさん集まってるみたいですし。ね、サイアス?」
ぞくりと身の毛がよだつのを感じ、頭の中の映像はそこで途切れた。俺の垣間見るこの映像は、過去か未来に起こる事実を克明に映し出したものであるはずだ。それは言わば白昼夢のようなもので、俺がその映像の中に影響を与える――ましてや、そこにいる人物とコンタクトを取るなんてことは絶対に不可能なはずだ。その逆もまた然り、であるはずなのだが――
映像が途切れる瞬間、エロスの奴がこちらに気が付いたような素振りを見せたのは気のせいなのだろうか。そういえば、前にもこんなことがあったような気がする。
「わかってますけど――だからって、どうしようもないじゃないですか。僕はただの狩人なんです。端からあの方の側に行くことなんて――」
そして当たり前の話だが、我に返った俺の目の前では、何事も無かったかのように現実の続きが始まっている。
先程の映像は、いつも通り俺が先を見通すために必要な情報――所謂“先見の明”であるはずだ。そうだとすれば、答えは簡単。俺の勘が、さっき見た映像をヒントに、この状況を切り抜けろと言っているのだ。
「もちろん、出来るに決まってんだろ? 何故かって言うと、ここからの策を講じるのが俺だからだ」
「え?」
信じられないというような目をして、メラニオンは怪訝な表情で俺を見つめた。頬杖をついた俺は、ニヤリと歯を見せ、ワイン瓶の残りの全てを彼のグラスに注いでやった。
「正攻法で勝てねえなら、こっちだって真っ向から勝負しなきゃいい。俺が思うに、花婿がお前ならきっとアタランテは覚悟を決めて結婚すると思うぜ。姫の幸せを願うなら、誰かに盗られちまう前に、何としてでもお前自身が花婿になって、自分の手で幸せにしてやればいいじゃねえか」
「もしかして、彼女に勝つ方法を思いついたと仰りたいんですか?」
鼻息を荒げて俺に食いついてきたメラニオンを宥めすかすようにグラスの中のワインを勧めると、俺は腕を組んで椅子の背もたれに体重を預けていた。
「簡単だよ、神様にお願いすりゃいいのさ。そうだな――こういう色恋沙汰に適任なのは、やっぱり美の女神アフロディーテじゃねえか」
「なんだ――」
予想通り“神頼み”の意味を一般的な意味の方で捉えたらしいメラニオンは、がっくりとうなだれ、うんざりした様子でワインを啜りだしていた。
「神様ってのはな、俺は“信仰”の対象なんかじゃねえと思ってる。あいつらは酷く気まぐれで、どいつもこいつも自分の悦楽や利益ばかりを優先する。だけど、あいつらが人間を超越した存在で、俺達に恩恵を与えてくれる存在である事は確かだ。だから俺は、祈りを捧げながらいつ与えられるとも知れない恩恵を待つんじゃなく、こちらから打って出て、あいつらを利用してやるのさ」
ぽかんと口を開けたメラニオンは、返す言葉も見つからないといった様子で、ただひたすら瞬きを繰り返している。いい具合に酒が回っているせいか、いつもより饒舌になっていた俺は、彼の唖然とする表情を如何にして塗り替えてやろうかという事に夢中になり、更に言葉を続けようとしたのだが。
メラニオンの細い瞳が俺の後方に向けられる――しかし、その視線はすぐに行き場をなくして宙を彷徨う。見てはいけないものを見ているような、奇妙な反応を示したメラニオンを訝ったその時。
「随分言ってくれるじゃないの、サイアス。あなた、神を冒涜するつもり?」
花のような甘い香りに包まれる。
後方から伸びてきた白く細い腕が、俺の首元に絡みついてくる。
「これはこれは――」
ゆっくりと振り返ったそこには、見覚えのある女が立っていた。
薄暗い店の中でも白金のような輝きを跳ね返す金色の髪。透き通るような白い肌と、悩ましげな美しいライン。そして、胸元と足元に大きくスリットの入った、星空を織り込んだようなロイヤルブルーのローブ。間違いなくこの女は、さっき俺が頭の中で覗いていた映像の女に違いない。
「女神アフロディーテ。このような薄汚れた俗世へわざわざお越しとは、驚きですね」
艶っぽい唇を微笑みで染め上げ、アフロディーテは身を起こす。
肩にかかった金髪を払いのけ、猫のようにしなやかな腰つきでゆっくりと歩いたアフロディーテは、俺の腰掛ける椅子の真横へと回り込む。
「私、わざわざあなたに会いに来たのよ」
「知ってますよ。さっき貴女のことを見てましたから。それに貴女は、俺達が店に入ったときからカウンター席にいらっしゃいましたよね。途中で気が付きましたよ」
店に入った瞬間に目にした、カウンター席の商売女風の客――暗がりでわからなかったが、二人は同一人物に間違いない。こいつは予め俺達がここに来る事をわかっていて、待ち伏せていたのだ。
「まあ、気付いてくれていたなんて嬉しいわね」
「貴女も人が悪い。気が付いているなら初めから声を掛けて下されば良かったものを」
口元だけを綻ばせた俺の笑顔は、さぞかし冷たく映った事だろう。
言っておくが俺は、こういう派手な女は好みじゃない。一見、恋をする事に何の興味もなさそうな女――そう、言ってみればアタランテのような女の方が、落とし甲斐も器量もあってよっぽど好みだ。
「あなた、私の力が欲しいんでしょう?」
テーブルを押し退けて目の前に立ったアフロディーテをぼんやりと見つめる。
「そうですね、友人を助けたいので。的確な助力を頂けるのなら誰でもいいんですが、この件に関しては、俺は貴女が一番適任じゃないかと思ってるんです」
お前に異性としての興味はない。
そう顔に貼り付けて見てやったつもりだったのだが、目の前の女には少しも堪えた様子などない。それどころか、更に興味深そうに俺を見つめたアフロディーテは、身を屈めて俺の顎に手を添えてくる。
花の香りがふわりと動く。彼女の髪がさらさらと動くたび、そこに虹のような光彩が生まれる。脳髄が痺れたように疼くのは、たぶん酔いのせいなんかじゃない。それはきっと、彼女の持って生まれた魅惑の魔法なのだろう。
「知っているわよ。アルカディアの姫と、そこに居る男を結婚させたいんでしょう? まったく、強すぎる女っていうのも考えものよねえ」
からかうような笑みを浮かべ、彼女はちらりとメラニオンを一瞥する。
どう考えても純情そうなメラニオンに、この妖艶な女神はまさに毒だ。彼はアフロディーテと目が合うなり、蛇に睨まれた蛙のようにおとなしくなってしまった。
「考えてあげてもいいけど、条件があるわ」
「条件、ですか」
来た――
こういうタイプの女の場合、だいたい並べ立ててくる条件には予測がつく。
問題はそこをどう切り抜けるか、だ。
「一晩私の相手をしてくれたら、考えてあげるわ」
俺の体を跨ぐように片膝を椅子に乗せたアフロディーテが、今度は正面から堂々と俺の肩に腕を絡めてくる。もはや俺と彼女との距離は、ゼロに近い。頭の奥の痺れが最高潮に酷くなっているが、ここで理性を失ってしまっては元の木阿弥だろう。鼻を鳴らした俺は、気のない笑みを浮かべて自信満々のアフロディーテを見た。
「ご冗談を。貴女には鍛冶の神ヘパイストスという生涯の夫がいらっしゃるでしょう?」
「こんなときにあの人の名前を出すなんて、厭な男ね」
拗ねたように言ったアフロディーテは、厭がっているというよりは悦んでいるような表情だ。
「でも、心配するほどのことでもないのよ。私、あんな人とはさっさと別れて自由になりたいんだもの。それに私、あの人にはまだ指一本触れさせてないのよ」
「俺の事を、貴女が自由を得るための口実にするおつもりで? それは複雑ですね」
皮肉を全面に押し出しながら、俺は肩をすくめ、口元を緩めてみせた。
「俺の生まれの事はご存知ですよね? 神である父親に人生を狂わされた俺は、端から神なんて信用しちゃいない。ですが、貴女が一人の女として俺のことを信用させる何かを示してくれたなら、或いは貴女の事を好きになるかもしれません」
「あなた――女神である私を利用しようとしているくせに、更に私に条件を出すつもりなの? 私とあなたでは存在意義として決定的な違いがある。同じではないのよ」
女神の空色の瞳に、微かな闇が宿る。凍てついた鋭い眼差しは、まるで鋼のように無機質だ。
ほら、本性を現した。お前らはやっぱり私欲と煩悩の塊なんだよ。
いい加減取り繕うのにも飽きた俺は、剥き出しの敵意を載せ、女神の中の闇を射抜こうとする。
「俺は単に、好きでもない女を抱くのが厭なだけです。俺の条件を飲めないのなら構いませんよ。アテはいくらでもありますから、他を当たります」
「言ってくれるわね――何ていけ好かない男かしら」
「それも知ってます。でも直す気はさらさらありませんね」
自嘲した俺が、何の気なしに女神から目を逸らしたその時。
花の香りが脳髄を貫く。
気が付いた時には、ほんのりと熱を帯びたアフロディーテのふくよかな唇が、がら空きの俺の口元を覆い隠していた。
意識の全てが白んでいきそうになるのを気力で何とか押さえ込み、俺は妖艶に哂う女神の顔に冷視を浴びせていた。
「いいわ――考えておいてあげる。明日アポロン神殿で待っていなさい。秘策を用意しておいてあげるわ」
「お待ちしてますよ、女神様」
ほんのりと頬を赤らめたアフロディーテは、微かに甘い香りを残しながら、名残惜しそうに椅子から立ち上がる。
再び妖しい腰つきでふらふらと店の出口へ向かった女神は、溶け込むように闇夜の中へと姿を消していた。
店中が痛いほどの静寂に包まれる。
彼女の気配が完全に消えた事を確認すると、体のいたるところが急激に弛緩していくのがわかった。
椅子からずり落ちた俺には、もはや立ち上がる気力すら残されていない。
テーブルの上から覗き込んできたメラニオンの声が、何日か振りの懐かしい声のように思えた。
「だ、大丈夫ですか?」
「んな訳ねえだろ……反則だぜ、あんなもん」
「ですよねえ」
俺を気遣っての事なのか、乾いた笑いを浮かべたメラニオンはカウンターに向かって飲み物を注文しようとしている。
机に突っ伏した俺は、勧められるがまま、注文されたワインを文字通り喉に流し込んでいた。口元を伝うワインを拭い、ドンと大きく音をたてて空のグラスを置くと、再びメラニオンがコポコポと二杯目のワインを注ぐ。
「せっかくいい感じに酔いが回ってやがったのに、すっかり醒めちまった」
「あの方、きっと本当に女神様なんですね――僕は最初半信半疑だったんですが、あの気配は間違いなく人間のものではない――でも凄いです。僕だったらもう、近くに来られただけで話す事すら出来なくなりそうです」
「あの女、最初からずっと俺に魅惑の魔法をかけ続けてきやがって……本当に魅了されちまったらどうしようかと思ったぜ」
「まあまず間違いなく、今頃ベッドの上でしょうね。その上運が悪ければ、家族が増えてたかもしれません」
苦笑いは崩さないまま、メラニオンは恐ろしい事を口にしていた。
知らず知らずのうちに女神に誘拐されて子供を作っちまった挙句に、その夫に浮気の容疑をかけられて迫害を受ける。冗談じゃねえ、どっかで聞いた俺の両親の話そのまんまじゃねえか。
鳥肌のたった腕をゴシゴシとさすりながら、俺は椅子の上で身震いしていた。
「全然笑えねえよ、その状況」
「ですよね……」
二杯目のワインも一気に喉元をくぐらせ、俺は心の底から溜め息をついていた。
「しかしまあ、おかげで何とか女神の後ろ盾を得る事は出来そうだな」
頬杖をつき、メラニオンの呆けた顔を覗き込む。
彼はどうやら“神”と会うのは初めてらしい。さっきから何度目にしたか知れない空のグラスにワインを注いでやりながら、俺はニヤリとほくそ笑んだ。
「また明日会おうぜ。太陽が真上に届く時間に、アポロン神殿でな」
皆さんこんにちは、またも後書きに現れたタチバナです。
前回の後書き、何も見直ししないで投稿したら、誤字脱字が酷くて泣けました。
あんな短い文章の中にどうしてあれだけ間違えられるのかと……
『夫イザナギと妻イザナギ』の記述で凍りつきました……名前いっしょやないかっ!
本当に日本神話好きなのかと疑われてもおかしくない記述……申し訳ございません;;
与太話はこれくらいにしまして、今回は『原作との大きな相違点』についてです。
アタランテ、メラニオン、ヒッポメネスの関係について。
本編では、メラニオンは“アタランテに命を救われた元剣闘奴隷の狩人”、ヒッポメネスは“アルカディアのイヤミな軍人”として描いておりますが、これ、原作と比べるとかなり捏造度が高いのです……。
原作では、アタランテとの徒競走に参加するのは、ヒッポメネス(またはメラニオン)という説が一般的です。要するに、この二人は同時には登場しないんですよね。
ヒッポメネスはアタランテに一目惚れした美青年、メラニオンはアタランテの従兄弟という説が有力です。
ヒッポメネスとメラニオンに関する資料ってほとんどなくて……とくにメラニオン! あまりにも資料が無くて設定が薄っぺらになってしまいそうだったので、ここはもう、分厚く捏造してしまえと思って今回の設定を生み出しました。
原作のファンの方(とくにヒッポメネスファンの方)には本当に申し訳ない……
これもサイアスの存在が生み出した歴史の歪みということでお許しください……(無理)
そ、それではまた!
拙作を読んで下さってありがとうございます。
また捏造したら戻ってまいります(汗)