96話 悪夢さえ許さぬ浅く深いうたた寝をあなたと
狩人学校が多く立ち並ぶ旧都東京斑鳩市。
そのメインロードから少し離れた閑静な住宅街に佇む都営高層住宅『輝夜』。
立地もさることながら旧都東京を守護領域とする月詠家の運営する警備会社が警備を担当しているために、要人の一時避難先や著名人の隠れ家に使われたりと、家賃が高額なことも踏まえて一般人が第一住居とするには不向きとも思われがちなそんなマンション。
だが正確には、それは間違っている。
その24階建ての建物には要人も著名人も一人として泊まってはいない。
当然、一般人も。
「……机ひとつ無いとは。
本邸の頃もそうでしたが、ハガネ様はもう少し私物を持つことを覚えた方がよろしいかと」
「私物って言っても。刀と服さえあればよくないか?」
「…………ここは戦国の世ではありません。
いいえ、例え戦が常の者とて囲う食卓も休む寝床もありましょう。
約一ヶ月暮らしておきながら何も無い、などと人の暮らしでは到底考えられないことです」
指紋と虹彩の二重認証にオプションで取り付けた鍵を差し込みドアを開け、三人は中に入る。
ハガネとほとんど背丈の変わらない黒髪の給仕服の女が広い室内を見回した後に放った言葉にハガネが返したのが先程のやり取りだった。
「足りぬものは買い足せと御屋形様からことづかっておりますが、まさか足るものが存在しないとは私も予想しておりませんでした」
「まあ食事も睡眠もほどほどだったからなあ。
洗濯も業者に頼んでたし」
「ほどほどの食事と睡眠……??」
おおよそ現代的な生活を送るにあたって必要な家具がこの部屋には存在していなかった。
他の階の部屋とは異なりこの11階の一室は特別扱いされており、本来入居許可が降りた段階で備え付けられる生活必需品の類いは一切用意されていない。
そこに住まう主もまた異常とも言える体質から食事と睡眠を必要とせず、結果としてその部屋には隅に溜まった埃以外、文字通り何も無かった。
顎に手を当て思案する給仕服の背の高い女。
月詠に仕える使用人、『億堂イオリ』は、主の変人ぶりに頭を痛めながらも首に巻いた端末から投影したディスプレイに必要な家具をリストアップしていく。
部屋の主こと月詠ハガネは、呆れる従者を見ながら他人事のように空っぽの部屋の床に胡座をかく。
泥と血と謎の粘液と雪に揉まれた学校指定の狩人装束ではなく、上下の黒いスウェットの上に白いワイシャツというラフな出で立ち。
その横に立つのは銀髪赤目の幼女竜、『アルテナ・ミスティ』こと朧のアルテナ。
同じくここに来るまでに替えの服を用意されており、ハガネとセラと共に見繕ったものと少し似た白いワンピースを着て佇んでいる。
ハガネと違い、その手足にはイフリシアとの決戦の際に負った小さな傷が見られたために、杜若大森林からの移動のヘリコプターの中で処置が行われた痕がある。
アルテナが竜である、というのは周知の事実であり、本来であれば彼女がこの場にいることはあってはならないことではある。
それにも関わらず、旧が付くとはいえ都も都の東京の更に中心に位置する斑鳩市に、あろうことか月詠の手引きによって連れられるという奇異な現状。
だが彼女はただここに連れてこられたわけでもない。
「なあ、イオリ。本当に三人で暮らすのか?」
「はい。それがアルテナ様を失わない唯一の手立てですので」
月詠ハガネはひょんなことから朧のアルテナと出会い、短い時間ながら彼女の意思を認め、罪竜、公安、そして政府の直轄部隊と渡り合ってまで守ろうとした。
英雄になりたかったわけでもない、悲愴な運命に虐げられた弱者を憐れんだわけでもない、力を誇示できる場所を欲したわけでもない。
「なんでこうなったんだっけ」
『さあね』
誰にも聴こえない呟きに、彼にだけ聴こえる振動でアストライアが答える。
数時間前の地獄など無かったかのように夕陽の差すマンションの一室は平和で、空っぽの部屋は静かだった。
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空を飛ぶ監獄と称される船がある。
広い太平洋のどこかの空の上で、『痛壊号』は風を切って巡航している。
一世紀ほど前に世界を裏から牛耳る富豪が資金を出し合い天に住むことを目論んだ。
小国の国家予算に匹敵する莫大な金額と寄せ集められた叡智によって出来上がるはずだったその船は完成前夜に世界から消えた。
当然表沙汰になることなどなく、歴史の裏側からも消えることとなったその超巨大客船は、今こうして本来の役目を果たしている。
名を変えて、主を変えて、災厄を乗せてどこまでも飛んでいた。
「お疲れ様だ、二人とも」
見晴らしの良いサンデッキの上で、茶色い長髪を海風にたなびかせる男が気取った身振りでそう言う。
筋骨粒々ながら精悍と評するにはいささか整いすぎている相貌。
『鎖木の植物園』なる組織、その第六管理人を任されている『ベル・ノーベル』というのが彼を語るのに必要な全てだった。
「遠巻きから眺めていたけれど、いやあ、よく生き延びたよ!
褪せ赤はともかく、狂い銀までいたなんてさあ……。
知ってたら絶対二人とも手を引いてたよね!」
「…………ちょっと静かにして貰えます? ノーベル。
貴方の大声は傷に響きますの」
「同感ですね。
ただでさえ商機も商品も失って気落ちしているというのに」
サリエル・シャルシャリオネ、ダン・エインワットの二人は共に丸テーブルを囲み日傘の元で寛いでいた。
卓上にはアルコール入りの鮮やかな色のドリンクが、見渡せば夜空、照明にスポットを当てられた彼らは世界の中心にいるようであり、優雅そのものと言った風だった。
ただ、肝心の彼らの表情は芳しくはない。
衣装こそ変えたものの、その手足には癒えない生傷が深く刻まれており、何より彼らがそこまでしたというのに何一つ得ることがなかったという事実が表情を曇らせている。
「おお、失礼失礼。
まだ夜も訪れたばかり。二人の機嫌を損ねる気はないよ」
「はあ……。
『船』が近くに来ていたのは幸いでしたけれど、出迎えが貴方では喜びに欠けますわ……」
普段のゆるいロールではなく、よく梳かした金髪をストレートにして夜風に揺らすサリエル。
彼女もまた褪せ赤のイフリシアの生んだ地獄に身を投じた者の一人である。
だが、その傷の多くはあの赤い竜に付けられたものではない。
「いやあ、やっぱり一番驚いたのはあの竜喰みだね!
ん、ちょっと違うか。武器喰らいの方が正確かな」
「どちらでも変わりはないでしょう。
日本の護国十一家は話のわかる家ばかりだと決めつけていましたが。
まさか話どころか常識すら通じないとは」
「エインワットぉ? 貴方、ツクヨミは傍観者にすぎないだの嘯いていましたわよね?」
「月詠ハガネからは使命感も何も感じられませんでしたから。
恐らくあれが普通なんでしょうね」
「ンー……、ダン。それじゃまるであの武器喰らいは大した決意も意思も無く、罪竜やキミらを相手取ったってのか?」
「背景が存在しない、と言った方が正確ですねえ。
理由らしい理由が考えられないのですよ」
杯を傾ける。
誰が、ではなく全員が。
思い返せば渋面を作らざるを得ない記憶も、酒で濁らせれば笑い話。
もはや手配すらされることのない最悪の小悪党たちが月下で開く宴は続く。
「ダン、サリエルも今日は飲んで呑もうじゃないか!
我々には希望がある! 未来がある! 鎖木のために積まれた屍に報いるためにも、乾杯だ!」
「はあ……、静かな夜が台無しですわね」
「ノーベル、この船では我々とて『客人』なのですから。
あまりはしゃいではいけませんよ」
眠気を酒と一緒に飲み下し、三人はそれぞれの思い描く明日を思い思いに吐露する。
その顔は新しい悪戯を思い付いた子供のようであり、級友との会話に華を咲かせる学生のようであり、久々に会った同僚との再開を喜んでいるようでもあった。
「しかし竜の血の人体への影響は非常に興味深いものでした」
「ヒトを材料にした竜もどきならば命令系統もより正確になりますわ」
「二人が研究していた対高等知能生物用の感情制御の技術の方がオレは気になるなあ!
争いの意味が無くなる、争いが無くなる、手間が減る、誰も傷付かない平和の未来じゃないか!」
「あれは制御と言うにはあまりに大雑把ですし。
高位ステータス保有者の魔力の障壁を突破する手立てが見込めない以上、暴力の代替にはならないでしょうね」
「当面は資金繰りのためにも竜もどきと顔無し蛇の調整をしないといけませんわね。
手首結晶も実用に間に合わせれば中東の十三次聖戦にてお披露目出来るかもしれませんわ」
「おお! ならばオレも神源地の開拓を急がねば!」
「しかしまずそれには─────」
「いえ、だったら───」
「──」
弾む会話は無邪気そのもの。
たとえ悪夢のような談話でも、当人たちにとっては手の届き得る近い未来。
眠らぬ者たちの宴会はまだ終わりそうにない。
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「以上が本官の報告し得る全てです」
「……ご苦労。下がりたまえ」
法都岩手、平泉市。
現在の日本国の首都にあたるその街の中心には、当然政治の中枢たる施設が存在する。
22世紀初頭の現在では古風と言っても差し支えのない平屋のとある和室。
行儀は良くとも若干礼に欠ける物言いで上司への言葉を切ったのは、国土防衛省直轄部隊、『槍』の総指揮官である剣サイカ。
癖のある茶髪を揺らすことなく静かに面を上げ翻る。
サイカは息を止めていた。
緊張でも興奮でもなく、僅かにでもこの場の空気を吸いたくないがために。
不快だった。
部下が三人、褪せ赤のイフリシアの贄となった。
それを己の上司である防衛省幹部の男に伝えることはなかった。
不快な返事しか返ってこないであろうことは過去の経験からよく知っていた。
世界は困窮している。
魔法とステータスの世界は酷く不安定であり、一世紀前に存在した法と秩序の庇護下にある暮らしは誰かの悪意で容易く揺らぐ。
ゆえに国土防衛省という組織は純粋に、たとえその過程で犠牲を伴おうとも、誰もが暴力に怯えることのない世界を保ち続けるために邁進しているとサイカは知っている。
組織のほとんどが、その想いに大小はあれど似たような決意を抱いている、というのはサイカの願望でもなく、実際に日本国は彼らと護国十一家が互いの領分を弁えて成すべきことを成しているからこそ対奇蹟安全性を高い水準に保っていた。
だが、そのほとんどから漏れ出す者もいる。
残酷なことに、それは組織の末端にはおらず。
自己保身、権力の顕示、そんな言葉ばかりが似合う者に限り中枢に食い込み、そして往々にして彼らの相手をするのは現場のトップであるサイカやゼンと言った指揮官クラスの人間であった。
お国のために、とまではいかずとも、せめて円滑に仕事を回せるくらいにはなれ、とサイカは胸中で毒づく。
四月の天迷宮の一件以来、未知の武具と獣の存在が知れてからというものの、国土防衛省内部での権力闘争は悪化の一途を辿っていた。
新しく生まれた天迷宮にはそれぞれ固有の武具が確認されている。
それはすなわち何にも勝る国有財産であり、それを他国に売るか、自国で広めるか、政府で独占するか。
さらに幹部それぞれの思惑によって細分化した選択肢の中で出し抜き合い、その度に現場は右往左往を強いられていた。
(剣があれば叩き斬ってたかもしれない。
月詠ハガネに感謝せねば)
サイカの退出に際して、襖の横で待機していた秘書らしきスーツの男からサイカは一つの封筒を渡される。
資源難とデジタル化の推進から現代では滅多に見なくなった紙の伝達手段ではあるが、痕跡が残りづらく口頭では憚られる案件に限り稀に用いられることがあった。
当然、その程度のメリットのために手間を踏む者は多くなく、大概が旧時代の仕草を懐かしんでいるだけだとサイカは決めつけているが。
襖を開ける。少し冷たい外の空気を感じて、逃げるように一歩踏み出す。
「…………西の『不死者』たちが蠢いている」
サイカの背に向かって雑に放られた言葉。
独り言にしては大きい。返答を期待してのものならば空虚すぎる。
そんな曖昧なものでも、自分の上司の言葉ならば答えなければならないのがサイカの今の立場であり、どれだけ優れた戦闘能力と前線指揮経験を持とうとも今この瞬間だけはよくある管理職でしかない。
「『北インド星央寺院』の作戦的侵攻は、補給路にあたる中華三圏南西の海底基地を音冥家が消滅せしめたことで継続的な活動は困難との見込みでしたが」
「…………中華三圏が一、民貝が陥落した」
「まさか……!」
「……大陸がどうなろうと、どうでもいい。
だが、我々は……、この国にはやらねばならぬことがある。
さしあたっては、…………『世界の監獄』として、な」
神伏岩。
天迷宮由来の武具であり、産出地は日本のとある迷宮に限られている。
魔力を込めれば対象の真下にあたる範囲の魔力を強制的に押し下げるという特異な異能を携えた逸品であり、その効能は数を揃えれば莫大な魔力を保有する罪竜にすら通用し得るということが既に証明されている。
現代、ほとんどの人は魔力と密接に関わり暮らしている。
口にするものから身に纏うものまで、己の有する魔力からの身体補助により超人的な活動を可能としたりと、とにかく誰しもが魔力という目に見えぬ空気と共に生きている。
それが全て地面に引っ張られれば、まず魔力依存の大きい者であれば立っていることすら叶わず、そして多くが魔法と異能を使えなくなってしまう。
その点に目を付けたのが、政府ないしは国土防衛省の『革新派』とも称される、新迷宮から産出された武具を国益のために利用することを第一と考える者たちだった。
魔法黎明期の頃より魔法社会、狩人社会について回った問題である、『魔法犯罪者の処遇』。
21世紀までは、人は鉄の檻に入れられてしまえば何をすることも出来なかった。
だが、ステータスによって強化された肉体は格子を容易く打ち砕き、コンクリートの塀を素手で打ち抜く。
そんな彼らを閉じ込めておく場所など無く、多くの国では極刑もやむ無しという究極的な手を打たざるを得なくなっていた。
魔法的な拘束手段が無かったわけではなく、だが、それはあくまで個人が個人に対して行うものであった。
そんな世界の監獄情勢の中、神伏岩は魔法犯罪者の収監のためには革命的とも言える役割を担う可能性を秘めている。
石に魔力を込めるのは人でなくても良い。
獣を自動化させる取り組みは既に世界中でこぞって研究されている。
旧時代の檻のように、たった一人の看守が百人の囚人を取りまとめられる時代が帰ってくる。
ビジネス的な側面も含め、神伏岩を用いた『監獄化』の計画はもはや革新派の妄想の域を越え、現実的な未来の話となっていた。
「……西の動向から目を離すな」
「はっ!」
振り返り、礼をして、また振り返って今度こそサイカは外の空気を肺いっぱいに吸う。
血生臭い戦場から帰れば、待っているのはきな臭い戦場。
切っていたチョーカー型の端末の通知をオンにすれば、部下から数件の仕事の連絡が目端にちらつく。
「…………朝陽が出る前に終わらせるか」
今日、この国は罪竜という災厄を超える脅威を乗り越えた。
朝陽が拝めればまあそれもまた一興だろう。
と、そんなことを考えながら、サイカは広すぎる平屋の屋敷を後にした。
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「…………………………………」
「今日、ハガネの『再発症』がこの目で見られた。
「お前の血で薄まるかとも思ったが、そんなことはなかったようだ。
「よもや二本目とはな
「『伐狂銀伽』というそうだ、かの罪竜の天異兵装は。
「だが、名前などもはやどうでもいい。
「それはもうこの世のどこにもない。
「大事なのは、ハガネもまた月詠でしかなかった、ということだ。
「代を経ればまた血は濃くなるばかりだ。
「親父も爺様も頭を抱えているだろうさ。
「………………ふむ。
「しかし、止まることも出来ん。
「お前と、ミナが願った月詠は、朽ちることはない。
「歩む先に誰かが立ちはだかるのなら。
「俺と、ハガネと、セツナで殺そう。
「だから、見ていてくれ、ミオ」
開発を免れた小高い裏山の麓の廃寺。
その隣の小さな墓地で、月詠シドウはひとり呟く。
隈の目立つ痩けた顔に、夜の闇すら飲み込む黒々とした決意を滲ませて。
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自国は午後八時過ぎ。
運び込まれる家具の数々を横目に、ハガネはリビングの隅で壁に背を預けて呆けていた。
疲れているわけでもなく、意識を手放したい気分でもない。
ただ単にやることがなかった。
『私はハガネ様の従者でございますゆえ、どうぞ荷物が運び込まれるまでごゆるりとお待ちくださいませと言うべき次第ではありました。
ですが、この埃しかないお部屋で寛げなど放言じみた物言いでもすれば、私の月詠への忠義が疑われてもおかしくはないと重々承知しております。
寝具の手配を一番にさせていただきましたので、どうかそれまではあちらのお部屋でお待ちいただけますか』
『あ、はい、うん』
月詠本邸に仕える使用人であるイオリに言外に『寝具くらい用意しておけ』と小突かれたような錯覚を覚えながら、ハガネはこうして大きい窓のある部屋で夜を見ていた。
真っ暗な空には誰もいない。
人の姿をした竜なんているはずもないし、植物園を名乗る最悪も見えない。
「最初は…………、公安だったかな」
朧のアルテナに出会った日。
「なんか突っ掛かられたような気がするけど。
あの人も、もういないんだ」
死んだ。
という実感が希薄なわけではなかった。
ハガネにとって死は身近にあるものだからこそ。
慣れない人が突然それを押し付けられて受け取るのに苦労してしまうようなことはなく。
鎖木の植物園の手が加えられた霊薬、『神泥』を口にして、僅かな時間魔法戦闘力を爆発的に向上させ、やがて内なる竜に喰い破られて死んだ。
その肉と骨はやがて溶けてイフリシアの糧となり、それもまたハガネらの尽力によりこの世界から無くなった。
あの戦場は演習でもリハーサルでもなく、まぎれもなく真実の地獄であり、実際に公安や国土防衛省所属の狩人は多く死んだ。
「遺言とか、聞けばよかったかな」
『そんな状況じゃなかったでしょ』
意味の無い独り言にもまた返ってくる言葉がある。
することが無いと人はこうも無意味なことしか出来なくなるのかとハガネはひとりごちる。
「………………ハガネ、いた」
「おー、アルテナ」
裸足でぺたぺたとフローリングを歩く銀髪の幼女。
ぼんやりとした部屋の照明に照らされたそれは、ハガネの黒髪よりもずっときらびやかに映る。
「………………誰と、話してたの?」
「電子の妖怪だよ」
『いーい? 『ちびドラゴン』。アタシはアストライア。
ばか人間たちを観測する──報─装───ジェネ──よ、覚えておきなさい!』
ハガネの首に巻かれたチョーカー型の端末による骨伝導モードではなく、スピーカーモードでアルテナにも聴こえるよう自己紹介をするアストライア。
だが、その音はどこか断片的であり、ハガネもまた眉をひそめる。
結局、四月にハガネがアストライアと出会ってから、その正体は依然として判然とせず。
むしろ今回の一件で謎は深まっていた。
「なあ、アストライア。
俺がイフリシアに貫かれて意識を失った時、お前と、あとネメシスが話しかけてくれたよな」
『うん、そうだけど』
「ずっと疑問だったんだ。
ネメシスは俺とアルテナが出会った頃から俺に不明通知で連絡を送ってきてただろ。
あれってどんな手段だったんだ?
アルテナは携帯端末なんて持ってなかったし、白蛇の姿でどうやって……?」
『んー、話せば長くなりそうだし。
アタシにはそれを開示する権限が与えられていないから』
「…………?」
一つ、謎に迫ったような気がしたハガネだったが、それもまたするりと手から落ちていく。
だが訊きたいことはまだあった。
「俺がネメシスの残した宝玉を喰らって、それであいつの力を取り込んだのは百歩譲ってわかるよ。
だけど、あいつは存在が失われた後も、この端末経由で俺に話しかけてきただろ。
残留思念だとか、条件作動とかそういうのじゃない。
あいつは普通に存続してたよな」
『………………え、ばか人間知らなかったの?』
「えっ」
アストライアの意外そうな声は、常識を知らない者に対する驚きに他ならない声色だった。
『罪竜にはヒトが定義する死っていう概念は存在しないじゃない。
竜の思考回路は六種のアーキタイプからなる汎用的なものだけど、罪竜は個々に設定された専用思考感情プログラムから成ってる上に常に同期を繰り返しているわけでしょ。
肉体が滅んだところで堆積した思考と経験記憶は消えないし、『ASTRALRain』が望みさえすればいくらでもバックアップから復元出来るの』
「…………全部が全部、聞き捨てならないな」
アストライアが常識のように語ったそれは、ともすれば日本のみならず世界の狩人社会すら揺るがしかねない非常識な真なる戯れ言だった。
なぜ彼女がそんなことを知っているのか。
ハガネは訊こうと思ったが、やめた。
四月のあの日、気付けば携帯端末の中に潜んでいたこの電子の妖精は、あり得ないことを知っていて、そして何故と問えば必ず答えは返ってこなかった。
だから今は彼女が喋るままに、そしてそれを聞くことにした。
『そもそも百歩譲って、の方がアタシにはわからないけどね。
『だって武器は砕かれたら効力を失うものじゃない。
ま、アンタとあの『でかドラゴン』の仲良しブーストか知らないけど、それこそ奇蹟でも起こった、なんて言ったらロマンチックでアタシは好きだけどね』
ハガネは狂い銀のネメシスの遺した武器を喰らった。
考えあってのものではなく、衝動的なものであり、結果としてハガネはネメシスの力の一部を引き継ぐことになった。
竜の武器を喰らったから、竜の力を手に入れた。
とてもわかりやすい現象。
『でもね、ばか人間。
奇蹟なんてこの世界には無いの。
魔法も異能も、全部現実。
数式で編んだ素粒子で説明される例外の無い宇宙。
破砕した武器はその瞬間繋がりを断たれて分散し有象無象の魔力の群れになる』
その声はいつになく優しく、新鮮だとハガネには感じられた。
少しだけ、アストライアという存在が遠退き、僅かにその深みを知ることが出来た、とハガネは勝手に飲み下した。
『でも、ちょっと格好良かったじゃない、今回のばか人間』
「格好つけるのだけは得意なんだよな」
『アタシの持ち主なんだから、それでいいの!』
わかることが、無い。
にも関わらず、ハガネもアストライアもまるでいつも通りに生きていた。
壁に背を預けるハガネの真横、アルテナがすとんと座り並ぶ。
投影したディスプレイからニュースをザッピングするハガネをアルテナはじっと見ている。
「魔銃の普及によって引き起こされた『魔弾革命』、か。
イフリシア討伐の報はまだ大々的には報道されてないな」
『今頃誰も彼も大慌てなんだから。
アンタのパパが渡した赤い剣の保有権もそうだし、アンタの罪竜の力とその行使権限の詳しい取り決めも早急にしなきゃならないんじゃないの?』
「うーん、ってか俺個人の問題も全く解決してないな、そういや」
地を埋める獣に喰われ、迷宮の底に落ち、善悪問わず誰しもの敵と味方になり。
人に抗い、罪竜を滅ぼした、そんな地獄のような二ヶ月。
結局、ハガネは自身にまつわる謎の一つも答えを出すことが出来ず、周囲の環境と自分に向けられる視線の変化は目まぐるしく、どこか世界から取り残されたような錯覚さえ感じていた。
「なんでこうなったかなあ」
後悔などではなく、何となくハガネはそう呟いた。
何も無い部屋の中で、アストライアさえ返事をしなかった。
ただ、照明に照らされた銀髪が少しだけ揺れた。
「アルテナ?」
ハガネの真横に座っていた銀髪赤目の幼女。
アルテナが目を擦り、小さく口を開けて閉じて、そしてハガネの伸ばしていた足の太ももの上にふわりと倒れ込んだ。
それから十数秒後には小さな寝息と、僅かに上下する上体。
熟睡とも爆睡とも言える、深い眠りだと一目でわかる落ち具合。
『なあ、アルテナ。
最近ちゃんと寝てるか?』
「……あー、そういや、そんなこと言ったっけ」
イフリシアの命のままに人の世界に降り立った朧のアルテナ。
狂い銀のネメシスの働きもあり、月詠ハガネに出会うも、彼と別れてからは公安に追われ、竜に追われ、その心身は確かに弱っていた。
そして、夕暮れの斑鳩校のとある教室。
国内最強の狩人と目される音冥ノアが、ハガネの傍で燐光と共に穏やかに目を閉じていたこと。
そのすがるように握られた手に、亡き母との一幕を想起したこと。
あの一件を経て、ハガネは大した展望も目論見も無く、何となく考えていた。
「案外、寝れないよな。人って」
『ま、誰しもやることがあるからね』
眠いなら寝ろよ、なんて思っても世界はそうもさせてくれない。
例えば、仕える主の部屋に家具家電が一切無く、夜半から搬入やレイアウトに明け暮れるとある従者。
例えば、神を追う舟に乗り、傷も癒えぬままに次なる悪戯の計画を練る研究者。
例えば、腐敗した体制下で現場と上層部の板挟みに逢いながらも己の信ずる力と使命に従い職務に邁進する軍人。
例えば、陽の光すら喰らうほどに鮮烈な月の威光により世界を狂わせる狩人。
皆、眠い。
どれだけ魔力による身体補助機能があろうとも、その身体は休息を求めている。
それでも寝る間を惜しみ、今日も今日とて骨を折る。
「辛いこととくだらないことが山ほどあって。
面倒臭いことと馬鹿らしいことがこの先海ほどあるって思うとなあ」
ハガネがその右手で寝息をたてるアルテナの髪を撫でる。
慈愛でもない、憐憫でもない。
何となく撫でた。
何故、自分は周りに比べ劣って生まれたのか。
何故、レベルが下がるようになったのか。
罪竜の力を宿してどう生きる?
誰が自分の生きる価値を認めてくれる?
動き始めた世界で失わないためにはどうすればいい?
漠然と浮かぶ苦悩と疑問の数々に思わず目を開きたくもなる。
目を開けていれば直視しなければならない問題が無数にある。
ハガネの緩やかな心を縛り付ける怒涛の現実。
独りでいれば押し潰されそうな世界の重さ。
にも関わらず、ハガネは笑っていた。
自分よりもよほど生きづらい筈の少女が、明日を夢見て寝息をたてているから。
「めんどくさ。明日考えよ」
それだけ言って、目を瞑る。
とても暗く真っ黒で、何となく星空が見えたような気がした。
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━━━━━
「すみません、イオリさん。
このような時間に押し掛けてしまって。
その、所用で近くまで来たので」
「こちらこそ。大したおもてなしも出来ず、メイドの名折れを恥じている次第でございます。
どうぞお掛けになってください、セラ様」
何も無いリビングはもう無い。
と言っても黒を貴重としたテーブルと椅子、ソファのみが置かれているだけではあるが、それでも多少は人の住む場所らしくなってきたハガネ邸。
時刻は午後九時過ぎ。
月も昇る静かな夜に、来客の姿があった。
学校指定の狩人装束の上に薄手のコートを羽織る少女。
全てを返す銀髪がよく目立つ守護の一族筆頭の風霧家の次女、風霧セラ。
彼女もまた今日、杜若大森林にて激闘に次ぐ死闘を掻い潜り生き延びた英雄の一人である。
当然その事実は公にされることはなく、当人からしてみれば要らぬ箔がまた一つ付いたという認識でしかなかった。
国内の狩人社会を取りまとめる守護の一族、その筆頭を担う風霧家の次代のエースがなぜこのような時間に、それも護国十一家の端くれたる月詠の家に土産も持たず足を運んだのか。
「あ、いえ。その、すぐ実家に向かわないといけないので」
「それは失礼致しました。
今、ハガネ様をお呼び致します」
ハガネやセラの三つ上の齢を数えるイオリ。
ただその年齢以上に名家の使用人として身に付けた立ち居振舞いは完成されており、抑揚を感じさせない声も合わさってか機械のような印象を与える。
セラの来訪はイオリにとっては予定外ではあったが、同時に想定内でもあった。
彼女がハガネに対して正とも負とも取れる複雑で大きな感情を抱いていることは知っているし、今日起きた出来事は明日になれば元通りと言った気楽なものでもない。
月詠ハガネは変貌した。
灰髪灰眼は消え、どちらも夜の闇のような黒に変わった。
その身には竜の力が宿っており、政府や護国十一家、そして情報封鎖に限界が来た折には罪竜を喰らった初めてのケースとして世界中の魔法国から監視あるいは管理される未来すらある。
心配にならない筈がない。
と、イオリは確信めいた回答を持っていた。
自分もそうであるがゆえに。
主の居る部屋へといつもより少しだけ大きな幅でゆっくりと歩いて向かい、
「…………」
「……あの、イオリさん?」
家具の運び込みに際してリビングから追いやった自分の主を訪ねたイオリが少しだけ複雑さを持たせた表情で帰ってくる。
セラの顔にも若干の不安が浮かぶ。
突然息を吹き返したのだから、突然息を引き取ってもなんら不思議ではない。
月詠ハガネという存在におおよそ常識は通用しない。
セラは十年という歳月を共にしてそのことをよく知っている。
底知れないわけではない、絶大でも無比でもない。
能力そのものは普通なのに、近くにいればいるほど異質としか言えない何かを感じさせる雰囲気。
自分は死なないと豪語しておきながらも、ふとした拍子に雪のようにかき消える儚さを匂わせる。
目を離した隙に遠いところへと行ってしまうような錯覚を、セラは日常のふとした瞬間に断片的に見ていた。
不安が募るセラの思考。
だが、それを察したイオリの反応もまた速かった。
「どうぞ、こちらへ」
主を呼びに行った従者が、客を連れて主の元へと向かう。
何かあったのかと勘繰るセラだったが、開けたままのドアからその部屋を覗けばようやく意味がわかる。
「…………なるほど」
月詠ハガネと朧のアルテナはその何も無い部屋にいた。
二人とも微動だにせず、声をかけたところで返事は期待できそうにない。
が、セラはその二人の様子に少し笑ってしまった。
後に『杜若赤竜事変』と目される、日本国における二体の罪竜が織り成した大騒動。
死者は多くなくとも、竜境の防波堤とも言える杜若大森林は致命的な破壊を受け、褪せ赤のイフリシアによる侵食の記憶を事変に携わった一部の狩人に強く想起させた。
人里で人の姿をした竜が暴れるという前代未聞の侵攻。
イフリシアの遺した三体の欠け身の竜。
その内二体と交戦し、一体を庇った斑鳩校の一介の学生が、更に罪竜を喰らい罪竜を滅ぼしてしまったこと。
遺された欠け身の竜を、月詠が庇いたてたことなど、五月の狩人社会の裏側を賑わせたこの一連の流れにおいて、常に渦中にあった月詠ハガネと朧のアルテナ。
その二人が、身を寄せあって熟睡していた。
無地の壁に背を預けて足を伸ばすハガネと、その腿を枕代わりにして猫のように丸まるアルテナ。
どちらかが竜で、どちらかが鬼であるなど、とても信じられる様相ではなく。
寝姿は幼く無防備で、穏やかな表情は一切の苦悩や苦痛を排斥したものだった。
「何か、言伝てなどは」
客人の前とて、イオリにはこの二人を起こす気など毛頭無かった。
「…………いいえ。でも、来てよかったです」
誰もが眠たげに目を擦りながら、積み上げられた責務に追われる慌ただしい日々の中。
肝心要の渦中の二人は、昨日のことを忘れて、今日のことを放り出し、明日のことは明日の自分に任せるように夢の中に居るという事実だけで、セラは少しだけ救われた気がした。
それが良いことなのか悪いことなのかはさておき、どこか気味が良く。
用も無しに、ただ不安から訪れたこの場所が、今では少しだけ離れ難かった。
「おやすみなさい。ハガネくん、アルテナも」
照明は落とされ、大きな窓から差し込む街灯の明かりと月の光が緩く差し込む一室。
フローリングの床にブランケットの一つも掛けず、遊び疲れた子供のように眠る二人がいた。
今だけは誰も手が出せない目蓋の裏の夜空の中で、赤と銀の星を数えながら。
世界がどれだけ変わろうと、夢見心地の二人には知ったことではなかった。
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剣 サイカ(51)
Lv.108(総獲得経験値1834622pt)
体力:1100/1550 魔力:860/870
攻撃力:681
防御力:446
魔法力:321
俊敏性:569
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祭名 ゼン(15)
Lv.104(総獲得経験値1186632pt)
体力:950/1700 魔力:340/490
攻撃力:267
防御力:892
魔法力:411
俊敏性:288
異能【悔縛】
(魔力の1%を消費し対象を不可視の糸で縛る)
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水波 シズク(20)
Lv.101(総獲得経験値843390pt)
体力:700/950 魔力:210/660
攻撃力:314
防御力:158
魔法力:336
俊敏性:416
異能【毒留】
(体力と魔力をそれぞれ2%ずつ消費し任意の形状の毒を作る)
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月詠 ハガネ(15)
Lv.-142(総獲得経験値-1894332pt)
体力:0/0 魔力:0/0
攻撃力:-499
防御力:-54
魔法力:-71
俊敏性:-1218
異能【夕断】
(使用者の最大魔力値の255倍の魔力を消費しものを断つ)
2章、『幼女と竜』完結です。
まず詫びます。更新が遅くなりごめんなさい。一話辺りの文字数が膨らんでごめんなさい。文がとっちらかっちゃってごめんなさい。
ブックマーク感想評価いいね等とても励みになります、ありがとうございます。
3章は対人戦をとても多く書くと思います。ステータスや魔法に則った現代戦術や、クラスメイトや先輩とのいざこざや他校の同学年の生徒とのいざこざや侵略国家とのいざこざなど、とにかくいざこざだらけでなおかつ明るい話にしたいです。
後書きまでお読みくださりありがとうございました。