名工ダイダロスの受難・2 (2011/01/25 改稿済)
事の経緯を全て話し終えると、親父は顎髭を擦りながら、ほんの少し表情を曇らせていた。
親父の周りで酌をしていた女たちも、やれ可哀相だの何だのと呟きながら、嘘か本当かも分からない涙を零している。
言っておくが、俺はこのオリンポスの頂に住まう者たちの零す言葉や仕草に関しては、どんなことがあっても絶対に信用しないと決めている。
何故ならこいつらは、ちっぽけな気まぐれ一つで簡単に人の運命を大きく狂わせてしまうような、手前勝手な連中ばかりだからだ。
俺と親父とを引き合わせる手引きをしてくれたヘルメスの奴だけは、信用していないこともないんだが――
「なるほど。世話になった恩師と、その息子の命を救いたいということか。しかし、お前」
強行軍によってすっかりボロボロになった俺の姿を頭の先から爪先まで見つめ、親父はニヤリと不敵に微笑んでいた。
「元々の師であるヘルメスの奴から半身半馬の賢者ケイロンのもとへ預けられたとき、一年もしないうちに逃げ出したと聞いているが。果たして、お前に師を敬う気持ちは本当にあるのか?」
俺の奥にある何かが、ぶつりと音を立てて弾け飛んだような気がしていた。
血が滲むほど拳を握り、俺が怒りの赴くままに親父をギロリと睨めつけると、青褪めた女たちが一斉に悲鳴をあげながら、親父の玉座の後ろに身を隠そうとするのが分かった。
師を敬う気持ち?
人の運命を石ころほどの重みもないと思っているような連中に、何でそこまで言われなきゃならねえんだ。
だいたい俺がケイロンのところを抜け出したのは、ゆくゆくは俺を自分の手先にしようって魂胆で、こいつが毎日のように“不死の果実を口に入れろ”としつこく送ってよこしていたせいだ。
永遠の命なんて俺には必要ない。
神を疎んじてさえいる俺を、憎い敵と一緒に仲良く天空に住まわせようだ? 冗談もいい加減にしろ!
「てめえ、おとなしくしてりゃ調子に乗りやがって……原因を作ったのは一体誰だと思ってやがるんだ!」
ついに耐えきれなくなった俺は、烈火のごとく憤慨していた。
幸いこの玉座の間には今、残りの十一柱の神々は不在。
その気になれば、今すぐこいつを殺すことだって出来るかもしれない。
その後の事はヘルメスにでも、何ならこいつのお気に入りのアテナにでも任しちまえば済むんじゃないのか。
奥歯をぎりぎりと鳴らした俺は、未だに余裕を撒き散らしている親父の涼しげな顔を、憎しみを込めた瞳で見つめ続けていた。
「ほう? えらく情緒不安定な人間に育ったものだなあ、サイアスよ」
挑発的な笑みを浮かべ、親父はゆっくりと足を組み直していた。
「人にものを頼むときの態度は、恩師からは教わらなかったのか、ん?」
「ふざけやがって、この……」
「何だって? 聞こえんなあ」
親父はまさに左団扇で神酒を呷り、悪魔のようにケタケタとせせら笑っている。
気まぐれだなんだとは噂に聞いていたが、こいつは相当のクズだ。
何でこんな奴が神々のリーダーなんてやってやがるんだ?
こんなクズしか成り手がいないほど、オリュンポスには人材が足りてねえってのか?
「さっさとアテナにでも王位を譲って隠居しちまえ、クズ野郎!」
「ははは、何を言うか。俺はまだまだ現役であり続けるぞ」
俺が何を言おうと全く意に介さないとでも言いたげな親父の様子は、本当にどこをどう取ってもムカっ腹の立つものでしかなかった。
「供物を捧げりゃおとなしく引っ込んでるミノタウロスの方が、まだ万倍可愛げがあるってもんだぜ……このクソ親父!」
こんな奴に助けを求めようとした俺が馬鹿だったのか。
寝る間も惜しんで走り続けてきたことは、全部無駄だったってのか。
“半神”は神なんかじゃない。所詮は人と同じようにしか生きられない、中途半端な生き物でしか無いってことなのか。
いくら特別な力を持っていたとしても、それを生かすことが出来なければ何の意味も無えじゃねえか――
「全く、お前は一体何をしにきたんだ。弟を助けたいんだろう? 四の五の言ってる場合か、頭を冷やせ」
沸々と湧き上がってくる殺意を払いのけてくれるような、一陣の風。
俺の真後ろから響いてきたのは、春風のように穏やかな懐かしい声だった。
振り返った先に立っていたのは、俺の異母兄弟――それと同時に俺の育ての親でもある、ヘルメスの奴だった。
緑を基調とした、盗賊とも羊飼いともつかないような奇抜な衣装を纏い、翼のついたターバンを巻いた青年は、子供を叱るような口調で俺を諌めると、迷いのない真っ直ぐな瞳を向けながら、親父の前に歩み出ていた。
「父上、どうかサイアスの願いをお聞き届けください」
優雅な身のこなしで親父の前に跪いたヘルメスは、恭しく頭を下げる。
ぽかんと口を開けて突っ立っていた俺をちらりと横目で見遣ったヘルメスは、薄っすらと微笑みながら、俺の汚れたマントの裾を引いていた。
「ほら、お前もだ。早くしないと取り返しのつかないことになるんじゃないのか?」
諭すように言われ、俺は苦々しい表情を隠そうともせずに、親父と兄とを交互に見比べていた。
そうだ、俺にはもう時間がない。
こうしている間にも、ダイダロスとイカロスは――
たとえ性格が酷く破綻しているとは言っても、こいつがオリュンポスの頂に君臨する、神々の王であるという事は曲げようの無い事実だ。そしてこいつは、俺のような中途半端な半神とは一線を画した、至高の存在なのだ。
ぎゅっと唇を結んだ俺は、今度こそ全ての感情もプライドも捨てるつもりで、親父の前に跪いていた。
「親父――いや、全知全能の神ゼウスよ。ダイダロスは我が恩師。その息子イカロスは私の血を分けた弟も同然です。どうか御慈悲を。私に力をお貸しください」
しかし、返ってくるのは沈黙ばかり。
生まれて以来初めて再開を果たした息子が頭を垂れて懇願する姿を見ても、この馬鹿親父は何とも思わないのだろうか。
またも再燃しそうになる怒りの炎を何とか気力で鎮火しながら、俺はさらに深々と頭を下げていた。
「ふーん、まあいいだろう」
相変わらずの挑発的な態度を引っ込める気は無かったようだが、親父――ゼウスはようやく口を開いてくれていた。
「だが、俺が直接動いたのではまたヘラの奴の恨みを買う畏れがある。ヘルメス、お前が力を貸してやれ。適任だろう」
「はい、かしこまりました。ありがとうございます、父上」
嬉しそうにエメラルドの瞳を細めたヘルメスが、俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。不意打ちを喰らった俺は、バランスを崩して転倒しそうになっていた。
「な、何すんだよ! 危ねえだろ!」
「お前もちゃんと言うんだ、サイアス。全知全能の神の御慈悲に、感謝の言葉を」
どうしてだ、という言葉はもう出てこない。
頼みを受け入れてもらえた事で、気が緩んでしまっていたのだろうか。
口の端がぴくぴくと引きつるような感覚と戦いながら、俺は再び親父に向かって頭を下げる。
「あ……ありがとうございます、ゼウス様」
言っておくが、これは素直に力の差を認めたわけでも、死んだお袋に代わって恨みを晴らす事を諦めたわけでもない。
また憎憎しげに親父の顔を睨んだとしたら、せっかくまとまった話がまたややこしくなると思ったからだ。
「サイアス、たまにはこちらへ帰ってくるといい。お前に逢いたがっている者はたくさん居るぞ。もう不死の果実を無理矢理食えとは言わないから」
何となくだが、親父の声音が幾分柔らかくなったように感じたのは気のせいだろうか。
どんなしたり顔でこちらを見ているのだろうと、ちらりと覗き見た親父の顔は、意外にも――
*****
「ケイロンの所から居なくなって、もう八年か。どんな悪ガキでも、成長すれば見違えるものだな」
ヘルメスの傍らには、淡い光を纏った美しい天馬がいた。
その神々しさと言ったら、地上に居るどの馬とも比較にならないほどだ。愛おしそうにヘルメスの頬に鼻先を擦りつけた天馬に、彼は優しく笑いかけていた。
「いつまでも子供扱いすんなっての」
内心天馬の美しさに心を奪われてはいたものの、俺は極力平静を装いながらヘルメスを睨み返していた。
コイツの所で育ったのは、生まれてからおそらく十年くらいの間だ。小さい頃の俺はいつもコイツにくっついてばかりだったし、元々比べ物にならないほどの歳の差もあるし、こんな風に兄と言うより親の目線で見られるのも仕方ないことなのかもしれない。
彼からは医学、経済学、弁論術と学問のほぼ全てを叩き込まれたのだが、有意義な時間がその殆どを占めていたということは認めてもいい。
今もずっとそのままの生活を続けていられれば良かったのだが、ある日突然俺に武術の才能があるとか何とか言い出したヘルメスは、その才能を引き出すためという名目で、俺を半身半馬のケイロンの所へ預けやがったんだ。
ケイロンは皆から“賢者”と呼ばれているだけあって、それは頭も良くて武術の腕前も達者だったわけだが、争い事や揉め事が大嫌いな俺からすれば、武術の鍛錬とやらが何の役に立つのか全く理解できなかった。
ケイロンは“いつか役に立つ時が来る。将来の自分のためだ”と繰り返し、熱心な指導の下、俺を強い戦士に育て上げようとしていたのだが、親父が不死の果実を使って俺を神の世界に引きずり込もうとしつこく画策していたことも重なったおかげで、そんな生活にすぐ嫌気が差した俺は、例の力を使ってケイロンを出し抜き、まんまと逃げ出してやったというわけだ。
「ケイロンはとても残念がっていたぞ。また彼の所へ戻れとまでは言わないが、近くに行くことがあったら顔を見せてやれ。成長したお前を見たら、彼も喜んでくれるだろう」
興奮気味に全身を震わせた天馬を宥めすかすと、ヘルメスは俺に、天馬の背にまたがるようにと促していた。
「駆り方は地上の馬と同じだ。お前ならやれるな?」
「当たり前だ。俺を舐めんなよ」
「よし、それでこそ私の弟だ」
難なく天馬の背に跳び乗った俺は、ヘルメスが戦神アテナから預かってきたという黄金の手綱を握り締め、天馬の鬣をそっと撫で付けた。絹のようにしなやかな手触りの鬣からは、まるで新緑の森の中に居るような、清らかで瑞々しい香りが漂ってくる。
何でも、天馬というのは本来人間には決して懐く事がなく、それでも無理矢理乗りこなそうものなら、容赦なく上空から振り落とそうとしてくる程、気性の荒い生き物らしい。そのじゃじゃ馬を乗りこなすために必要になるのが、この黄金の手綱だ。アテナが作ったこの手綱には、荒ぶる心を落ち着かせる特別な力があり、これさえあれば、天馬はたちどころに従順な手足となって動いてくれるようになるというわけだ。
「お前の俊足ならきっと、クレタまでは半日とかからねえだろうな」
笑うように優しく嘶く天馬。コイツは俺の言ってる事が理解できるのだろうか。
「サイアス、わかっているな? その手綱を貸し与える代わりに、アテナが出した条件を」
天馬がその大きな翼をはためかせると、空気の擦れ合う音とともに、塊となった風の一団が大地を疾走し、突風に煽られた草木が、躍る様に体を撓らせていた。
「“これより先の人生において、地上のいかなる場所にも定住する事を赦さない”ってやつか? 元よりそのつもりだぜ、望むところだ。だけど俺は天界には戻らない。一生地上を放浪しながら生きていくんだ」
すぐ側に佇むヘルメスは、次第に上昇し、地上から遠ざかっていく俺達の姿を眩しそうに見つめていた。
「サイアス、これを持っていけ!」
空気を劈き、銀色の細長い物体が俺の体目掛けて空を昇ってくる。ヘルメスが満面の笑みとともに投げてよこしたそれは、鏡のように磨き上げられた細身の剣だった。
「お前の旅立ちを祝しての、私からの餞だ。護身用に持っていけ」
ヘルメスのやつは、俺がこんなものを使うような血生臭いことが嫌いだと、わかっているのだろうか。
曇りの一つもなく陽光を跳ね返す剣を見つめ、俺はぼんやりと考えた。
しかし、その剣には俺の心の中の淀みを一瞬で吹き飛ばすような、最高の仕掛けが隠されていたのだった。
輝く剣の刀身には、こんな言葉が刻まれていた。
『愛しています。貴方の行く先に、全知全能の神の祝福がありますように――“ネリア”』
「ネリア――」
それは、顔も知らない母親の名前。
刻まれたその文字を指でなぞると、俺の心の奥に、再び何かの映像がよぎるのが分かった。
嵐の夜。
荒れ狂う海の側の断崖絶壁に、二人の男女が立っている。
男の方は、紛れもなくあの馬鹿親父――ゼウスだ。
女の方は誰なのかよくわからない。しかし彼女は俺と同じ黒髪と黒い目を持っている。彼女を視ていると、胸の奥がきつく締め付けられているような感覚に襲われる。
打ち付ける豪雨によってずぶ濡れになっているにもかかわらず、女は輝くような微笑みを浮かべ、憑き物が落ちたように晴れやかな顔つきで親父の方を振り返っていた。その腕には、生まれて間もない赤ん坊が抱かれている。
『ゼウス様、私はヘラ様のお怒りを鎮めなければなりません。そうでなければいずれ、この子にも私と同じ災いが降りかかることでしょう』
泣きじゃくる赤ん坊をそっとゼウスに抱かせ、女は愛おしそうに赤ん坊の頭を撫でた。
『しかし、ネリア――』
困惑したような表情で女を見つめるゼウス。
ネリアだって? やっぱりあの女は俺の母親だったのか。
話によれば、お袋は海に身を投げて死んだのだという。俺の勘に狂いが無ければ、まさかこの光景は――
『私はこの子を愛しています。私には母親として、この子を明るい未来へと導く義務があります。その義務は同じように貴方にもあるはず、神である貴方にも。ですからどうか、この子をこの先ずっと見守ってくださると約束してください』
赤ん坊の俺をじっと見つめたゼウスは、何も言わなかった。
しかし、お袋が崖の端へ向かって駆け出していくのを見ると、彼は長い髪を振り乱しながら懇願するように手を伸ばしていた。
『やめろ、ネリア! 他にもきっと方法は――』
お袋の体が空へと躍る。
伸ばされた手は虚しく空を掴み、彼女の体は暗い波しぶきにさらわれ、視えなくなっていた。
そうか、そういうことか――。
自分の運命を不幸のどん底に叩き込んだはずの神を、彼女は最期まで信じていたんだ。そして彼女はきっと赦し、愛していたに違いない。あの女ったらしの不良親父のことも、もちろんその馬鹿親父の血を引いて生まれてきた俺のことも。
剣に刻まれたその言葉は、陽の光よりも暖炉の炎よりも、何よりも俺の心を明るく暖かく照らし出してくれたような気がした。
高く嘶いた天馬の手綱を意気揚々と引いた俺は、笑顔とともにヘルメスに向かって大きく手を振る。
天馬の勇壮な雄叫びは、まるで戦地に赴く者を鼓舞するファンファーレのようだった。
みるみる遠ざかっていくヘルメスの表情は、あの馬鹿親父とそっくりの静かな笑みに包まれていたのだった。