名工ダイダロスの受難・1 (2011/01/21 改稿済)
俺は今、プライドも何もかもを捨てて、実の父親の前に立っている。世界で一番憎い男に、頭を下げにやってきている。
俺の父は、所謂“穀潰し”ってやつだ。放蕩親父と言ったっていい。
自分勝手で、衝動的で、おまけに酷い女好き。
どう間違ったらこんな子供みたいな大人が出来上がるんだ?
婚約の儀を交わした嫁が居るにもかかわらず、俺のお袋に無理矢理手を出した馬鹿な男は、すぐに嫉妬深い鬼嫁に事がばれ、あろう事かその嫁の怒りの矛先は、当事者であるはずのこの男を通り過ぎてお袋に向けられた。不運な事に、その馬鹿男の子供を宿してしまったお袋は、激しい迫害を受け、苦悩の末、海に身を投げて自殺した。
そして、母親が自殺する直前にこの世に産み落とされた俺を、この男はあっさり他人に預けて育児放棄しやがったんだ。
こいつのどこに、好意を持てる要素がある?
この世がひっくり返ったって、無理な話じゃねえか。
「久しいな、サイアス。立派に育ってくれて、俺は嬉しいぞ」
一体どこから集めてきたのか、選りすぐりの美女ばかりを玉座のまわりに侍らせて、親父はぬけぬけと言い放っていた。
「何ニヤニヤしてんだよ、馬鹿親父が。俺は全然嬉しくねえんだよ」
俺の目の前で虫唾が走るほどの厭味な笑いを浮かべている男は、十八になったばかりの俺の父親としては随分若く見える。
何故かって?
それは“本当は血が繋がっていない”とか、“異常なほど若作りしている”とか、そんな簡単な理由から来るもんじゃない。こいつと俺とが本当の親子である事は紛れも無い事実。けれど、人として生きてきた俺とは違い、こいつは不死の果実を喰らい、永遠の時の中を生きているのだ。
それにしたって、ただ顔を見ようとするだけでも口元がひきつって、まともに目を合わすことなんて出来やしねえ。
俺の生まれる以前から、こいつがこの厭味ったらしい整った顔を貼り付けてお袋を誑かしていたかと思うと、反吐が出そうになる。どうせ見た目と同じく、頭の中だって大して変わっちゃいないんだろう。腹の中の思いを必死に押さえ込まなければ居ても立ってもいられないほど、俺の腑は煮えくり返っていた。
「ふふん、見た目と強気なところは母親そっくりだな。今日がヘラの居ない日で助かった。あいつはたぶんお前がここに居ると知ったら、タダでは帰さんだろうからな」
“ヘラ”ってのは、コイツの妻――要するに、俺の母親を迫害し、自殺に追い込んだ張本人だ。
元はと言えば悪いのは親父自身だが、俺にとっては鬼嫁の方だって憎い敵であることに変わりはない。
こいつらが“神”と呼ばれる存在でなければ、とっくの昔に俺の目の前に引きずり出して、二人まとめて殴り殺してやってるところだ。
「ヘラが居ないことはヘルメスの奴に確認済みだ。俺がそんなヘマをやらかすわけがねえだろ」
「ほう、さすが俺の息子だ。抜かりがない」
てめえには抜けたところ以外に何も存在しねえな。
だいたい、てめえがチャランポランだったお蔭で、俺の母親が死んじまったんだろうが!
怒鳴りたくなるのをグッとこらえ、俺は手短に用件を告げることにしていた。
火急の用があるということも第一だが、何よりもまず、こいつと余分な話をする気なんか一切起こらないからな。
「何でもいいから、空を飛ぶための道具を貸してくれ」
「空を飛ぶ道具?」
すぐ側で酌をしていた、侍女なのか愛人なのかもよくわからない女の一人と顔を見合わせ、親父は首を傾げていた。
「何故そんなものが必要なんだ? 用途を言ってみろ」
やっぱりそう来やがったか――
親父の反応が予想通りであったことに多少の苛つきを感じながら、俺はなるたけ腹を立てないようにと自分に言い聞かせ、事の経緯をぼそりぼそりと話し始めたのだった――
*****
俺は今、親父の住むオリュンポス山から遙か南に位置するクレタ島に住んでいる。
育ての親の所を抜け出し、いろんな場所を転々とした挙句、皮肉にも親父の故郷であるこのクレタの地に流れ着いた俺は、ダイダロスという建築家のもとで働きながら、島の学校で学び、ここ最近では一番の充実した毎日を送っていた。
師であるダイダロスは、身寄りのない俺にとても良くしてくれている。
島を治めているミノス王にその腕前を買われ、王室お抱えの建築家となった彼からすれば、それは何でもないことだったのかもしれないが、彼のもとで働く事を条件に、ダイダロスは何処の馬の骨ともつかない俺に食べ物や衣服はおろか、住む場所や、学び舎までも親切に提供してくれたのである。
彼はもともと本土の大都市アテナイで名を馳せた建築家だったらしいが、弟子と揉め事を起こしたとか何とかで故郷を追われ、わざわざこんな辺境の地まで引っ越してきたらしい。
しかし、何不自由ない暮らしを約束されている俺にとってみれば、彼のこれまでの経歴なんてものは、塵ほども気にならない、どうでもいいことでしかなかった。
それよりも、一日でも早く一人前の建築家になって、世話になった本当の父親同然の師匠に恩返しがしたい。
その一心で、俺は毎日寝る間も惜しんで仕事と勉強に明け暮れる日々を送っていたのである。
「ねえ、サイアス。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
ある日、静まり返った工房で設計の仕事に追われていた俺のところに、いつになくしょぼくれた様子のイカロスがやってきていた。
「どうした、イカロス? 何か元気ねえな」
晴れ渡る空を映したように鮮やかな碧眼に影が落ちていた。
コイツはダイダロスの息子のイカロス。歳は確か俺の四つ下で、十四だったと思う。
一人っ子のイカロスは、俺のことを本当の兄のように慕ってくれている。俺自身も従順で頭のいいイカロスのことを気に入っていて、何かと行動を共にすることが多くなっていた。
「うん、あのね……」
日頃から父親の仕事を手伝う事の多いこいつが工房に顔を出す事自体は、それほど珍しい事ではない。しかし、好奇心旺盛で人懐っこく、いつも明るいイカロスが、こんなにしょげた様子を見せるのは本当に珍しいことだ。
それほど酷く言い辛いことなんだろうか。
不安げに体の横で拳を握ったイカロスは、一向に瞳を上げようとはしない様子で、たどたどしく語気を曇らせていた。
「父さんが何日か家に帰ってないの、気付いてるよね?」
「ああ、親父さんは王宮だろ?」
ダイダロスは“あの行事”が行われる期間だけ、数日仕事を休んで家を留守にする。実際彼が本当に仕事を休むところを見るのは、俺が弟子入りして以来初めてのことだが、俺は今、彼の留守を預かるために学校を休んでいるのだ。
しかし、言われてみれば予告していたよりも随分帰りが遅いような気がする。今頃ならもう“あの行事”はとっくに終わっているはずなのに。
「まだ終わってねえのかな、生け贄の儀式」
忌まわしい言葉そのものが、俺の胸の内の不安を殊更酷く煽っているような気がしていた。
生け贄――生きたまま供物にされるなんてロクでもない。聞きたくもない言葉だ。
ミノス王の命を受け、ダイダロスはこの島に果てしなく巨大な迷宮を作った。何でもその迷宮は、人身牛頭の恐ろしい怪物“ミノタウロス”を幽閉しておくための牢みたいなものらしい。ミノス王の妃が牡牛と交わる不義の末に生まれたって噂のその怪物は、九年に一度、若い男女を七人ずつ生け贄に差し出すことを条件に、迷宮の中でおとなしく引きこもる事を約束してるって話だ。ダイダロスは迷宮の創設者として、その儀式に毎回立ち会っているらしい。
しかし、その儀式はもう三日も前に終わっているはずだ。いくらのんびりしていたとしても、そろそろ溜まった仕事に手をつけてもらわなくては、まだまだ見習いの俺の腕前では到底捌き切れない量にまで膨れ上がってしまう。
もしかして、ダイダロスの身に何か起きたとでも言うんだろうか――
不安そうに俯くイカロスをまじまじと見たとき、突如として俺の脳裏に生々しい映像がよぎっていた。
空に向かって突き抜けるように、厳しい石造りの迷宮が聳え立っている。
迷宮の側に作られた観覧席には、煌びやかな衣装をまとった王家縁の面々が、三者三様の面持ちで鎮座していた。
不安げな眼差しで迷宮を見つめる、息子のイカロスそっくりの面影を宿したダイダロス。
その隣には、強欲そうな面構えのミノス王の姿。
その更に隣には、祈るように目を閉じた美しいアリアドネ王女の姿。
この映像は、もしかすると三日前の“生け贄の儀式”の様子じゃないのか――
迷宮の扉が開かれると、絶望に満ちた表情の若い男女がゾロゾロと列を成し、その奥へと歩いていく。
その列の中に、明らかに他とは体格の違う屈強な青年が一人。彼は、後ろ手に隠し持った糸巻きのようなものをクルクルと回しながら歩いている。
やがて一団が迷宮の最深部にさしかかると、そこには恐ろしい形相の怪物ミノタウロスがだらだらと涎をたらしながら、まさに空腹極まれりといった様子で待ち構えていた。
映像はまだまだ終わらない。
畏れおののき、あまりの恐怖に声も出なくなった若者たちを押し退け、屈強な青年が怪物の前へと歩み出る。糸巻きを放り出した青年は、果敢にもミノタウロスに挑みかかり、隠し持っていた小さな短剣一本で、いとも簡単にその怪物を倒してしまったのである。
そして、糸をたぐって他の生還者達と共に迷宮の入口に帰還した青年は、彼を慕い、おそらく青年に生還のための妙計を施したと思われる王女アリアドネと熱く抱擁を交わし、やがて彼女を伴って何処かへと去ってしまった。
「まさか……」
「視えたんだね、サイアス」
あまりの光景に呆然としていた俺を、耳慣れたイカロスの声が呼び戻してくれていた。
今視えたものは、紛れもない真実のはずだ。
俺には、過去や未来を問わず、先見の明を得るために必要な情報を、第三者的に“視る”ことが出来るという妙な力がある。力を使うことが出来るのは、自分、若しくは自分とかかわりの深い者の身に危機が訪れようとしているときに限るが、時折こうして白昼夢のように、何らかの映像が頭の中に流れ込んでくることがあるのだ。子供の時分に育ての親のところからまんまと逃げ出す事が出来たのも、その後の放浪生活が大した苦も無く安定へと向かってくれたのも、全てはこの力に助けられての事だったのである。
「実は、王女に糸巻きの知恵を授けたのが父さんらしいんだ。必死に生け贄の男の人を助けようとしてた王女が可哀想になったらしくて」
「親父さんらしいな」
けれど、この上なく浅はかだ。
ミノス王の黒い性格を思えば、事が知れた場合に振りかかってくる災厄は、それほど考えなくとも予見できたはず。
それでもダイダロスが王女の心を救おうとしたのは、悲しみに暮れた幼い王女の姿を、息子のイカロスと重ねてしまったからなのかもしれない。
それに彼は元々、迷宮を建設する事に異論を唱えていたはずだ。
権力をちらつかせて脅しを掛けられ、血塗られた迷宮を造りあげてしまったことを、彼はずっと後悔していると言っていたのだ。
「でも、そのおかげで絶対に誰も出られないはずの迷宮から生還者が出て、おまけに愛娘が連れていかれてしまったから」
悔しそうに唇を噛んだイカロスの瞳には、じわじわと涙が浮かんでいた。
「父さん、怒った王様に捕まっちゃったんだよ。それで、迷宮の最上階に閉じこめられて……」
どんな言葉を返せばいいのか、全く思いつかない。
泣きじゃくるイカロスの言葉は、嗚咽に飲み込まれて既によく聞き取れなくなっていた。
「僕も、もうすぐそこへ行かなきゃならないんだ」
「何だって?」
最後の言葉は何とか聞き取れたものの、それは俺にとって、おおよそ理解し難い内容だった。
イカロスの言葉の意味を受け入れられずに思わず眉を寄せた俺は、気が付くと、凄むような勢いで彼の細い双肩に掴みかかってしまっていた。
「お前は関係ねえだろ! 何でお前まで……」
「親子だから、僕も同罪だって……」
「何でだよ! 畜生!」
憤慨しながら小さな両肩を揺さぶる俺は、それほど恐ろしい形相をしていたのだろうか。イカロスは一瞬大きく体を強張らせ、怯えたような顔つきでじっとこちらを見つめていた。
何か策はないのか。親父さんとイカロスの両方を救うことの出来る妙策は。
ちんたらと考え込んでいる暇なんてない。今すぐ考えろ、考えるんだ。
工房のテーブルに勢いよく拳を叩きつけた俺は、ぐしゃぐしゃと頭を掻きながら必死に思考を巡らせる。
その刹那、俺の脳裏をまたも白昼夢がよぎるのを感じていた。
迷宮の小部屋に閉じこめられたダイダロス親子。
恐怖と疲労にすっかりやつれた顔で、ダイダロスが息子に向かって必死に何かを訴えている。
『イカロス、窓辺にやってくる鳥たちの羽を集めなさい。燭台にある蝋燭を使えば、私たちは助かるかもしれない!』
窓辺に詠う鳥たちの体から、毟り取らんばかりの勢いで必死に羽を集めるイカロス。そして、建築家であると同時に発明家でもあるダイダロスは、ついに蝋で固めた大きな翼を二組、完成させる。
『いいかい、イカロス。この翼は蝋で出来ている。太陽に近付きすぎれば蝋が溶け、海に近付きすぎれば波のしぶきによって重くなり、飛べなくなってしまうだろう。必ず空と海の真ん中を飛んでいくんだぞ』
迷宮の窓辺から、大空へ飛び立つ二人。翼は会心の出来映えで、風よりも早く飛んだ。
素晴らしい翼を携えた自分に、行けない場所は無くなった。
雲よりも高く飛んでいけば、あの美しい太陽にも手が届くのではないだろうか。
あと少し、あとほんの少しだけなら――
一気に訪れた解放感に高揚したイカロスの表情がそう言っているように見えた。
大地を離れ、鳥のように自由に空を舞う感覚に陶酔した彼は、父と交わした約束も忘れ、美しく輝く太陽に激しく心を奪われてしまったようだった。
『イカロス! 駄目だ、戻りなさい!』
燃え盛る光に手を伸ばしたイカロスの耳に、もはや父の叫びは聞こえていなかったのだろう。
ダイダロスの必死の叫びが響いたときにはもう、イカロスの背負った翼は太陽の熱に溶かされ、その小さな体は、舞い散る翼と共に、暗い海の底へと墜ちてしまった後だった。
「サイアス、どうしたの?」
俺の意識を呼び戻したのはまたもイカロスの不安げな声だった。
良かった――こいつはまだ生きている。
あまりに鮮烈な映像を見すぎたせいで、今目にしている光景が夢なのか現実なのか、すぐには判別がつかなくなっていたらしい。
額に滲んだ汗を拭い、俺は大きく息を吐き出していた。
あの白昼夢は、おそらくこれから先、イカロスの身に降りかかろうとしている災厄の予見に違いない。
今度はなるたけ刺激しないようにと心掛けながら、俺は弱々しく俯いたイカロスの不安を払拭してやるべく、再び彼の華奢な両肩を揺すっていた。
「イカロス。お前達が捕まったとなったら、弟子の俺ももうここには居られねえ。俺は今から海を渡ってオリュンポスの山へ行く。親父に相談してお前を助ける方法を考えるんだ。絶対に助けてやるから、早まったことをするんじゃねえぞ、いいな?」
「お父さん? サイアスのお父さんって、まさか――」