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運命

作者:
掲載日:2024/03/25

静かな空間の遠くの方から、かすかに穏やかな音楽が聞こえる。暖かく軽やかで、ゆったりとしたジャズの音に合わせるかのように悠悠閑閑と流れる時間は、春の朗らかな陽気を想像させる。一息吸い込むだけで、心が明るくなり、幸せな気持ちが体中に満ちわたる感覚。ふいに、少し開いた窓から迷い込んだ風が、優しく彼の前髪を揺らした。

 「良いお天気になってよかったね。」

 彼が前髪を軽く整えながら微笑んだ。笑うときゅっと細くなる目が、下がる目尻が、苦しいほどに愛おしい。

 “優しさ”を体現すればきっと彼になると、私は信じて疑わなかった。常に慈愛に満ちた表情も、優雅な立ち振舞も、なによりも柔らかな声を、私は愛していた。低くて心地よい、体の底までじんわりと響いてくるような、甘くて柔らかい声が。

 「君を、ずっとここに連れてきたかったんだ。」

 繁華街から少し離れたこの小さなカフェは、彼の行きつけの店であるようだ。ここの紅茶とケーキが絶品でね、と彼は少年のようにあどけなく顔をほころばせる。

 「お待たせいたしました。」

 清潔感を身にまとい、上品に微笑むウェイトレスが、ピカピカと光る銀のトレイを持って現れる。彼女は洗練された動きで、丁寧にテーブルを彩り始めた。

 木目が美しいダークグレーの木の机と、ケーキを載せた翠色の陶器の皿がぶつかり、コトリ、と優しい音を立てる。続いてティーポットとカップも登場する。透き通ったガラスのポットには、飴色の液体がなみなみと注がれており、ゆらゆらと揺れる水面は、光を反射して琥珀のように煌めいた。

 ウェイトレスはポットをふわりと持ち上げ、輝く液体をそっとティーカップに注ぎ入れた。瞬間、ツンと鋭くも、柔らかなベルガモットの香りが空間に満ちる。

 「チョコレートケーキにはルフナ茶が良いんだけどね。アールグレイの柑橘も、チョコとの相性が良いんだよ。」

 彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。そんな博識な一面も、それを無闇にひけらかすことのない奥ゆかしい一面も。私は彼の全てに惹かれていた。

 彼はひらりとティーカップを操る。私もそれに倣い、そっとアールグレイを口に含んだ。

 高貴と表現するにふさわしい、爽やかで高級感の漂う香りとともに、ゆっくり一口飲み込む。直後、口から鼻に向けて、優雅に柑橘の香りが抜けていくのを感じ、私はほうっと息をついた。そんな私を見て、嬉しそうに彼が笑う。

 「ケーキもどうぞ。」

 翠色の、少し大ぶりの皿の上に、ちょこんと可愛らしくも気高く佇むのは、デジールという、チョコレートのケーキだ。小さな三角に切り分けられたそのケーキは、三層から成っている。

 一番下の層は、チョコチップ入りの生地であろうか。コーヒーのように深くも、どこか温かみのある暗いブラウンのスポンジの所々に小さな球体が見受けられる。その上にはミルクココアのように優しい色をしたクリーム。下のスポンジに比べれば、とても密度が高く、きめ細やかなそのクリームは、おそらくチョコムースであろう。そしてその上には、すこし黄みがかった、白いクリーム。ぽつぽつとした小さな黒い斑点が見られることから見るに、バニラを使用したクリームのようだ。その上にはまた、優しい色のチョコムース。表面にはチョコレートホイップがツンと絞られ、更に粉雪のように細かなココアパウダーがそれらを優しく包んでいる。その美しさに、私はそっと息を飲んだ。

 鈍く銀に光る小さなフォークを、ゆっくりケーキに差し込む。そのほとんどをクリームやムースから形成するであろうケーキは、驚くほどすんなりとフォークを飲み込んだ。

 切り分けたケーキをゆっくりと口に運び、そっと咀嚼しようと口を閉じた瞬間、それらはすっと混ざり合い、一つのハーモニーを生み出した。

 優しい色をしているかのように見えたチョコムースは、濃厚かつ深い苦味を備えている。それをとりなすかのように混ざりあったバニラクリームは、ほんのり甘く、優しく彼らを包み込む。想像以上にとろりと緩めのバニラクリームと、ふわりと軽いチョコムースは、ペースト状に混ざり合い、舌の上を滑るが、そこでアクセントとなるのが一番下の生地に含まれていたチョコチップだ。口の中でとろけるムースと、弾けるチョコチップがなんとも楽しい。決して甘すぎず、かと言って苦味だけが走らない、贅沢で濃厚な味わい。私はそれらを十分に舌の上で転がし、ゆっくりと飲み込んだ。

 次いで、アールグレイをそっと口に含む。気品の漂うベルガモットの香りがふわりと鼻を抜けた瞬間、彼の言葉に確信を覚えた。濃厚なチョコレートが、この柑橘の香りとともに爽やかに変化していくのが感じられる。

 「ショコラとコーヒーの組み合わせも素敵だけど、実は紅茶って、ショコラの名脇役なんだよ。」

 彼はそう言って、またひらりとティーカップを口に運ぶ。美しいスイーツに、愛しい彼。緩やかに流れる時間の中で、いつまでもこの時が続けば良いのに、と、私はゆっくり目を閉じてーー。


 目を開けた。向かいの席には誰もいない。私は息をつき、あの日と同じアールグレイとショコラをゆっくり口に運ぶ。

彼は唐突に私の前から姿を消した。運命を確信する程に多幸感に溢れた日々の終わりは全く呆気ないものだった。その刹那性に、運命など結果論に過ぎないのだ、と、自嘲的な笑みを零す。

 確かにあの日と同じハーモニーではあるものの、どこか彩度の低い味わいに、私はそっと目線を落とした。ショコラは、ただただ苦く口の中に残った。

授業内課題

「食べる」について書く


これは一日で別れた人との思い出を綴った

叶わなかった恋ほど美しいのは何故なのか

この私を一日で振るとか見る目無さすぎる

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