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名工ダイダロスの受難・3 (2011/01/26 改稿済)

扉絵:イカロス イメージ画


挿絵(By みてみん)

「イカロス、駄目だ! 戻りなさい!」


 あの時見た映像と、寸分違わない光景がそこにあった。

 悲鳴にも似たダイダロスの叫びも、海が跳ね返す空の青も、刻々と変わっていく雲の表情でさえも、あの時と全く同じ。その正確さと言ったら、記憶の中の映像と、今自分の目に映っている光景のどちらが現実なのか、判別がつかなくなってしまうほどだ。


 たった一つ違うのは、今ここに俺が居るということ。未来をただ情報として“垣間見ている”だけでなく、現実のものとして視認する俺がここに居るということだ。

 舞い散る翼の群れに突っ込んだ俺は、海に吸い寄せられるように墜落していくイカロスの体を抱き留めていた。


「おい、起きろイカロス。寝てると振り落とされるぞ」


 イカロスは、墜落の恐怖からなのかすっかり失神してしまっていて、乱暴に顔を叩いてみたところで一向に目を覚ます気配が無い。


「いくら軽くても、人間一人をずっと抱えてんのは疲れるんだよ」


 しぶしぶ片手でイカロスを肩に担ぎ上げる。格好つけて舌打ちなんかをしてみたものの、目的を成し遂げた安堵感と達成感とで、俺の口端は緩みっ放しになっていた。


「サイアス!」


 遅れてやってきたダイダロスが、天馬に乗った俺を見て目を丸くしていた。


「親父さん、来るのが遅れてすみませんでした。こっちは定員オーバーなんで、親父さんはその翼で陸までお願いします」


 にやりと笑った俺に、ダイダロスは瞳を潤ませながらしわくちゃの微笑みを返してくれた。


 ダイダロスの翼は、会心の出来映えとはいえ、在り合わせの材料だけで作られた付け焼き刃の産物でしかない。おそらくそう長持ちするような設計にはなっていないはずだ。だから海を越えて他の島へ渡るなんて芸当は難しい。

 しかし、この二人が脱走した事が知れれば、ミノス王は躍起(やっき)になって追走にかかろうとするに違いない。

 俺はとにかく、迷宮(ラビュリントス)のある王都クノッソスから離れようと東へ飛び、その最端にある港町を目指して進路を取る事にしていた。


 旅路の途中、俺は師であるダイダロスに、これまであったいろんな事を洗いざらい話していた。

 実際に会った親父は、やはり噂通りの不良親父であったということ。

 オリュンポスの神殿は、言葉では言い尽くせないほど豪華絢爛であったということ。

 育ての親のヘルメスが、相も変わらず元気そうだったということ。賢者ケイロンが会いたがっているらしいこと。

 アテナに借りた手綱のこと、それと引き替えに出された交換条件のこと。

 ヘルメスに貰った剣のこと。

 そして何より、俺の思い描いていた両親の様子が、想像とは大きく違っていたということ。

 夕日に赤く染まった海岸線をなぞるように飛び続けながら、気が付くと俺は一心不乱に話し続けていた。

 優しげに微笑みながらただただ黙って何度も頷くダイダロスの横顔は、随分久しぶりに見たもののように思えて仕方が無かった。


 やがて夕日は地平線の彼方へと沈んで行き、辺りは闇に覆われていた。

 これ以上飛び続ける事は危険だと判断した俺達は、陸に上がり、静かな森の奥で夜明けを待つことにしていた。天馬の大きな翼は、鬱蒼と生い茂る森を歩くのには適さない。港町に行きさえすれば何とかなるに違いないと踏んだ俺は、ようやく愛着の湧いてきた天馬を、敢えて一旦放してやることに決めた。


 天馬にしばらくの(いとま)を言い渡し、森の奥へと身を潜めた俺達は、ようやくその疲れきった体を休め、ひとときの団欒を楽しもうとしていた。

 手早く掻き集めてきた薪を燃やし、煌々と燃えるオレンジ色の光を見つめながら、俺は尚も、終わらない冒険譚を続ける。


「そうか、お前には多大な苦労をかけてしまったな。本当に感謝しているよ」


 薪の一つを火の中に投げ入れ、ダイダロスはちらちらと揺れる暖かい炎に目を細めていた。


「いえ、これも世話になった恩返しだと思えば、大した事じゃありませんよ」


 今が夜で本当に助かった。真正面から人に感謝された事なんか初めてで、俺の顔はたぶん人には見せられないくらい赤くなっていたと思う。ぽりぽりと頬を掻いた俺は、思わず俯いていた。


「私はこのまま北へ赴き、ロドス島を経由してトロイアへ移ろうと思う。私たちは脱獄の罪を犯した罪人だ。やり直すには、私たちの事など誰も知らない所へ行かなければいけないからね」


 トロイアは、このクレタからは遥か北に位置する大国だ。彼には“建築家”という天性の生業があるが、俺はアテナと交わした約束によって、地上の特定の場所に定住する事を赦されない身になってしまった。要するに俺にはこの先、ダイダロス親子との今生の別れが待ち受けているということになる。

 それは、何というか――本当に残念だとしか言いようが無い。

 顔には出していないつもりだったが、俺の気持ちを汲み取ってくれたのだろうか。ダイダロスは、とても寂しそうに微笑んでくれていた。


「もうお前と一緒に暮らす事は出来ないんだね。私たちのせいで――本当にすまない。イカロスにもきっと寂しい思いをさせてしまうことになるね」

「親父さんのせいじゃありません。元はと言えば、あんなところに無理矢理迷宮を作らせたミノス王が悪いんですよ。いくらミノタウロスが手の付けられない怪物だったと言っても、生きた人間を餌として捧げるなんて――もっと他にやり方があったはずだ」


 炎の中にくべられた薪が軽やかに()ぜ、闇色を背にして火の粉の赤が舞い散っていた。

 未だ意識を取り戻さないものの、柔らかな表情を浮かべるイカロスは、すやすやと眠っているだけのように思えた。イカロスの顔を見ていると、何となく胸の奥が熱くなってくるような気がして、俺は体を丸めて地面に目を落とした。


「こうなったのは運命なのかもしれない――私はね、クレタ(ここ)に来る前、とんでもない罪を犯してしまったんだよ。ゼウス様を父に持つお前の前でこんなことを言うのははばかられるが、これは天罰なのかもしれない」


 弾かれたように俺がダイダロスを見つめると、それを皮切りに、彼はぽつりぽつりと重い口を開いていた。


「私が以前アテナイに住んでいたことは話してあったね? そこで私は発明家として日夜仕事に明け暮れていた」


 発明家――?

 クレタでは建築家として名を馳せていた彼が発明も得意としているのは知っていたが、あくまでそれは二の次の副業でしかないのだと思っていた。ダイダロスが元は発明の方を売りにしていたとは、初耳だ。

 俺は頷くことすらせず、じっと彼の話に聞き入ってしまっていた。


「その頃、私には今のイカロスよりも更に歳若いタロスという弟子が居た。彼は私などでは及びもつかない奇想天外な発想の持ち主で、彼の実力は師である私を遥かに凌駕するものだった」


 仰ぎ見るように天を見上げ、ダイダロスは深く溜め息をついていた。


「素晴らしい発明品のおかげで、彼の名はアテナイ中に広まっていった。やがてアテナイは彼の発想を色濃く受けることで、その文化までも塗り替えようとしていたんだ――そして私は嫉妬してしまった。まだほんの子供であるはずの彼が、瞬く間に周囲に認められ、きらびやかな階段を上っていくことにね。やがては自分の立場までが脅かされ、誰もが自分になど見向きもしてくれない日がくるんじゃないかと思い、不安になった」


 ダイダロスの話に夢中になっていた俺は、夜空に暗雲が立ち込め、月を覆っていることにも気が付いていなかった。ぽつぽつと零れ出した小さな雨粒の冷たさに我に返った俺は、顔を上げ、吸い込まれそうな闇色の空に想いを馳せた。


「そして私はある日、タロスを神殿の屋根の上に連れ出し、そこから彼を突き落とした。即刻、殺人の罪に問われた私は、アテナイから追放され、このクレタの地に移り住んだんだ。しかし、やはり神はそれだけでは罪を赦してはくれなかったようだ」


 腹の底に響いてくるような振動とともに、雷鳴が轟いている。

 本格的に降り出した雨がすっかり焚き火を鎮火してしまったことに気を取られた俺は、爆音とともに稲光が炸裂した瞬間、成す術もなく体を強張らせていたのだった。

 それと同時に、多少の雨風を受けてもびくともしなかったイカロスが、それこそ雷に打たれたかのように激しく体を震わせ、跳ねるように飛び起きていた。


「び……びっくりした! ここどこ?」


 俺もダイダロスも、長い間目を覚ます事のなかったイカロスを心底心配していたことは共通していたようで、彼の突然の覚醒には何よりも早く目を奪われた。しかし、血を分けた家族であるダイダロスの方が、おそらく本能的に俺よりも早くイカロスを見たのかもしれなかった。

 それだけに、イカロスに起こった“異変”に気付いたのも、ダイダロスの方が数瞬早かったに違いない。重ねてきた年齢の差を全く感じさせないほどの鋭敏な動きを見せたダイダロスは、渾身の力を込めて、覚醒したばかりでパニック状態になっている息子に体当たりをかけていた。

 大きな雨音が全ての雑音を飲み込んでいたはずなのに、どすんと鈍い音がやけに耳に残った。


「と、父さん――?」


 突き飛ばされ、尻餅をついたイカロスの傍らには、ダイダロスが――正確に言えば、“ダイダロスだったもの”が転がっていた。ダイダロスの表情は驚愕に歪んだまま固まっていて、腰から下がねじ切れていた。

 操縦者の居なくなった下半身が、俺のすぐ側で暴風に煽られてぐらぐらと大きく揺れ動き、まるで無機物のように関節のどこを曲げるわけでもなく硬直したまま転倒していた。

 医術の心得があるわけでもないイカロスにも、瞬時に分かった事だろう――ダイダロスは絶命した。その真意を、無機質な表情を浮かべたイカロスの脳みそが受け付けているのかどうかは別として、だ。


「て、てめえ――赦さねえっ!」


 あらん限りの声を絞り出し、俺は地面に置かれた剣を拾い上げ、引き抜いていた。

 ダイダロスの下半身が落ちている場所に現れたのは、血に染まった大斧を振りかざした人身牛頭の怪物――ミノタウロスだった。


 剣技の心得なんか無い。何より争いごとなんて大嫌いだった。


 なのに、俺の体にはまるで、忘れていた記憶を取り戻したかのような衝撃が雷光のように走り、自分でも信じられない速さでミノタウロスとの距離を詰めた俺は、ヤツの首筋目掛けて力の限りに剣を薙ぎ払っていた。

 しかし、鳥肌の立つような金属音が聞こえ、俺の一撃はあっさりとミノタウロスの大斧によって弾かれてしまう。

 反動によってバランスを崩しそうになっていた俺は、慌てて体勢を立て直し、力に任せて振り回しただけのミノタウロスの次の一撃をバックステップでかわす。勢い余って一回転したミノタウロスによって、後方の太い木の幹が次々とへし折られていく。


「くくく……やっと見つけたぞ。あとはそこに居る子供一人だな」


 声が発せられたのはミノタウロスの方からではない。怪物の後方からだ。

 俺の背丈の倍以上の体格を持った怪物の後ろから現れた人影には見覚えがあった。


「てめえは、ミノス王!」


 ――強欲そうな面構えが印象的な、クレタの王ミノス。直接血のつながりはないが、立場上コイツはミノタウロスの父親ということになるはずだ。

 いや、そんなことより、ミノタウロスはあの映像で視た屈強そうな男がやっつけたはずじゃなかったのか? 俺は確かにあの男がミノタウロスを倒すところを視た。俺の視たものが事実と違ってるなんてことは、今まで一度もなかったはずなのに――


「何故コイツが生きてここに居るのかがわからない、といった様子だな。サイアスよ」


 動揺を隠せない俺を嘲るかのように言ったミノス王は、息を荒げるばかりで声すら発しようとしないミノタウロスをバチバチと叩きながらせせら笑っていた。


「私に恥を掻かせたその裏切り者の親子を始末するため、冥界の王ハデス様に執り成していただき、こやつを地獄から呼び戻したのだ! 以前と違って話すことすら出来ぬ木偶(でく)の坊と化してしまったが、黙ってただじっと私の言う事に従う、随分と扱いやすい怪物に生まれ変わってくれたぞ!」


 反吐が出そうになるくらいに下卑た笑みを浮かべたミノス王は、俺がどんなに睨みつけたところで、怯む様子すら見せない。

 自分の弱さは棚上げで、強い怪物の後ろ盾を得たからって、無敵になったつもりでいるってのか?

 湧き起こる怒りによって全身に力を込めた俺は、無意識に奥歯をぎりぎりと鳴らしていた。


「待てよ。ハデスに頼んで使者を地獄から呼び戻すには、代わりに近しい誰かの魂を地獄に送らなきゃいけねえはずだ。まさか、てめえ――」


 俺の言わんとすることが理解できたらしいミノス王は、俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、狂ったようにゴワゴワした白髪を振り乱しながら笑い始めた。


「そうだ、代わりに地獄へは私の后であるパシパエを行かせてやったのだ。こんなおぞましい怪物に私が頭を悩まされる事になったのは、元はといえばあやつの(とが)だからな! 私という夫がありながら、獣と通じた罪は重いのだ!」


 駄目だ、コイツはもう狂ってる――


 いや、元々コイツは狂っていたんだ。いくら怪物を鎮めるためだからとは言っても、生け贄の儀式なんてものをさも当たり前のように行うなんて、正常な人間のすることじゃない。


 迷う事なんかないはずだ、絶対に。


 俺は細身の剣を握り締め、せせら笑う狂王をじっと見据えた。


 この剣を突き立てるという事は、その人間の命を奪うという事。

 俺はその重さに耐え兼ね、切っ先の方向を決めあぐねていた。

 しかし、今はやらなければいけないときだ。ただでさえ白いその肌を、大理石よりも更に白く染め、驚愕に打ち震えている弟分のイカロスを見たとき、俺の心は急速に奮起していた。


 やらなければ、ダイダロスのやったことは全て無駄になってしまう。


 何のために、必死こいて海を渡って、親父のところまで行ったんだ?

 何のために、ヘルメスは力を貸してくれたんだ?

 何のために、この剣を貰ったんだ? 本当に護身用のためだけだったのか?


 俺は自分の全てを賭けてこいつを救い出そうとしたんだ。ここでやられたらその意味が全部なくなってしまう。それだけは絶対に我慢がならない!


 心が最高潮にまで昂ぶった時、俺は迷う事無くその刃をミノス王に向かって振りかざしていた。

 予想はしていたが、王の忠実な動く盾となったミノタウロスがその間に立ちはだかり、俺の渾身の一閃は、軽々とその大斧によって受け止められていた。

 素早く飛び退っては、再び一閃を繰り出す。繰り出しては飛び退き、再び飛び掛かる。

 永久に決着がつくことは無い様にも思われたが、俺の繰り出す剣技が、着実に相手の体力と、斧の耐久性とを奪っていることがじわじわと伝わってくる。

 激しく息を荒げたミノタウロスは、次第にその動きを緩め、俺の動きを目で追うのが精一杯になってくる。

 神々の祝福を受けた剣は、地上に存在するありとあらゆる物質の強度を上回る。強度で勝る物質に何度も打ちつけられた斧は急速に刃こぼれを起こし始め、やがて俺の体一つ分ほどもある巨大な戦斧は、脆い石灰岩のように砕け散っていた。

 怪物が体勢を崩し、怯んだその一瞬は、まさに“好機”としか言いようのないタイミングだった。


「俺の勝ちだ! くたばれ、怪物!」

「待って! 駄目だ、サイアス!」


 残った全ての力を振り絞り、俺がとどめの一撃をお見舞いしようとしたとき、それを静止しようと立ちはだかったのはイカロスだった。


「お前、殺されたいのか! 退()け、イカロス!」

「退かないよ! サイアス、王子様を殺しちゃ駄目だ!」

「お前、何言って――」


 父親の無惨な死を見届けたばかりだというのに、こいつらは親の敵そのものだというのに、何故イカロスはそれを庇おうとするんだ?


 険しい表情を浮かべ、両手を広げて立ち塞がるイカロスの後ろに佇むミノタウロスは、先程までは本能のままに生きる獣そのもの――いや、もはや父の凶行染みた命令をただただ機械のように鵜呑みにするだけの、本能すら失った存在だったはずだ。それが一体どうしたことか、奴はイカロスの言葉を聞いた途端に、悶え苦しむような唸り声をあげ、頭を抱えてうずくまり始めたのである。


「駄目だ、早く僕を殺してくれ――」


 それは獣の咆哮などではなく、心を持った人間の声だった。

 もちろんそれは、ミノス王のものでも、イカロスのものでも、ましてや俺のものでもない。


「まさかお前は、アステリオス――?」


 痩せこけて真ん丸になった目をギョロギョロと動かし、老王は狼狽する。

 意外にも、目の前の不可解な出来事に著しい反応を見せたのは、狂戦士と化したその怪物を道具のように扱っていたはずのミノス王その人だったのである。



*****



 今の今まで彼の中の全てを支配していた狂気は、一瞬にして消え失せたようである。

 そこに立ち尽くす彼の姿は、王の名を冠する存在などではなく、どこにでも居る一人の老人のようで――

 狂王の突然の変貌振りを目にしたとき、俺の瞳の奥に、強烈な光が走っていた。




 どこまでも深い闇の広がる世界。そこには永遠に明けることのない夜が横たわっている。


 実際に目にするのは初めてのことだったが、そこが何処なのかはすぐに判別がつけられた。

 そこは冥王ハデスの治める暗黒の世界――俗に言う“冥府”ってやつだ。

 地獄の最深層には宮殿があり、薄暗い宮殿の広間には玉座がある。

 その玉座に深々と座しているのはもちろん、冥界の王ハデスその人だ。これが今自分の前で起こっている出来事ではなく、過去、あるいは未来の映像を覗き見ているにすぎないのだとわかっていても、彼の醸す禍々しい存在感に、俺は恐怖を覚えずにはいられなかった。

 実の兄弟である事を考えれば当たり前のことなのかもしれないが、黒いマントで全身を包んだ王の顔は、あのバカ親父とどこか似ているような気がした。


 その王の玉座の前に、臆する事無く近付こうとする女が居る。

 あの女、どこかで見たことがある――確か、ミノス王の后のパシパエ王妃だ。

 おそらくこれは、ミノス王がミノタウロスを復活させる代わりに、彼女を冥界へと送り込んだ後の話なのだろう。

 パシパエは勇ましくハデスの元へと歩み寄り、凛とした眼差しを向けながら(ひざまず)き、冥王に(こうべ)を垂れていた。


『冥王ハデス様、今宵は貴方にお願いしたい事があって参りました』


 死者のひしめく暗黒の世界に女が一人。しかも彼女は由緒正しい王家(ゆかり)の者だ。

 さすがの冥王もただ事ではないと感じたのか、ハデスは身を乗り出して彼女を見つめていた。


『クレタの王妃パシパエよ、何があった? 申してみよ』

『はい。私は夫に、自らの不義を償うようにと言われ、この冥界の地に赴いて参りました』


 薄明かりの灯った大広間に、パシパエのはきはきとした声が反響している。

 ハデスは彼女の言葉を聞いた瞬間、再び体重を玉座の背にもたげ、呆れたように深く溜め息をついていた。


『そなたの不義、か。人でありながら獣と通じたその罪は確かに重い。しかしそれは元々、そなたの夫が海神ポセイドンへの感謝を怠ったからであると聞く。何でも奴は、ポセイドンへの供物とするはずだった美しい牡牛を手放すのが惜しくなり、黙って他の牡牛とすり替えようと企てたらしいではないか。それに感付き、腹を立てたポセイドンは、お前がその美しい牡牛に情欲を抱くように仕向けたと聞いている。それに、奴は元よりお前に隠れてこそこそと不埒な情事を愉しんでいるようであったが……それならば、不義を償うべきはそなたではなく、夫であるミノス王の方なのではないか?』


 何て奴だ――ミノス王の奴、大元の原因は結局自分自身なんじゃねえか。

 それを思うと、パシパエもミノタウロスも、被害者でしかないような気がする。

 ミノタウロスの奴だって、怪物として皆に疎まれながら生きるのではなく、出来る事なら普通の人間として生まれたかっただろうに。


『仰る通りかもしれません。しかし、夫があのように様変わりしてしまったことには理由があるのです』


 瞳に強い光を宿したまま顔を上げたパシパエの表情は、どこか哀しげにも見えた。


『私と夫との間には、長女のアリアドネが生まれる前、もう一人の子供が居ました。名をアステリオスと申します』


 雷光(アステリオス)――それは確か、さっきミノス王が苦しむミノタウロスを見ながら口にした名前だ。

 

 なるほど、そういうことか――

 俺の中で、おそらくハデスが施したと考えられる、とある“奸策”の輪郭が、朧気ながら徐々に浮かび上がっていくのを感じていた。


『夫は、自分の世継ぎとなる王子が生まれた事に歓喜し、息子を深く愛していました。しかし、アステリオスは生まれた頃から病弱で――貴方様もご承知の通り、まだ言葉もよく喋ることのできない小さな身で、この冥府に送られることになりました』


 元気だった頃の息子の顔を思い出したのだろうか。いかにも気丈そうなパシパエの瞳に、みるみるうちに涙が滲んでいくのが分かる。一方のハデスは、黙って彼女の熱弁にひたすら耳を傾けているようだった。


『それからというもの、夫は人が変わったように暴虐な振る舞いをするようになって……必死で止めようと致しましたが、ミノタウロスの件も相まって余計に夫の怒りを買う事になり、私は長い間幽閉されておりました』


 それで、最後は冥界に赴いて息子を呼んで来いっていうのか? 自分の命と引き替えに?


 原因が分かっていたとして、それは赦せる次元の話なのだろうか。

 考えてみれば、ここで彼女は夫から受けた仕打ちを泣く泣く話すことでハデスに執り入り、助力を求めることも出来たはずだ。いかにも聡明そうな彼女が敢えてそれをしないということは、彼女がそれほどまでに、夫を想い、救いたいと願っているという事なのだろうか。


 命を賭しても、正気だった頃の夫を取り戻したいっていうのか?


 理由はどうあれ、情けない亭主のせいで苦しめられている女を見ていると、妙に苛々が募って仕方が無くなってくるのは、俺の歩んできた生い立ちが災いしているのだろうか。


『そしてようやく幽閉を解かれた私に、夫は……私の命を差し出すことで、ミノタウロスを冥界から連れ戻してくるようにと命じました』

『そなたは、本当に夫の言う事を鵜呑みにするつもりでいるのか? そうする事でミノス王の狂気が晴れるとは到底思えないが』


 地上の人間からすれば恐怖の対象として見られる事の多い、“死の世界を統べる王”であるハデスも、さすがに彼女を不憫に思ったのか、眉間に皺を寄せ、困惑したような表情で彼女を見つめている。


『いえ、そうではありません。私がこの命を差し出す代わりに蘇らせていただきたいのは、ミノタウロスではなく、夫の愛したアステリオスでございます。あの子が蘇ったとなれば、夫はきっと正気を取り戻し、今までの行いを恥じて悔い改めることでしょう』


 悩ましげに玉座の肘置きに頬杖をついたハデスは、静かに目を伏せ、うっすらと微笑みを浮かべていた。


『――だそうだ。お前はどう思う、アステリオス?』

『そうですね……願ってもないことですが、それで母上が冥府の住人となられることには心が痛みます。それに、私が行ったところで父上は本当に正気に戻ってくださるでしょうか』


 ハデスのすぐ側に闇の塊のような黒い炎が浮かび上がったかと思うと、そこには一人の青年が立っていた。

 肩のあたりで真っ直ぐに切り揃えた金髪を優雅に揺らし、青年はパシパエににっこりと微笑みかける。


『ああ――アステリオス! 貴方なのね? こんなに大きくなって……』


 どこからどう見ても、彼はパシパエの息子であるとわかる。それは髪の色や顔立ちだけではなく、気品の中に勇ましさと聡明さを併せ持ったような、彼の醸す雰囲気を見れば一目瞭然だった。

 愛おしそうに息子を抱きしめたパシパエの頬には、(せき)を切ったように溢れ出した涙が伝っていた。


『またお逢いできて嬉しく思います、母上。母上は少しお年を召されたようですが、お元気そうでなによりです』


 嗚咽を漏らして泣きじゃくる母の背中を優しく撫でるアステリオス。ひとしきり抱擁を楽しんだ後、彼が促すように母の肩を軽く叩くと、パシパエは恥ずかしそうに目元を擦りながらハデスの方に向き直っていた。


『も、申し訳ありません……ハデス様』

『いや、構わない。そなたの家族に対する深い愛情を見れば、その気持ちもわからなくはない』


 優雅に足を組み替えたハデスの表情は、久しぶりの再会に歓喜する目の前の親子とは打って変わって物憂げだ。


『しかしアステリオスの魂は、この冥府に来てから時が経ち過ぎている。そなたの命を差し出すというだけでは、少し条件が足りないのだ』

『では、どうすればよろしいのでしょうか』

『そうだな、その条件は――』

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