女傑アタランテの恋物語・2 (2011/01/26 改稿済)
船旅を続ける事数日。ミノス島から遥か北に位置するデロス島へと辿り着いた俺達は、ようやく踏みしめた陸地の感覚を楽しもうと、島で数日宿を取ることにしていたのだった。
とは言ったものの、観光気分を満喫し、街を駆けずり回っていたのはイカロスとアステリオスの二人だけで、俺は島へやってきてからの丸二日間、部屋に閉じこもって寝てばかりいたのだが。
「でさ、すっごくキレイだったんだよね! アポロン様の神殿! 僕、明日はアルテミス様の神殿に行ってみたいなあ!」
酒場で夕飯を食べ始めた途端、イカロスの奴は目の前の食事に手をつけようともせず、この二日間の冒険譚ばかりを意気揚々と話し続けていた。
どうやらここデロス島は現在、街をあげて“太陽と月の祭”という年に一度の大きな祭が行われている最中のようで、どこもかしこも尋常ではないくらいの観光客でごった返しているのである。
俺が街に出たくない理由はまさにそこ。俺は元々静かな場所でのんびり過ごすのが好きなタイプだ。わざわざ人の多いところに喜び勇んで出かけていく連中の気持ちなんか、どれだけ頭を捻ろうが理解出来るような気がしなかった。
「ね、明日はサイアスも行くでしょ? こんなにキレイな街に来たのに宿に引きこもってばっかりいたら勿体無いよ!」
「あー、わかったわかった。どうでもいいけどお前、喋るのは食ってからにしろよな。食いもんが冷めちまうだろうが」
返事をしたからといって、こいつに俺の明日の予定を決める権限を与える気なんか毛頭無かったのだが、こうでも言わなけりゃ、いつまでたっても話は終わらないのだろう。俺は相変わらずテーブルの上の食事だけを見つめながら、適当に相槌を打ってやり過ごそうとしていたのだった。
「僕、あんまりお腹空いてないんだよね……二人とも僕の分まで食べていいよ」
下腹部をさすりながら、げんなりした様子で食べ物を見つめるイカロス。口いっぱいの食べ物をワインで流し込み、俺は黙々と食事を続けるアステリオスを睨み付けた。
「おい、イカロスに買い食いさせんなって言っただろ。こいつは目新しいモンには何でもかんでも興味持ちやがるから、無駄遣いが多いんだってあれほど言ったじゃねえか」
「いや、お金はほとんど使ってないよ」
「何?」
もくもくと湯気の立ち上るスープの器に息を吹きかけながら、アステリオスは蒼い瞳をぐるりと巡らせた。
「イカロスと一緒に居ると、女の人が食べ物をくれるんだよね。露店のお姉さん達がさ」
細く目を据わらせ、アステリオスはスープの器をゆっくりと傾ける。イカロス一人がちやほやされるのは面白くないと言わんばかりの仏頂面で。
「見ず知らずの他人から貰ったモンを、易々と口に入れるな! そのうち腹壊すぞ!」
「ご、ごめんなさい……」
しゅんと肩をすくめたイカロスは、眉をひそめて子犬のように縮こまっていた。彼の前に置かれていたパンに手を伸ばしたアステリオスが、突然ニヤニヤと厭な笑みを浮かべ、うなだれた子犬にそっと耳打ちをする。
「何かさ、サイアスってイカロスのお母さんみたいだね。まあ僕だったらあんな口うるさい女とは絶対結婚しないけど」
「てめえ、殺されたいのか?」
調子付いたアステリオスをどやしつけてやろうと立ち上がった俺の視界を、山ほど盛り付けられた大量の料理が遮っていた。慌てて振り返ると、そこには同じようなボリュームの料理を反対側の手にも携えた酒場の女将がニコニコしながら立っていたのだった。
「あ、おばさん。それこっちに置いてくれる?」
「あいよ。お兄さん、男前だから大盛りサービスにしといたからねっ!」
「てめえ、どんだけ大食いなんだよ! 金払うの俺なんだぞ!」
「いいじゃないか。お金がなくなったらさ、イカロスをちょっとだけその辺のお金持ちのマダムか、美少年を愛するおじさんに預けて、チップを戴いて来て貰えばいいんだからさあ」
どうやらアステリオスの目が据わっているのは、酒のせいでもあるらしい。頬を紅潮させ、やや血走った目をイカロスに向けたアステリオスは、ぽかんとするイカロスに向かって溢れんばかりの笑顔を見せていた。
「アステリオスが言ってるのってどういう意味なの?」
「こういう奴の事を人間のクズって言うんだ。クズのいう事にいちいち耳を傾けるな」
アステリオスのすぐ側に置かれたワインの瓶をグラスに向かって傾けた俺は、ほんの数滴ほどしか中身を吐き出さないワイン瓶に向かって舌打ちをする。
「ねえ、お兄さん方。あんたらも、美人のお姫様と結婚したくてここにやってきたクチなのかい?」
サービスだとにっこり笑いながら、テーブルの真ん中に新しいワイン瓶を置いてくれる女将。しかし、その話を聞いて、明確な反応を返せる者は一人も居なかった。
「何だ、違うのかい? いや、三人とも男前だからねえ。あたしはてっきり――」
椅子が床に転がる音も気にする事無く素早く立ち上がったアステリオスが、すっかり荷物を下ろし終えた後の女将の手を取り、酔っているとは思えないほどの真剣な表情で彼女を真っ直ぐに見つめていた。
「おばさん――美人のお姫様って? 詳しく聞きたいんだけど」
年甲斐も無く頬を赤らめた女将は、ひたすら嬉しそうにくねくねとしながら話し始める。
「いやさ、実はね。二日前にミノス島からやってきた船に、あの“アルゴス号乗員”に選ばれて旅をしていたアルカディアのお姫様が乗ってたらしくてね。お姫様は祖国に凱旋するつもりで、毎年この島の祭にやってくるアルカディアの王様と合流したらしいんだけど、そこでどこがどうなったのか、この祭に便乗して婿候補を探すって話になったらしくてね。アポロン神殿で花婿選びの参加者を募集してるらしいんだよ」
「何でいきなりそんな話になるんだよ」
「さあねえ、“太陽と月の祭”は全国から人の集まる大きな祭だからじゃないかい? それに、どうもお姫様は前から結婚するのを嫌がってたらしいからねえ。きっと花婿を連れて帰ると思ってた王様が、手ぶらで帰ったお姫様を見て、怒っちまったんじゃないのかねえ」
いかにも“噂話は三度の飯より好き”と顔に書いてあるような女将のこと、今の話も八割方推測の域を出ない、と言ったところではないだろうか。具体的な開催場所を口にしているあたり、花婿を探している姫とやらが居るのは本当の事のようだが。
「サイアス、行こう! 美しい姫君が僕を待ってる!」
いつの間に酔いが醒めたのか、それとも最高潮に酒がまわってやがるのか。
きりりと口元を引き締めたアステリオスは、声高らかにアポロン神殿の方角を指差し、瞳を輝かせている。
「美しい姫君、ねえ――俺はどうも怪しい気がするけどな。何せその姫様とやら、“アルゴス号乗員”の一人って噂なんだろ? もしかしたら一つ目巨人みてえなゴツイ女かもしんねえぞ」
面倒臭いことに首を突っ込みたくなかった俺は、何としてでも女好きのアステリオスを諦めさせようと、つとめて真剣な表情で、ありありとその推測を口にした。俺の言った想像上の巨人女を思い描いているのか、アステリオスは不可解な表情で天井を見つめては、その顔色を徐々に蒼く染め上げている。
「ねえねえ、“アルゴス号乗員”って何なの? すごいの?」
「お前な――勉強不足もいいとこだぞ」
呆れて溜め息をついた俺は、勉強嫌いの弟分に、なるたけ易しく説明してやろうと言葉を探していた。
「“アルゴス号乗員”ってのは、テッサリアの王子イアソンが、奪われた王位を取り返すために“金羊毛皮”って宝物を探し出す目的で組織された船団だ。イアソンはペリオン山に住む賢者ケイロンの弟子でもあるから、面識はないけど一応俺の兄弟弟子でもある。イアソンは聡明で誠実な王子で、彼を慕って名だたる英雄が集まったって話だ。かの有名な豪傑ヘラクレス、竪琴の名手オルフェウス、アイギナ島の剣豪ペレウス、スパルタの双子の王子ポルクス、カストルなんかも居たらしいが、男ばかりのその船に、たった一人だけ女の英雄が乗ってたんだ」
そこまで言って、俺は自分で自分の言葉に驚きを隠せないでいた。
「ど、どうしたの? サイアス」
黙りこんだ俺に、イカロスが怪訝な表情を向ける。
名だたる英雄の集う“アルゴス号乗員”の噂はミノス島でもとても有名だった。俺もいろんな人づてに何度も話を聞いたもんだ。だから俺は、その英雄達の名前を虚でだって列挙出来る。
それなのに、何故気付かなかったんだ?
“アルゴス号乗員”の英雄譚なんて、遥か遠い天空の上の出来事だと認識していたからか?
「おい、女将。その姫様の名前って“アタランテ”って名前だよな?」
俺が口にしたその名前に著しく反応したのは、麗しの姫君に興味津々のアステリオスだけではなかった。
「えっ? アタランテさんって、あの船に乗ってた白いマントの人? あの人、女の人だったの?」
「おやまあ、よく知っておいでだね。そうだよ、姫のお名前は確か、アタランテ様だよ。何だ、あんた達同じ船に乗ってたのかい?」
「ぼ――僕――」
まずい、失敗した。コイツを諦めさせる計画だったのをすっかり忘れていた。
アステリオスは、希望に満ち溢れた表情でまだ見ぬアポロン神殿をうっとりと眺めている。
俺の推測が正しければ、間違いなくコイツは――
「アタランテと結婚し――」
「貴様! よくも抜け抜けと!」
何かが弾け飛ぶ音とともに、激しい勢いでテーブルに何かが降ってきた。咄嗟の反応で女将に貰ったワイン瓶だけは辛くも死守した俺は、その“何か”を投げつけてよこした一団を睨み付けていた。
「何しやがんだ、クソ野郎! 食べ物がめちゃくちゃじゃねえか! 弁償しやがれ!」
どさくさにまぎれて飲食代を払わせようと思いついたことだけは正直に言っておく。しかし俺はそれ以上に、暴力が嫌いだ。暴力を盾に脅せば、何でもまかり通ると思っている連中は、自己の崇拝するその“暴力”によって滅びればいいとさえ思っている。テーブルの上に弾き飛ばされてきたのは一人の青年だった。見れば青年は、大勢の男達に取り囲まれ、思い切り殴り飛ばされたらしかった。
「何だと! 貴様ら、アルカディアの誇り高き戦士に向かって何という無礼な口を!」
「おいおいおい、貴様らって、いつの間にか僕らも含まれてるじゃないか。面倒だなあ」
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
悩ましげに目元を押さえ、面倒臭そうな表情を隠そうともせずに肩をすくめたアステリオス。しかし、隣に座っていたイカロスはアステリオスを完全に無視し、殴られた頬を真っ赤に腫らした気弱そうな青年に駆け寄っていた。
「す、すみません――僕は大丈夫です」
すっかり怯えた様子で語尾を揺るがせる青年は、どう見積もっても大丈夫そうには見えない。
これ以上殴られたらショックで死んでしまうのではないかと思えるくらいに竦み上がった青年を目にした俺は、一団のリーダー格と思しき、絵に描いたような性悪面の“誇り高き戦士”とやらに食って掛かっていた。
「おい、こんな弱そうな男相手に数人掛かりか? アルカディアの誇り高き戦士ってのは、随分勇敢な奴らばっかりなんだな」
「き、貴様――これ以上我々を侮辱すると、この場で首をはねるぞ! そこを退け!」
偉そうに息巻く何とかの戦士達は、全部で七人。その口ぶりと武装した出で立ちから推測するに、全員が訓練されたアルカディアの軍人なのだろう。後ろでぶつくさ文句を言っているアステリオスも無理矢理頭数に入れるとして、重装兵相手に七対二では少々分が悪いか。
自分でも感心するほど冷静に状況を分析していた俺の前に、ずんぐりした太い木の幹のような影が落ちる。
驚いて目を見開いた視線の先に立っていたのは、憤慨した様子で腕を組んだ酒場の女将だった。
「誇り高いんだか埃っぽいんだか知らないけど、飲み食いする気の無い奴はとっとと出てっとくれ! さもなきゃウチの若い衆に頼んで、クラーケンの餌にしてもらうからね!」
女将の一声とともに、店の裏から日焼けで真っ黒になった屈強な男達が睨みを聞かせながらわらわらと集まってくるのが見えた。ここは絶海に浮かぶ島国。おそらく彼らは皆船乗りなのだろう。さすがの兵士達も、海の荒くれたちに囲まれたとあっては手も足も出ないようだ。みるみるうちに萎縮してしまった兵士達は、覚えてろと月並みな台詞を吐き捨て、ぞろぞろと退散して行ったのだった。
「あ――しまった、アイツら!」
奴らの姿が完全に見えなくなった頃、俺は奴らに食って掛かった一番――いや、ついでの理由を思い出し、愕然としていた。
「飲み代払わせようとしたのに――帰りやがった、あの野郎!」
「サイアスもさ……アステリオスのこと言えないくらいクズだよね、きっと」
じっとりと俺を睨むイカロスの事は無視し、俺は胸元の財布を乱暴に引っ掴み、中身を数える事に全身全霊をかけていた。
「や、やべえ……絶対足りねえ」
俺の呟きに、女将とその屈強な取り巻きが著しく反応した事に気が付く。こうなったら、本当にイカロスをどっかに置いてくるしかないのだろうか。
「あ、あの。僕が払います」
そんな事をくそ真面目に考えていた矢先のこと。
思わぬところからかかった声に、俺は天からの思し召しを感じずにはいられなかった。
「ほ、ほんとか?」
さっきまでは気弱そうだのなんだのと下に見ていた青年だったが、それが今となっては勝利の女神のように見えた。
力なく微笑んだ青年は、ゆっくりと頷いて財布の紐をくるくると緩めていた。
アルゴス船乗員についての解説を少し。
本文中でサイアスが列挙していた英雄達ですが、ヘラクレス以外はあまり名前を知られていない気がするので、せっかくなので補足しておきます。
本編とはあまり関係ないので、興味のある方のみお読みください。
オルフェウス……この人は結構有名かも?“決して振り向いてはいけない”という条件で、死んだ妻エウリュディケを冥界から連れ帰ろうとし、最後の最後で振り返ってしまい、失敗してしまうというお話が有名です。ほとんど同じ内容の話が日本神話にもあります。夫のイザナギが妻のイザナミを死後の世界の“黄泉比良坂”から連れ帰ろうとし、失敗してしまうというお話はご存知でしょうか?他に、英雄ペルセウスと日本の八幡神の伝説がそっくりだったり、日本神話とギリシア神話には奇妙な類似点がいくつもあります。
ペレウス……トロイア戦争で八面六臂の大活躍を見せた英雄アキレスの父親です。ペレウスとアキレスは両者とも賢者ケイロンのもとで修行を積んでいて、親子揃って歴史に名を連ねる戦士へと成長します。
ポルクス・カストル……黄道十二星座の中の一つである双子座は、ポルクスとカストルの星座です。彼らには絶世の美女と名高いヘレネという妹がいて、やがてこのヘレネを巡り、“トロイア戦争”が勃発します。