第三休 屏風の虎は異界の霧に嗤う
※本作品は、歴史上の人物・一休宗純をモチーフにしておりますが、筆者の妄想と勢いだけで構成されたフィクションです。史実の一休さんおよび、各宗教とは一切関係ありません、広い心でお読みください。
巨大な茸の森を抜けるのに、そう時間はかからなかった 。道中、傘ほどもある極彩色の茸を見て、「これを食うべきか、あるいは雨宿りに使うべきか」という命題に頭を悩ませたが 、毒々しい紫色の斑点が「食べたら即座に死ぬぞ」と警告を発しているのを見て、私は賢明にも空腹を抱えたまま歩を進めることにした 。
しばらく歩くと、森が開け、眼前に集落らしきものが見えてきた 。石と木材を組み合わせた素朴な家々が並び、煙突からは穏やかな炊煙が上がっている 。異界に来て初めて目にする文明の明かりは、それだけで心が安らぐものだ。
「ありがたい。これでようやく、人心地つける」
私の目的は三つ 。一に、安全な寝床 。二に、温かい飯 。三に、そして何より重要な、芳醇なる酒 。この三種の神器さえ揃えば、異界だろうが地獄の底だろうが、そこは都だ 。私は乱れた着物を直し、寺で培ったいかにも威厳がありそうな僧の仮面を被って、村の入り口へと向かった 。
しかし、村の様子がおかしい 。入り口付近に村人たちが殺気立った様子で集まっている 。彼らは手に手に鍬や槍を持ち、村の中央広場を遠巻きに囲んでいた 。中心にいるのは、全身を鈍銀色の鎧で固めた数人の騎士たち 。彼らの甲冑は異界の技術の結晶であろうが、緊張と焦りで見苦しく汗ばんでいた 。そして、彼らが剣先を向けている先には――奇妙な輝きを放つ、半透明の『結界』のような円蓋があった 。
「ほう、何やら面白そうなことをやっているな」
野次馬根性が騒ぎ、私は人混みをかき分けて最前列へと進み出た 。結界の中には、一頭の猛獣がいた 。虎だ 。ただし、愛らしい猫科の動物ではない 。全身が揺らめく黒い霧で構成され、裂けた口からは紫色の炎を滴らせている 。その咆哮は空気をビリビリと震わせ、村人たちを恐怖で竦み上がらせていた 。
「おい、そこの坊主! 危ないから下がっておれ!」
怒声が飛んだ 。声の主は、騎士たちを指揮する小柄な男だ 。身の丈に合わぬ大剣を構え、顔を歪ませている 。騎士隊長といったところか。
「おやおや、これは手厳しい。旅の僧侶が道に迷い、慈悲を乞おうと立ち寄ったのですが、随分と物騒な歓迎ですな」
「僧侶だと? そんなふざけた格好の僧侶がいてたまるか! 見ろ、この『影の魔獣』を 。古代の封印が解けかけ、今にも結界を破ろうとしているのだ!」
騎士隊長殿が指差した先、結界の表面にはピシピシと亀裂が走っていた 。中の影の虎は、獲物を求めるように牙を剥き出しにし、結界に体当たりを繰り返している 。その体当たりは、実体がないにもかかわらず、地面に振動を与えていた。
「あの結界が割れれば、村は全滅だ 。我々の剣でも、実体のない影は斬れん 。帝都の魔術師団の到着を待っているが、それまで持つかどうか……」
騎士隊長は悔しげに唇を噛んだ 。村人たちの顔には絶望の色が浮かんでいる 。
なるほど 。物理攻撃無効の幽霊虎、か 。力押しの騎士殿には相性が悪い相手らしい 。
だが、私には見えていた 。あの虎、実体がない割には、こちらの恐怖心に反応して大きくなっていないか ? 禅の教えに『唯識』という言葉がある 。世界は心の投影に過ぎない 。恐怖が怪物を生み、不安が災厄を招く 。先の岩窟の守護者も、私の「無の魔法」というハッタリに、論理の矛盾と未知の概念への恐れから道を開けたのだ 。
腹が鳴った 。ぐぅぅ、と間の抜けた音が静寂に響く 。私は一つあくびをして、騎士隊長殿に言った 。
「なんだ、そんなことか」
「……あ?」
「そんな猫一匹に手こずって、飯の時間も忘れるとは嘆かわしい 。私がその虎、退治して進ぜよう」
場が凍りついた 。騎士隊長殿は目を見開き、村人たちは「気が触れたのか」という目で私を見た 。無理もない 。
「き、貴様、何を言っている ? あれは剣も魔法も効かぬ『影』だぞ ! 魔力のかけらも感じられぬお前に何ができる!」
「魔力がなくとも、知恵がある 。それに、私には秘策がある」
私は懐から、先ほど森で拾った蔦を取り出した 。ただの植物の蔦だ 。どう見ても強度は紐以下、魔力は零である 。
「この魔法の縄で、あの虎を縛り上げてみせよう 。さあ、そこの村長。もし私が解決したら、温かい飯と、極上の酒を用意してもらえるかな?」
「も、もちろんじゃ ! 村が助かるなら、牛の一頭でも丸焼きにしてやる!」
「交渉成立だ」
私は草履を脱ぎ、あろうことか結界の目の前にゴロリと横になった 。そして、蔦で作った輪っかを地面に置き、騎士隊長殿に向かって手招きをした 。
「さて、騎士殿。準備はできた」
「準備だと? 寝転がっているだけではないか!」
「焦るな。私は今、この縄で虎を捕らえる構えを取っているのだ 。――さあ、頼むぞ」
私はニヤリと笑い、結界の中の魔獣を指差して言った 。
「私がここで待ち構えていてやるから、お主らがその虎を『結界の外』へ追い出してくれ 。出てきた瞬間、私がこの縄でぐるぐる巻きにしてやろう」
「は……?」
騎士隊長殿はポカンと口を開けた 。
「だ、だから! あいつは結界の中にいるから手が出せないと言っているだろう ! 中に入れば魂を食われるし、そもそも実体がない影をどうやって追い出せと言うのだ!」
「おやおや、情けない。天下の騎士隊長殿ともあろうお方が、たかが猫一匹を追い出すこともできんのか?」
「無理に決まっているだろう! 理屈が通らん!」
「ふむ。『無理』か」
私はすっくと立ち上がり、衣の埃を払った 。そして、先ほどまでのふざけた態度を一変させ、冷徹な理性を宿した鋭い眼光で騎士隊長殿を、そして村人たちを見渡した 。
「ならば、答えは簡単だ」
私は結界に背を向け、大声で宣言した 。
「皆の衆、よく聞け! 騎士隊長殿は今、はっきりとこう言った。『虎を結界の外に出すことは絶対に無理だ』と!」
ざわざわと人々の間に動揺が走る 。
「出せないということは、出てこないということだ ! 騎士隊長殿が太鼓判を押したのだぞ ? 『追い出すことすらできない』ほど、あの虎はあの中から出る気がないのだ ! ならば、何が怖い ? 出てこない虎など、ただの絵画、屏風の絵と同じではないか!」
「なっ……!?」
騎士隊長殿が顔を紅潮させる 。彼は怒りよりも、論理の袋小路に追い込まれたことへの狼狽の色が濃かった。
「それは詭弁だ ! 結界が壊れそうだと言っているだろう!」
「壊れそうに見えるのは、お主らが『出てくるかもしれない』と恐れているからだ ! いいか、よく見ろ! あいつは、お主らが騒げば騒ぐほど元気になる 。だが、誰も相手にしなければ、存在意義を失うのだ!」
私は結界の中の虎に向かって、べっ、と舌を出した 。
「おい猫! 悔しかったら出てきてみろ ! 騎士様がお前を連れてくるまで、私はここで昼寝をさせてもらうぞ 。お前ごとき影法師、私の昼寝の邪魔をする価値もない!」
言い放ち、私は再び地面に寝転がり、両手を頭の下に組んで、大げさな高鼾をかき始めた 。無視。これこそ、禅が教える修行の一つ「無行」である 。
村人たちは呆気にとられた 。騎士たちも毒気を抜かれて剣を下ろした 。彼らが戦闘態勢から解放され、一休の行動に意識を集中させた瞬間、村全体を覆っていた恐怖という名の「魔力」の供給が絶たれた 。
すると、どうだろう 。結界の中の影の虎が、急速にしぼみ始めたではないか 。もともと、あの魔獣はこの土地の澱んだ魔力が、人々の不安を触媒にして形を成しただけの現象だったようだ 。
「出てきたらどうしよう」という恐怖が虎を強大にし 、「絶対に外に出られない(出せない)」という騎士隊長殿の言葉と 、私の完全なる無視(侮蔑)によって、その存在基盤を崩されたのである 。
シュゥゥゥ……と音を立てて、虎は黒い霧となって消散した 。
「……消え、た?」
騎士隊長殿が呆然と呟く 。その顔には、剣を構えていた時の勇ましさは微塵もない。
「消えたのではない 。元から『いなかった』のだ 。心の中にしかおらぬ虎を、お主らが勝手に現実に引っ張り出していただけのこと。これを禅では『一切唯心造』と説く」
私は片目を開け、寝転がったままニッと笑った 。
「屏風の虎は、屏風の中にいるからこそ価値がある 。外に出てこられぬ虎など、猫以下の存在よ」
一瞬の静寂の後、村中から割れんばかりの歓声が上がった 。訳がわからないが助かった、という安堵の爆発だ 。騎士隊長殿は狐につままれたような顔をしていたが、やがてバツが悪そうに剣を収め、私に深々と頭を下げた 。
「……完敗だ、僧侶殿 。剣ではなく、口先一つで魔獣を葬るとは」
「褒め言葉として受け取っておこう 。さあ、約束だ。飯だ飯 ! 村一番の極上の酒を持ってこい!」
こうして、私は異界での最初の勝利を収めた 。村長に案内された宴の席には、豪勢にも猪の丸焼きと山盛りの果物が並べられた 。そして、いよいよ待ちに待った酒の出番だ。
「さあさあ、坊様! 村一番の『お神酒』ですじゃ!」
出されたのは、白濁した液体が入った壺 。期待に胸を膨らませ、私はそれを椀になみなみと注ぎ、一気に煽った 。
「ぶほァッッ!!?」
口の中に広がったのは、芳醇な米の香り――ではなく、強烈な酸味と、青臭い草の味、そして舌が痺れるような謎の刺激だった 。それは、まるで泥水に酢と薬草を無理やり混ぜたような、形容しがたい代物だった 。
「なんじゃこりゃあ!?」
私は思わずむせ返り、涙目になった 。
「へ? これはマンドラゴラの根を絞って発酵させた、滋養強壮に効く最高級のエリクサー酒ですが ? この辺りでは、これ以上の酒はありませんぞ」
村長がきょとんとして答える 。村人たちも美味そうにその毒液を呷っている。彼らの常識は、私のそれとは根本的に異なっているようだ。
「……前言撤回だ 。この世界、やはり地獄かもしれん」
涙目で激マズの健康酒を飲み下しながら 、私は遠い日本の、安酒の味を恋しく思った 。しかし、酒の味一つとっても、この世界は一筋縄ではいかない。それは同時に、私の「頓智」が活躍する余地が無限に広がっているということだ。
だがまあ、悪くはない 。腹は満ちた 。そして何より、この世界には退屈しない「ネタ」が転がっていそうだ 。
私は痺れる舌で唇を舐め、次の街への地図を頭の中で描き始めた 。次は、もっとまともな酒があることを祈って 。あるいは、この世界のえりくさー酒とやらを美味いと感じるように、私の舌の常識をひっくり返す頓智を編み出すか。
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