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名工ダイダロスの受難・4 (2011/01/26 改稿済)

扉絵:アステリオス イメージ画


挿絵(By みてみん)

「“先見の明”か――なかなか興味深い力だな、サイアス。私が望んだ条件とは少し違っているが、まあいいだろう」


 俺の視界は突如として再び現実へと引き戻された。

 薄暗い森の奥で立ち尽くすミノス王。そのすぐ側でうずくまるミノタウロスと、俺の目の前に立ち塞がり、泣きそうな目でこちらを睨みつけるイカロス。俺が脳裏の映像に気を取られていたのは数瞬のことで、その映像を目にしたからといって、それだけでとくに状況が変わることはない。定められた運命を変えるためには、そこで得られた情報によって未来を予見し、行動しなければならない――はずだった。


「あ、あんたは――」


 俺が何も行動を起こしていないにもかかわらず、先程までとは大きく違った要素が一つだけ生まれているのがすぐに分かった。


 彼を実際に目にするのは初めてのはずだ。

 初めて目にする気がしないのはおそらく、俺がさっきまでこいつの過去の行動を覗き見ていたせいだ。

 目を合わせるだけで死を想起させるような禍々しい気配。己の存在を歪まされているかのような、圧倒的な威圧感。目の前に立っているのは紛れも無く、冥界の王ハデスだった。


「う、あああ……」


 先程まで勇ましく俺を睨みつけていたイカロスが、言葉にならない(うめ)きをあげて尻餅をついていた。

 その後方に立っていたミノス王とミノタウロスも、今の自分の状況などすっかり忘れてしまった様子で、固唾を飲んでこちらを見つめている。


「いつまでも覗かれている事が少々気に食わなくてな」


 ハデスの纏う黒いマントは、闇そのものを織り込んで作られたような深い漆黒で彩られている。見つめていると、そのまま吸い込まれて地獄に堕とされてしまうのではないかと思ってしまうほど、それは深い。とてつもなく深い。

 その漆黒のマントからほんの少し覗いた顔は、やはり先程俺が垣間見た映像通り、彼の兄である親父(ゼウス)にそっくりではあったのだが、そこに漂う気配は、生命力に溢れた親父のものとは全く違っていた。


「私がアステリオスを蘇らせる代わりに与えた条件は、こうだ。アステリオスは母親の命と引き替えに地上に蘇りはしたが、自我を失い、狂戦士と化したミノタウロスという“肉体の檻”に封じ込められている。それでもミノス王自身が、檻に閉じ込められたものを息子(アステリオス)本人であると見抜き、変わらぬ愛情を示す事で、アステリオスを正気に戻すことが出来たならば……という事だったのだが」


 脂汗を流しながら後ろで硬直しているイカロスを振り返り、嘲笑の入り混じった目で見据えるハデス。

 冥府の王である彼が“()る”ということは、そこに“冥府”が在るということ。彼の存在は冥府の存在そのものを意味する。言ってみれば人間にとっての“死の概念”そのものである彼に見つめられたイカロスは、うっすらと涙を浮かべ、瞳を白黒させながらずりずりと後退(あとずさ)っていた。


「そこの少年――サイアスの力で死の運命を乗り越えた時に、特別な力に目覚めたようだ。そなた、異形の怪物と心を通わせ、その真意を読み取ることができるのだな?」

「な、なに――?」


 そうか、そういうことだったのか。


 だからコイツは、ミノタウロスの――いや、アステリオスの心の声を読み取って、俺を止めようとしたのか。

 ひたすら怯えながら後退りし続けるイカロスは、ハデスの問い掛けまど殆ど耳に入っていない様子で、後ろに立っていた木に勢いよく頭をぶつけても尚、混乱を隠せないままあたふたしていた。


「ご、ご、ご、ご、ごめんなさい! 僕が悪い事したなら謝りますから……どうか、殺さないで!」

「そう怯えるな。もういいと言っているだろう」


 意地悪そうに微笑んだハデスは、小さく肩を震わせながら再び俺の方を見た。その笑顔は、先程と比べると数段以上も柔らかい。


 こいつ――まさか悪の親玉みたいな気配を背負って現れたのは、単に俺達を怖がらせて愉しむためなんじゃないだろうな。

 

さっきのパシパエとのやり取りを見ている分には、親父の兄弟の中じゃ一番まともなんじゃないかと思えたのだが……底意地の悪さはとことん似てやがるってことなのか。

 呆れ顔の俺を見て、ハデスは苦笑していた。


「長い事暗い冥府にとどまっていると、退屈でな。たまにこうやって刺激を受けると愉しくて仕方がないんだ」

「神様ってのは、ひねくれた奴しか成れねえ決まりでもあんのかよ」

「怒るな、サイアス。私はパシパエの望みを叶えるためにやってきたのだぞ」


 闇のマントを翻し、ハデスはすたすたとミノス王の前へと歩み寄る。

 いつの間にか苦しむミノタウロスの側に寄り添っていたミノス王は、自分を見下ろすハデスと目が合うと、先程までの狂いに狂った暴虐ぶりはどこへやら、年齢相応の弱々しくしゃがれた声で呻いたかと思うと、額を地面に擦り付けながら、その場にひれ伏していた。


「ハデス様、お赦しください――わ、私の命はどうなっても構いません。どうかアステリオスを元の姿に! どうか!」


 加えて、嗚咽を漏らしながらハデスのマントの裾にしがみつく彼の姿は、いくら外見を高そうな衣装で着飾っていても、どこまでも哀れに見えて仕方が無かった。やりきれなくなった俺は、握り締めていた剣を鞘に収め、イカロスの元へと駆け寄った。


「大丈夫か?」

「う、うん――でも、王子様はどうなるの?」

「それはハデス(アイツ)に任せることだろ。俺達には関係ない」

「で、でも」


 ふと、変わり果てた師匠(ダイダロス)の姿が目に入り、俺の胸は急激に締め付けられた。


 イカロス、お前は自分の父親を殺されても、そんな風に他人を思いやれる人間なのか?

 それとも、まさかまだ自分の立たされている状況がわかってないのか?


 いたたまれなくなったが、今の俺にはイカロスの視界を遮るようにしてしゃがみ込むくらいのことしか出来なかった。


「愚かな王よ。己が犯した罪の重さをようやく理解したか」


 ハデスの纏う気配がゆらりと形を変える。

 辺りの空気が突然とてつもない重量を得て、全身に圧し掛かってきたかのような感覚に襲われた。

 ハデスの闇色のマントが漆黒の炎で覆い尽くされているのは、彼の中に沸々と湧き起こる怒りが具現化しているからなのだろうか。炎が発する熱波は、骨まで炭屑にされるのではないかというくらいの温度を孕んでいるというのに、何故か俺の全身には鳥肌が立っていて、その上ゾクゾクと悪寒までもが走ってくる。


「くそ、あの野郎――俺達がここに居るってこと、忘れてやがるんじゃねえのか!」

「な、何だこれ――怖い――」


 恐怖にガチガチと歯を鳴らすイカロスを庇うように立った俺は、熱波から身を守る様に両腕で顔を覆い、僅かな隙間からハデスの方を覗き見ていた。


「私が直接手を下さずとも、そなたには死後、地獄(タルタロス)での永遠の責め苦が待っている。私はそなたの願いを聞くわけではない。そなたに恩情を与えるわけでもない。ただそなたの妻、パシパエの願いを叶えるためにやって来たのだ。本来ならば即刻そなたを地獄へと堕としてやりたいところだが、今日のところは、王妃の勇気ある行動に免じておとなしく引き下がってやろう。聡明で献身的な女を妻に(めと)る事が出来た事をありがたく思っておくがいい」

「あ、ああ――お赦しください、ハデス様――」


 神の前では王も平民も、怪物でさえも関係ないってことなのか。

 目の前の絶対的な存在にただただ恐れ(おのの)き、ひたすら赦しを乞うその姿は、身に重過ぎる王の名を背負わされた、哀れな老人でしかないように思えた。


 冷たい熱風が止み、森に静寂の緞帳(どんちょう)が降りる。

 冥王の胸にも、俺と同じ思いが湧いたのだろうか。

 深い嘆息とともに肩を落としたハデスの表情は、俺が覗き見たあの時の光景と同じく、酷く物憂げなものだった。



*****



「見て見て! 港町が見えるよ!」


 暖かな風に波打つ草原は、まるで若草色に染まった大海原のようだった。

 その遥か向こうには、朧気ではあるが集落のようなものが見えてきている。しかし、あそこへ辿り着くにはまだまだ半日ほどかかることだろう。勢いよく駆け出したイカロスがそのままのペースを保つことが出来れば、話は別だが。


「おい、そんなに走ったってどうせすぐバテちまうだろ。もっとペース配分考えろよな」


 苦笑する俺の隣には、一緒に笑ってくれる仲間が増えていた。


「イカロスは元気だね。歳もそう変わらないのに、何だか僕らが急に老け込んだみたいに思えてしまうくらいだ」


 マントに付けられたフードを、金色のオカッパ頭を揺らして無造作に振り払い、アステリオスは草原の彼方へ駆けていくイカロスの姿を見ながらにっこりと微笑んでいた。


「あいつは昔からずっとあんな感じなんだ。だからいつまでもガキのままなんだよ。背が伸びねえのもきっとそのせいだ」


 アステリオスが声をあげて笑い出す。

 その様子からすると、彼は俺が冗談を言っているのだと思っているのかもしれないが、俺にそんなつもりは毛頭なかった。


「あの様子だと、ダイダロスさんの事はもう吹っ切ってくれたのかな……それとも、無理して落ち込んだ姿を見せないようにしているんだろうか。僕は彼に酷く怨まれてるんじゃないかって内心はとても心配していたんだけど」


 空の色をそのまま切り取ったかのような蒼い瞳を僅かに曇らせ、アステリオスは俯いていた。

 彼はあれから、随分と苦悩していた。

 たとえ自分の意志によるものではなくとも、イカロスの父の命を奪い、何の罪もないはずのあいつまでも手にかけようとしていたことに。


 泣き腫らして泣き腫らして、自分の運命を呪っていたアステリオスに対し、イカロスが決して怒りも涙も見せる事無く、ただ笑って言ってのけた言葉に、俺は驚愕させられた。“王子様のお父さんが元に戻ってよかった。あとは王子様が今から幸せになってくれればいい”と。


 俺が同じ状況だったらどうだろう。

 あの馬鹿親父に関してはどう思うかわからないが、今目の前に居るのが自分の母親を殺した張本人だとしたら?

 口ではガキだの何だのと馬鹿にはしているが、もしかしたらイカロスの内面は、俺なんかよりもずっと大人なのかもしれないと思えて仕方がなかった。


「そのことはもういいだろ。お前とあのミノタウロスは別人だって、あいつもちゃんと理解してるさ。だからこそお前を庇おうとしたんじゃねえか」


 気の利いた言葉のひとつも掛けてやれればよかったのだが、現実はなかなかそうもいかない。

 俺は自分自身に辟易しながら深い溜め息を漏らし、頭の後ろで手を組むと、ちらりとアステリオスの方を覗き見ていた。


「そ、それに――俺の師匠は、命掛けで息子を救った善行が認められて、ハデスの奴が地獄(タルタロス)じゃなく、理想郷(エリュシオン)へ送ってくれるって言ってたしさ、お前の母親と一緒に」


 名誉と栄光を讃えられた英雄ですら、理想郷の住人として神々に迎えられるのは難しい事だと聞く。その理想郷に一気に二人も住人が増えるなんてことは、ごくごく珍しい事なんだよな、きっと。

 もしかしたらハデスは、自らが与えた条件によって、また新たな悲劇の連鎖が起こってしまった事に、心を痛めていたのかもしれない。


 物憂げにとぼとぼと歩くアステリオスは、何も答えない。

 何かまずいことを言ってしまっただろうか――狼狽した俺は、わざとらしく話を変える以外の手段を思いつけずにいた。


「てか、お前さ――王様のところに残らなくていいのかよ?」


 哀しそうに笑うアステリオスと目が合うと、気まずさに耐えかねた俺は、米粒みたいに小さくなってしまったイカロスの方に慌てて視線を戻していた。


「いいんだよ、どうせ僕はあの国ではとうの昔に死んだ事になっているし。父上も、僕の力をイカロスへの罪滅ぼしのために役立てたいって言ったら、自分の償いでもあるからって喜んで許可してくれたんだ。それに、居なくなった妹のアリアドネを連れ戻してやりたいっていうのもあるからね」

「え、お前の力って?」


 不意に立ち止まり、俺はちらりとではなく、アステリオスの居る方をまじまじと見ていた。


「つまり――こういうことさ」


 めきめきと骨の軋む音が聞こえたかと思うと、アステリオスの白い肌は炎にくべられた氷のように急激にどろどろと溶け、整った顔立ちはみるみるうちに醜悪な牛の頭へと変わっていった。


「おわああああっ!」


 無意識のうちにその場でばたばたと何度も足踏みしてしまうほど驚愕した俺は、思わず反射的に身構えると、腰に差した剣に手を掛けてしまっていた。


「あはは――ま、待って待って。僕だよ、アステリオスだよ!」


 怪物の喉元からは、醜悪な外見にそぐわない、澄んだ美声が漏れている。

 その上、ミノタウロスの表情は、あの時の悪魔のような形相とは全く違っているようだった。

 動物の顔だということもあって、いまいち表情が判別し難いところはあるが、鋭い牙を剥き出しにしたその顔は、恐らく笑っているのではないかと思えた。


「お、お前なあ! フザけてるともう一回死ぬぞ!」

「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。手っ取り早く説明しただけだろ」

「お前の性格、ハデスにそっくりだな」

「そりゃあ、ハデス様は僕の師匠だからね」


 ニッコリ笑ってウインクをしたアステリオスの顔は、すっかりもとの女と見紛うばかりの綺麗な顔に戻っていた。


「サイアス、今びっくりしすぎて変な動きしてたよね! ね!」

「うるせえ! びびってねえよ!」


 いつの間にか戻ってきていたイカロスが、また馬鹿みたいに俺の周りを跳ね回っている。

 命懸けで助けたのはいいが、一緒に連れていくのはやめておけば良かったかもしれない。もうこいつの命を狙おうなんて連中は居なくなったわけなんだしな。


「強力な力を手に入れたのはいいけど、間違って人前で使ってしまったら大変な事になりそうだね。ミノタウロスの姿を取らなくても、多少筋力は人より強いみたいなんだけど」

「ちょ――待て待て待てっ!」


 軽々と俺を片手で持ち上げるアステリオス。言っておくが、普段から結構体を鍛えている俺は、筋肉のせいで見た目よりずっと重いはずだ。まして、身長も体格もこちらが勝っているのだから、俺がアステリオスよりも重いことだけは確実だろう。


 この女みたいな顔の男が異常なくらい力持ちだなんて知れたら、牛の姿を晒さなかったとしても、別の意味で大騒ぎになるんじゃないのか?

 呑気にそんなことを考えていた矢先の事。


 ぽかんと口を開けたままこちらを見つめるイカロスの顔が、突然逆さまになっていた。

 そうなったかと思うと、俺の両目には天の空色と大地の緑色が交互に映し出される。

 その異様な光景に目を奪われていると、俺の体は鈍い音と共にどこかに叩きつけられていた。

 ゆらゆらと揺れる俺の視界に映っているのは、どこまでも広がる空色。上を向いて空が見えるという事は、俺が叩きつけられた先は、地面の上だったということらしい。


「この野郎! 少しは手加減――」


 飛び起きて驚いた。

 俺を放り投げたアステリオスの姿は、それこそさっきのイカロスみたいに米粒のように小さくなっていたのだ。

 そこそこがっちりした体格の男一人を、軽々と片手で数十ペーキュス(※1)も投げ飛ばせるなんて――オリュンピア祭で円盤投げの競技にでも参加すれば、間違いなく英雄になれるに違いない。

 いや――そんなことよりも、こいつが牛になった時の腕力ってのは一体どれだけ化け物なんだ? 想像もしたくない――


「こんな奴と刃を交えてたなんてな……」


 俺は思わずあの時剣を握り締めていた右手の平をまじまじと見つめていた。

 ここで自分のやってきた事のとてつもなさに後々ながら恐れ震えるのが普通の人間なのかもしれないが、俺は違っていた。限りない可能性を秘めた自分の力に、武者震いが止まらなかった。


「わ、すごい! アステリオス、かっこいい! ねえサイアス、いつまでも座ってると置いてくよー!」


 節くれ立ったその手をぎゅっと握り締め、にやけ笑いをかみ殺すと、俺は三たび馬鹿みたいに騒ぎ出したイカロスに向かって駆け出していた。調子に乗ったあいつの頭を思い切りどやしつけてやるために。


「アステリオスの奴、後ろに向かってぶん投げやがって。どうせなら進行方向に向かって投げてくれりゃあ良かったのに――」


 ふと、脇に生えていたオリーブの樹の方へと目を向ける。

 オリーブの木陰には、こちらをじっと見つめる一人の少女が立っていたのだが――さっき俺が投げ飛ばされた直後に目をやった時には居なかったような気がするのは、思い過ごしだろうか。

 もしかしたら、さっきまでは幹の反対側に居たというだけなのかもしれないが。


 まるで吸い寄せられるようにその姿に惹きつけられた俺は、思わず立ち止まり、木陰の少女をぼんやりと見つめてしまっていた――はずだったのだが。


「な――」


 何がどうなったのか全くわからなかった。

 気が付くと、木陰に居た少女は一瞬にして俺の脇をすり抜け、俺の背後に回っていたのだ。


「貴方はサイアスですね?」


 その声は、泉に零れ落ちた水音のように澄んでいた。


「誰だ、あんた――女神か?」


 登場の仕方はとてつもなく怪しかったものの、彼女の周りに邪悪な雰囲気は漂っていない。それどころか、とても清浄で神聖な気配さえする。


 身構える事無く後ろを振り向いた俺は、憂いを帯びた目で静かにこちらを見つめる少女の美しさに息を呑んだ。

 彼女の髪は、空気に溶けていきそうなほどの透き通った銀色で、その艶っぽさといったら、太陽の光によって生まれた(きらめ)きそのものを身にまとっているのではないかと思えるほどだった。

 その美しさにも負けず劣らずの白く透き通った肌は、男にしては白いと思っていたイカロスやアステリオスなんかとは比較にならない。頬にはほんのりと赤みが差していて、ふっくらとした唇は艶のあるピンク色。

 俺は親譲りの恵まれた容姿のおかげで、過去にいろんな女に言い寄られた経験があるのだが――もちろんそれは、自慢でもなんでもない――ここまでの美人は今まで一度も見たことがない。正直なところ、話すことすら照れくさくなってしまうほどの美しさだった。


「貴方のその力は危険です。このままではいずれ、世界の均衡が狂ってしまいます」

「な、何だいきなり? どういうことだ?」

「貴方のしてきた事は、正しい事ではありません。この世の始まりと終わりは、全て神の手によってあらすじが決められているのです。それを崩すという事は、世界の(ことわり)を否定する事と同じなのです。現に“それ”は徐々に起こり始めている。本来は生きているはずのない二つの命を救ったことによって、天寿を全うするはずであった貴方の師の命が、冥府へと送られました」

「待てよ、どういう意味だ?」


 抑揚のない口調で淡々と語った少女を問い(ただ)そうと伸ばした俺の手は、虚しく宙を掴んでいた。

 気が付くと、少女は再びオリーブの樹のすぐ側へと瞬時に移動していたのである。


 きっと、彼女はこのまま居なくなってしまうのだろう。もしかしたら、二度と逢えないかもしれない。

 それは皆が“先見の明”と呼ぶ俺の力によるものなんかではなく、ただの俺の直感だったのだが。


「待ってくれ! お前は誰なんだ? せめて名前を教えてくれ!」


 そして俺は、二度と逢えないかもしれないと思った瞬間に、動揺を隠し切れなくなっている自分自身の真意がわからずに居た。

 おそらく彼女はこのまま風のように消えていなくなってしまうのだろう。

 それでも、もしも二度と逢えないのだとしても、聞いておかなければ後悔するような気がした。


「ラケシス」


 一陣の風が、彼女の紫がかった銀髪をふわりと舞い上げる。宝石を散りばめたようにキラキラと輝く髪をなびかせ、彼女はその名を呟きながらこちらを振り返っていた。その表情は依然として彫像のように無機質なものだったが、深い紫色の瞳は、やはりどこか憂いを帯びているように見えた。

 彼女の髪が跳ね返す光の刺激があまりに強く、俺はその輝きに手をかざし、目を細めてしまっていた。

 視界の殆どが白い光に包まれると、彼女はいつの間にか忽然と姿を消してしまっていた。


「美人だったね」


 背後から突然聞こえたその声に、俺は大きく体を硬直させる。

 俺の斜め後ろにしゃがみ込み、こちらを見上げているのは、半分ほど目を据わらせたアステリオスだ。その横には同じポーズのイカロスまでがくっついてきている。まあ、半開きの口を閉じようともしないイカロスの方は、おそらくアステリオスについてきただけで、何が起きたのかということまでは理解していないようだが――


「君は硬派な男なんだと思ってたけど、女の子には弱いんだね? やっぱり血は争えないねえ」

「ば、馬鹿野郎! そりゃどういう意味だ!」


 焦りのせいか呂律の回らなくなった舌を何とか使いこなそうとしながら、俺はアステリオスに向かって息巻いていた。俺よりも少し年上のこの男は、精神的にお前よりも余裕があるとでも言いたいのか、俺が焦れば焦るほど愉快そうに口元を緩ませてくる。


「焦らなくていいよ、顔真っ赤だから。でもこれから旅を続けていくうち、あちこちで現地妻を作ったりするのだけはやめてほしいなあ。後々いろいろと面倒臭いと思うし」

「んな事するわけねえだろ! 親父じゃあるまいし!」

「いや――父親が父親だから言ってるんだよ」

「ねえねえサイアス、“げんちづま”って何?」

「うるせえ、ガキは黙ってろ!」


 何もかもが面倒になってきた俺は、さっきよりも少しだけ小さくなってしまった港町に向かって、再び駆け出していた。宝石のように輝く髪を持った、あのラケシスとかいう少女の面影を置き去るように。

 疾走していた俺の真上から影が落ちるのを感じ、空を見上げる。

 どこまでも続く蒼の真ん中には、主人の凱旋を待ち詫びていたかのように、優しく(いなな)いた天馬(ペガサス)が旋回していた。




《名工ダイダロスの受難・完》





※1=古代ギリシアで使用されていた長さの単位。1ペーキュス=約47.4センチ。



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