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女傑アタランテの恋物語・1 (2011/01/26 改稿済)

扉絵:『Feel the wind!』【(左から)アステリオス、イカロス、サイアス】


挿絵(By みてみん)

 爽やかな潮風が鼻孔をくすぐっている。

 鮮やかなターコイズブルーに染まった海の眩しい照り返しは、夜の空に輝く天の川(ミルキーウェイ)の星屑をばら撒いたように美しかった。


 一体どんな大金持ちがそのスポンサーについて居るのかは不明だが、使われなくなってしまった軍用艦を改造して作られたというその大型の三段櫂船(さんだんかいせん)は、一般的な周遊船よりも揺れが少なく、乗り心地はすこぶる良好。漕ぎ手の数も段違いに多い事から、船の叩き出すスピードも凄まじく、疾走するような勢いで甲板を拭き抜けていく潮風がとても気持ち良かった。


「おええええええ……」


 まさに順風満帆の船旅を現在進行形で満喫している俺の耳に飛び込んできたのは、楽しげなカモメの鳴き声――だけなら良かったのだが。


「アステリオス、大丈夫? さっきからずっと吐いてばっかり」

「おい――てめえ、せっかくの観光気分が台無しじゃねえか。吐くのは勝手だが、俺の目の届かない所で吐いて来い」


 甲板で海に向かってひたすら嘔吐(えず)きまくっているのは、ほんの数日前にひょんな事から一緒に旅をすることになったアステリオスだ。

 港を発つ前、ほんの少し歳が上だからって、散々俺の事をおちょくって遊んでいたのを根に持っていた俺は、船が動き出して間もなく甲板から離れられなくなってしまったお調子者を見て、ニヤけが止まらなくなっていた。


「ちょっとサイアス! アステリオスは具合が悪いんだから、そんな風にからかっちゃ駄目だよ!」


 ぐったりしているアステリオスの背中をさすりながら、せせら笑う俺に食ってかかってきた少年は、俺の師である建築士ダイダロスの息子、イカロスだ。俺にとっては弟みたいな存在で、何でもかんでも無邪気に感動してはしゃぐ姿は歳相応の子供(ガキ)そのものなのだが、持ち前の正義感の強さと博愛の精神だけを鑑みれば、もしかしたら俺よりもずっとしっかりしているのかもしれないとさえ思っている。


「サイアス――陸に上がったら覚えてろよ――」


 切れ長の双眸にうっすらと涙を浮かべ、端正な顔立ちを苦悶に歪めたアステリオスが、恨めしそうに俺を睨んでいる。


「は? 何だって? 聞こえねえなあ。今までずっと死んでたから、船に乗るのは初めてだったって? 冥界にもあったろ、骸骨の爺さんが船頭やってる渡し舟」

「サイアスったら! もう、やめなって!」


 何か言いたげに動かしかけた口を物凄い勢いで塞いだアステリオスは、再び蒼い海に向かって苦悶の火種をぶちまけていた。


「おい、君――大丈夫か」


 一転して波乱万丈な船旅を送っていた俺達に、突然声を掛けてくる者がいる。目元以外の全身を白いマントで覆った、いかにも怪しい奴だ。


「酷い船酔いのようだね――どれ、私に診せてみなさい」


 ぽかんと口を開けるイカロスを脇へと追いやると、声変わり前の少年のようなハスキーボイスを響かせ、白マントはアステリオスを船の(へり)にもたれるようにと促していた。


「いいかい、私の目をよく見て。大丈夫だ、すぐに良くなる」


 マントの隙間からのぞく猫のように吊り上ったブルーの双眸が、蒼ざめたアステリオスの虚ろな瞳を捉えていた。


「え――」


 ぼんやりと視線を返したアステリオスは、ほんの数秒その猫目に魅入られていたかと思うと、突如として雷でも落とされたかのように大きく体を仰け反らせ、硬直していた。


「ど、どうしたの! アステリオス!」


 その異常な様子に驚いたイカロスが、悲鳴に近い叫び声を上げてアステリオスに駆け寄ろうとする。しかし、白マントの意図を汲み取ることができた俺は、敢えてそれを制止しようとイカロスの腕を取っていた。


「待て、黙って見てろ」

「どうして? アステリオスが――」

「あ、あれ?」


 やはり、俺の目に狂いはなかったらしい。訝るイカロスに、あれを見ろと顎で合図を送ると、そこにはすっかり元の顔色を取り戻したアステリオスが、驚いたように瞬きを繰り返す姿があった。


「何か、いきなり体が軽くなったような気がするんだけど」

「そうか――それは良かった」


 マントのせいでほとんど表情はわからなかったのだが、立ち上がった白マントが嬉しそうに微笑んでいた事は、その細められた両目を見れば一目瞭然だった。

 差し伸べられた手を掴み、続けてアステリオスも立ち上がる。腑抜けたようにぽかんと白マントを見つめた彼は、不可解な表情を浮かべ、首を傾げるばかりだった。


「何をしたの? まさか船酔いの治る魔法でも使ったのかい?」

「はは、残念ながらそんな都合のいい魔法は無いな。私が君に行ったのは、もっと単純な施術だよ」


 肩を震わせる白マントに一層怪訝な表情を向けたアステリオスは、助けを求めるように俺の方を振り返っていた。見れば、隣に立っていたイカロスも、似たような表情を浮かべて俺に視線を送っている。


「――たぶん“催眠術”をかけたんじゃねえかと思うけど」

「催眠術?」


 聞き慣れない言葉に、イカロスとアステリオスは見計らったように声を重ねていた。


「魔法とは全然違う、人間の“思い込みの力”を利用した施術だ。たとえば、“これは万病に効きめのある薬だ”と思い込んで、何の効能も無いその辺の雑草を何年も食べ続けたとするだろ。個人差はあるけど、その草を食べているから自分は健康だと強く思い込むことで、実際本当に健康を維持出来たりすることがある。催眠術はその原理の応用だ――それを自分の意思で瞬時に相手に掛ける方法となると、俺にはわかんねえけど。おそらくアステリオスは、“船に乗っても酔わない”って暗示をかけられてるんだ」

「ほう――よくわかったね。君は随分と博識なようだが」


 こういうのもたまには悪くない。一度に三人から感心の眼差しを向けられた俺は、内心ニヤけてしまいそうになりながらも、俺の意思とは関係なく引きつろうとする口元の筋肉を落ち着かせようと躍起になっていた。


「お――おい、まずいぞ! あれを見ろ!」


 不意に、他の乗客の叫び声が俺の耳を(つんざ)いていた。

 声のした船首を振り返ると、船の進行方向に向かって何やら数名の乗客たちが喚き散らしているのが見えた。


「何か変な生き物がこっちへ向かってきてるよ!」


 飛ぶように船首に向かって駆け出し、目を凝らす。真っ先に何かを見つけたらしいイカロスが、前方の遥か上空に浮かぶ黒い飛行物体を指差していた。一見すれば鴉の群れのように見えるそれは、まさか――


「ガーゴイルだ――!」


 アステリオスの呟いた名前――実物を目にするのは初めてだが、聞いた事がある。

 痩せこけ、すっかり毛髪の抜け落ちた人間のようなその姿。彼らの出で立ちは人のそれとよく似ている。しかしその一方で、不健康どころでは片付けられないほどの鉄錆色の肌に、尖った耳。異常にギラギラとした心の宿らぬ瞳。その醜悪さは、人とは似て非なるものだ。何より決定的に人と一線を画していると言えるのは、背中に携えた一対の蝙蝠(こうもり)のような翼。


水夫長(ケレウステス)(※1)! 船を旋回させろ、接触しちまうぞ!」


 蟲の羽音のように耳障りな鳴き声をあげ、怪物の一団は確実にこの船を目指しているように見えた。


「んな事ぁわかってる! やってるさ!」


 甲板で泡を食っている数人の操舵手を一喝し、俺はイカロスを振り返っていた。


「イカロス、お前は船の下段に隠れてろ。丸腰じゃやられちまうぞ!」

「で……でも」


 じりじりと後退(あとずさ)るイカロスは、不安げにこちらを見つめたまま、すぐに立ち去ろうとはしなかった。肩に担いでいた剣を下ろし、不規則な軌跡を描くガーゴイルの不気味な姿を見据えた俺は、銀色の剣を鞘から静かに抜き放っていた。


「隠れてるのがイヤなら、武器を探して来い。俺の分の弓矢も忘れんなよ」

「うん、わかった!」


 微かながら歓喜の色の宿った眼差しを向け、にっこり笑ったイカロスは、くるりと(きびす)を返すと、一目散に船の下段へと続く梯子(はしご)へ向かって駆け出して行った。


「さて――やべえな、どうする?」


 それまでつとめて余裕の表情を見せていた俺だったが、雷雲のように空を覆うガーゴイルの群れを見つめていると、胸に湧き起こってくるのは良くないイメージばかりだ。


「何でこんなところにガーゴイルが居るんだろう? 奴らはよほどの事がない限り、冥界の入口の荒野にしか姿を見せないはずなんだけど」


 アステリオスが空に手をかざした瞬間、何も無かった彼の手中に、身の丈の倍ほどもある長柄の鎌が現れていた。


「一応身を守るために武器を出してみたけど、きっと僕はここじゃ役に立てないね。これを振り回したらきっと、あそこにあるマストごと君をぶった斬ってしまいそうだ」


 その長さから推測するに、大鎌にはかなりの重さがあると思われる。しかもそれを自在に振り回そうとするのであれば、相当な腕力が必要になるだろう。彼のような細面の優男が軽々とそれを扱う姿は、異様以外の何ものでもない。しかし、船の上はまさに戦場。敵との距離もあと百ペーキュス(※2)を切っているであろう中、そんな事を気にしている者は一人として居なかった。


「鎌の刃の部分を下にして、その柄で殴るってのは?」

「難しいね、反り返った刃で怪我をしなければいいんだけど」


 苦笑したアステリオスは、お手上げとばかりに両手を持ち上げ、嘆息を漏らしていた。

 しかし、俺も人の事は言えない。リーチを生かすことの出来るアステリオスの武器に対し、俺の武器(えもの)は剣。どう足掻いても、空を飛んでいる怪物に有効な武器であるとは言えない。奴らが近付いて来た時を狙って斬りつければ使えない事も無いが、それではきっと、自分の身を守ることで精一杯になってしまう。


「うわああああああっ! 助けてくれっ!」


 先陣を切って突っ込んできた一匹のガーゴイルが、甲板に居た船員の男一人をかっ(さら)って行くのが見えた。無造作に足首を掴みあげられ、遠心力によって四方に体を振り回された男は、あちらこちらに体をぶつけながらも、必死に助けを求めて悲鳴をあげ続けている。


「くっそ……こっからじゃどうする事も出来ねえ! いっそ剣を投げちまうか?」


 投げ槍のごとく剣を構えた俺が、本当にそれを投げてもいいものか考えあぐねていたその時。

 激しく空気の擦れるような音がしたかと思うと、俺の後方から放たれた一本の矢が空へと舞い上がっていくのが見えた。

 照りつける太陽の光を一心に受けた矢は、鮮やかなアーチを描きながら、まるでそこに吸い寄せられているかの如く、ガーゴイルの曇った大きな目を目指して突き進んでいく。


 鳥肌の立つような断末魔の叫びがこだまする。

 潰された瞳を押さえることに気を取られたガーゴイルは、掴んでいた獲物を何の躊躇もなく振り落としていた。


「――あ、あいつ!」


 大絶叫とともに海に墜とされてしまった船員の無事を確認しようと、船の縁に駆け寄ろうとした俺の肩を叩く者が居る。振り返った先に立っていたのは、二本目の矢をつがえた射手――白マントだ。


「構うな、あいつは船乗りだ。おそらく自力で上がって来られる。君が成すべき事はあいつを助ける事ではないはずだ」


 言い終わるか終わらないかのうちに、白マントが引き絞った弓を弾く。

 空を裂いて弧を描いた矢は、再び別のガーゴイルの目を正確に射抜いていた。


「す、凄い……あんなに小さな的を射抜けるなんて」

「ああ。あれじゃきっと、俺達の出番は――」


 地獄からの呼び声のような、凄まじい咆哮が耳をかすめる。

 驚きに身を翻すと、片目を潰され、怒りに我を忘れたガーゴイルが急降下してくるのが見えた。


「いや、まだ出番はあった」


 ニヤリと微笑んだ俺は、素早く銀色の切っ先を翻し、渾身の力を込めて風を薙いだ。

 俺の放った剣圧に怯んだガーゴイルが上空へ退避しようとしたときにはもう、時既に遅し。

 銀の一閃によって首と胴体を繋ぐ全ての組織は寸断され、ガーゴイルは紫色の液体をぶちまけながら絶命していた。


「うわー、気持ち悪いなあ。これ、誰が片付けるの?」


 立ちこめる異様な臭気に鼻を覆ったアステリオスが、ニンマリと笑みを浮かべて俺を見ていた。


「そんなもん、船員に決まってんだろ。乗客の俺らがこんだけ仕事して、従業員がそれくらいの事もしねえんじゃ、乗船料なんざ払えねえ」


 釣られてほくそ笑んだ俺が再び白マントの居た後方を振り返る。空を埋め尽くしていたガーゴイル達はまさに、その半数をたった一人の魔弾の射手によって射ち殺され、すっかり戦意を失くして逃げ帰ろうとしていた。


「――え?」


 不意に、甲板の上に生まれたつむじ風が、白マントのフードをめくり上げていた。

 フードの中から、輝くような金色の髪とともに現れたのは、月の女神アルテミスを思わせるような、凛とした気高い美しさをたたえた、一人の女だった。


「君、女の子だったのか」


 ぽかんとしていた俺の脇をすり抜け、アステリオスが女の前へと歩み寄っていた。明らかな下心を隠そうともせず、すっかり緊張感の失せた腑抜けた(ツラ)で。


「君みたいに綺麗な子が、凄い弓の名手だなんて――」

「そういう事を言われたくなかったから、姿を隠していたのに」


 ところが、相手の反応は芳しくない。ほんのり頬を赤らめたアステリオスに対し、女はさっきのガーゴイルを見る目とさほど違わないような冷たい目で彼を睨み返している。


「船に乗る前も、女が船に乗るのは不吉だとかなんとか言われて散々足止めを食ったんだ。これだから頭の堅い男は――面倒だから、私が女だという事は口外しないようにしてくれないか」


 うんざりしたような顔で再び深々とマントのフードを被った女は、すっかり骨抜きにされているアステリオスには目もくれず、すたすたと俺の前に歩み寄ってくる。


「もちろん、君もだ。それとも君も、港の男達と同じように、女が船に乗るのは不吉だとか思っているのか?」


 俺とほぼ変わらないほどの背丈の女は、苛付いた口調で俺を()め付け、指を突き立ててくる。


「いや――そんな事は思っちゃいねえけど。むしろこの船は、あんたが乗り合わせてなかったら、確実に沈んでたと思うぜ」


 愛剣にべっとりと纏わり付いた、胸を抉られるような異臭を放つ液体を海に向かって払いながら、俺は少しも目をそらすことなく女を見つめていた。


「そ――そうか。それならいいんだが」


 意表を突かれたように目を見開いた女は、バツの悪そうな表情で頬を掻くと、そそくさと視線を空に泳がせていた。


「私はアタランテという。故郷のアルカディアを目指して旅をしている所だ。君の名前は?」

「俺はサイアスだ。別にどこを目指してるってわけでもねえけど、各地を旅して廻ってる」

「そうか、ところで君は――」

「サイアス!」


 アタランテが、妙な表情を浮かべて何かを口に出そうとしていた矢先、後方から大荷物のイカロスが大慌てで駆け寄ってきていた。見れば、その小さな体でどれだけ無理をしているんだと言いたくなるほど、たくさんの剣や槍、盾を引き摺るように抱えながら息を切らしている。こいつ、まさか――


「よく探したんだけど、弓矢が見つからなかったんだ」


 ほんの少しだけ呆れつつも、こみ上げてくる笑いをかみ殺しながら、俺は泣きそうに顔を歪めたイカロスに一瞥をくれてやった。


「もう弓矢は要らねえよ。つーか、武器自体もう必要ないぞ」

「そ、そんな――せっかく必死で掻き集めて来たのに……」

「誰も死んでないんだからいいだろ、別に」


 突如、船内に歓声が湧き起こる。


 どうやらガーゴイルに引きずり回された挙句に海へと墜落してしまった船員が、他の船員によって引っ張り上げられたらしい。俺はとめどなく溢れ返る勝利を祝う空気に満足しながら、ばらばらと足元に荷物を落とし、がっくりとうなだれるイカロスの頭を軽く小突いていた。


「今日もいい天気だ」


 眩しい日差しにすっと目を細める。

 何事もなかったかのように穏やかさを取り戻した空は、海の煌きとよく似た、宝石のような紺碧をたたえていた。






※1=船の操舵手をとり仕切る立場の者。船長に近い立場。

※2=古代ギリシアで使用されていた長さの単位。1ペーキュス=約47.4センチ。

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