95話 触れるべからずが触れ回る
『褪紅の天剣』
褪せ赤のイフリシアが遺した赤い剣はそんな名前であった。
形こそよくある西洋剣だが、何せ柄も刀身も何から何まで赤い。
血を固めたような見た目は、今の持ち主である漆黒の外套に身を包む男によく合っていた。
「……血迷ったか、月詠シドウ」
「血に迷うとは。洒落た表現だな、剣殿。
確かに、標よりも流れる血ばかり追いかけている」
黒服黒眼黒髪の男、護国十一家序列十一位、月詠家現当主、月詠シドウは欠片も笑うこと無くはぐらかす。
相対する国土防衛省直轄部隊、『槍』の総指揮官である剣サイカの顔には隠しきれない困惑と苛立ち。
一触即発の両者。
普段は柔和な顔に皺を寄せた『盾』総指揮官である祭名ゼンも、当然サイカの補佐に入る体勢。
『一線を越えた者』、と、狩人社会では揶揄される存在がいる。
それはすなわち強さの領域において他の狩人を大きく上回る者たちの総称であり、国が認める公式な名称というわけでもないのに該当者は広く知れ渡っている。
それはひとえに『一線』、あるいは『一千』。
つまりは体力、魔力以外の設定されたステータスのどれか一つが『四桁』に達していることが条件であるから。
攻撃力、防御力、魔法力、俊敏性。
どれか一つ100あれば一人前、200あれば十人力、500あれば英雄。
ステータスの数値に縛られていた時代のそんな古い価値観は今なお残っており、なぜ残っているのかと言えばそれは決して無為なものではないからだと多くの狩人が知っていたから。
そしてたとえ四桁に満たずとも、安定した高い数値を誇る者もまた一線を越えたと言われている。
でたらめな異能をステータスの数値の暴力でねじ伏せられる、それが剣サイカと祭名ゼンであった。
サイカは異能こそ持ってはいないが、恵まれたステータスと経験に裏打ちされた戦況眼に決定力、それらを高い領域で纏めあげたオールラウンダーな戦士。
ゼンは『魔力の糸で敵を締め上げる』という異能を持ってはいるが、『異能辞典』に登録された際の暫定等級は最下位に当たるCランク。
糸の強度は低く、ある程度のステータスの相手がもがけば簡単に振りほどけるものでしかないのが理由ではあった。
動いている敵にはほぼ無力に等しい。
しかし、当然異能とは使い手次第でどうとでも化けるものであり、ゼンは苦節の末に『動き出しの際の緊張と硬直を見極める』、『間接部に狙いを絞る』と言った工夫を高いレベルでこなすに至り、卓越したセンスによって等級に見合わない拘束力を得ていた。
ステータスもまた突出したものこそ無いものの平均して400前後と高く、白兵戦では国土防衛省直轄部隊の中でも無類の強さを誇る。
そんな二人を前にした月詠シドウ。
そのステータスはと言えば、全くと言っていいほど開示されていなかった。
(護国の秘密主義もあるが……。
月詠という家系が余りに特殊すぎる。
異能の変質など、本当にあり得るのか?)
護国十一家はかつて国によって定められ、その力の総量はいつしか国をも凌ぎ、政府が手を打つ頃には完全に独立した存在となった経緯を持つ家々の集まりである。
『異能の詳細情報の開示』や『暫定保有狩人数』など、政府が取り決めた狩人組織の規定は形だけ為されるばかりであり、その実態は不明というのが実情だった。
当然政府に協力的な護国十一家もあるが、その多くは特権的な階級を保持するべく守護領域下の市民からの支持を集めることに精を出しており、政府としては手に負えない番犬を十一頭飼っているような状態だった。
そしてその中でも最たる秘密主義と言われるのが『月詠』と『日笠』。
日笠家は古くからある財閥の跡とも華族の果てとも言われる旧態依然の権力を広く持つ一族であり、財界を陰から支配し、政治を意のままに変えると噂されるほどの不透明な力を保有している。
ゆえに政府もまた多くを要求しづらく、結果として不明な部分が多くなっていた。
そして月詠はと言えば、数多の権力を有するがために不落の情報の城を築いた日笠とは対照的な理由で秘密主義扱いされていた。
そもそも月詠家は目につく部分の情報の封鎖は行っていない。
家ぐるみでの主な産業はもっぱら警備狩人会社や実戦近接戦闘術の指南室などの運営が多く、他家のように手広くビジネスを展開しているわけでもない。
つまるところ、国内における影響力が低く、権力闘争への関心は薄く、調べようと思えば端の情報がいくらでも出てくる。
それゆえに月詠に関してわかる範囲以上の情報を求める者は皆無であり、またその必要も無いとするのが日本の狩人社会においての普遍的な認識だった。
野望も展望も無い。ただ在るだけの家。
歴史に何を遺すでもなく、序列最下位に甘んじ続ける落伍者の集まり。
そんな家を好き好んで必要以上に調べあげる組織は多くない。
リスクを犯してまで盗み見る物も無ければ、必要も無い。
ゆえに不明。
(あの瞬間移動のような異能の正体は?
褪せ赤の剣によるものなのか、月詠シドウのものなのか。
私の眼にも捉えられないというのはどういう原理だ?)
サイカの思考は回り続けるも答えに辿り着くことはない。
眼前で深紅の剣を携える黒髪の痩せた男には隙らしい隙も無く、そして今こちらに向かって一歩踏み出し、
「……!? またかッ!」
サイカとゼンの間を通り過ぎるように、音も無く背後に移動したシドウ。
サイカが気付けたのは開けてしまったこの杜若大森林の一角に吹き込む風、背後に当たるそれが僅かに揺らいだから。
それ程までに神経を張った彼女の感覚は鋭く正確であり、そしてそれでもなおシドウの足並みを捉えることは出来ない。
同時に振り返ったゼンとサイカ。
狩人装束の下には政府から支給されたランクの高い迷宮産の服を着込んではいるが、それが今ではとても頼りない。
一騎当千をうたう二人がたたらを踏む。
それは相手が飛び抜けて強いからだとかそんな理由ではなく、掴めないからだった。
雲や霞でも相手にしているかのような不確かさ。
そもそもこの場に本当にいるのかさえ怪しくなってきたと思うサイカ、この手合いに自分から仕掛ける愚は犯さない。
機を見計らう、どれだけの化け物にも隙はある。
月詠ハガネに折られた剣は既に捨てた。
だが純粋な格闘技能と練り上げた魔法を絡めれば無傷のゼンとのコンビネーションでどうとでもなる。
そう思い込んでいたのか。
「つまらん」
そう思いたかったのか。
「【命較】」
赤い剣を持っていない方の手を、まるで見えない杯を掲げるように伸ばしたシドウ。
最大級に警戒したサイカとゼン。
次の瞬間、月詠シドウは変わらずその場にいた。
サイカ自身もまた、同じ場所にいた。
だが、あの恰幅の良い頼れる古仲の同輩にして元部下である祭名ゼンは隣にいなかった。
シドウの掲げた左手が、ゼンの首を掴み片手だけで持ち上げている。
と、サイカの眼は見たまま意識に告げたが、脳はそれを正しく受け取れない。
(な、ぜ……? 自身を移動させる異能ではなかった?
まさか物体の座標変更? あり得ない、そのようなふざけた力。
必ず複雑な条件がある筈だ、いや、今はまずゼンを助けなければ……!)
スーツの先から覗く細い手首では考えがたい腕力で大男のゼンを持ち上げるシドウ。
ステータス、つまりは魔力による補助が存在するこの世界では見かけの筋肉などさほども意味が無いとは言え、少しばかり異様な光景。
ゼンは自分に起きたことを一拍遅れて理解し、しかし足場が無く、魔法は遅く、暴れるくらいしか選べる択が無い。
逆の手に持つ赤い剣で一突きか。
傍観者に過ぎないシズクやカイエンでさえも恐れを覚え、そう悟った矢先。
月詠シドウはイフリシアの遺した天異兵装である赤い剣を手放した。
サイカにはその理由はわからない。
だが、無性に嫌な予感がした。
罪竜の武器を捨てた理由。
それは過剰さを嫌ったのか。
あるいは使いこなす自信が無かったのか。
それとも、罪竜の天異兵装に勝るものを持っているのか。
「ふんッ!!!」
背を引き、歯を食い縛り、片足をほんの僅かに上げ。
掛け声一閃。
月詠シドウは己の額を祭名ゼンの額に叩き付けた。
それは俗に言う、頭突きであった。
が、その威力は誰もが知るものではなかった。
波及した衝撃は地面すら抉り土埃を舞わせた。
鉄と鉄とを叩き合わせたような轟音は鐘のように遠山に響いた。
ただの肉弾攻撃にも関わらず、堅牢なステータスと鍛え上げた肉体を持つゼンは一切の意識を手放した。
「柔らかい」
脱いだジャケットを放るように、シドウは動かなくなったゼンを手放した。
くずおれたゼンは割れた額から血を流してはいるが、死んではいないとサイカには一目でわかった。
「柔らかすぎる。最近の若い者は」
それはまるで酒の席で愚痴を溢すような、ある意味年齢に相応しい喋り仕草だった。
サイカも政府という強大な組織に組み込まれ数十年、似たような言葉はよく聞いていた。
だが、耳慣れない言葉でもあった。
「頭が柔らかすぎる。
やれ案を練り、策を弄し、あれやこれやと思考する」
「全くもって、なっていない」
ぞんざいな頭突き一つで日本『最硬』の一角とされる『盾』総指揮官をねじ伏せたシドウのそんな語りは、若干響きが悪かった。
説教じみた言葉はとても場にそぐわず、そもそも意味が不明だった。
「貴殿もか、剣サイカ殿」
本能的に、一歩後ずさってしまった。
そう後悔するよりも早く、それが正解だとサイカは自分に言い聞かせた。
生まれ育って五十年。
これまで幾度と無くサイカは闘ってきた。
生徒として、軍人として、狩人として。己より強い相手など何人も相手にした。
そして生き延びた。
だが、理解が出来ない相手というのは稀だった。
まだ竜の方が単純だった。
敵を打ち倒したかと思えば突然説法の真似事を始める狂人を前に、その足は止まっていた。
「問おう、その柔軟な頭蓋に」
「……っ!」
また、シドウが空いた手を宙に差し出す。
どう抵抗すればいいのか、などわかる筈もない。
異能とは理不尽。護国とは厄災。
月詠とは、凶星。
度重なる不幸に、サイカが呑まれる。
頼れる後輩と共に、終わった戦場で後始末をするだけの楽な仕事。
だが同時に思い出す、楽な仕事はもう自分には回ってこないということを。
新兵の頃に一度だけ覚えた懐かしい想いが去来したサイカ。
見えざる力がその身体を襲いかけた時、
「……む?」
黒い影が舞った。
尾を引く長い黒髪、それは突如として空から降って湧き、そして一目散に突貫し黒い刃を振るった。
月詠シドウを相手に。
捨てた筈の赤い剣をいつの間にかその手に持っていたシドウは黒い刃を赤い刃でもって受け止めるが、その剣閃の威力に押され後退する。
突然の闖入者。
異様な力を誇示したシドウに臆すること無く向かった姿は、あろうことか十代半ばと見られる少女のものだった。
結果として助けられたサイカ。
体勢を崩しかけたシドウを見てこれ幸いと追撃をかけようと背に回した手に練った魔法を放とうとする。
が、それは叶わない。
なぜならシドウを弾き飛ばした少女が、今度はサイカに向かって猛進してきてから。
「ぐッ!?」
「月詠一刀、神返し」
黒い刀身の刀の主はそれだけ言って今度はサイカに斬りかかる。
虚を突かれたサイカは駆け出した足を無理矢理止めたことで、前から向かってくる少女の剣を受けなければならなくなる。
地を擦るような突きの体勢からサイカにギリギリ届かない間合いで斜め上を穿った少女。
その突きが生んだ風がサイカを僅かに浮かせ、一瞬無防備になったその胴体を少女が刀の頭で弾く。
咄嗟に腹を庇ったことでサイカは強い衝撃に当てられる程度で済むが、その顔には強い困惑の色が見える。
それも当然であり、この少女は乱入してきて早々に月詠シドウを斬り飛ばした挙げ句、今度はサイカに向かって突撃してきたのだ。
誰の味方をしたいんだ、と問い掛けたくもなるが、今の一瞬の攻防でこの少女が何者なのか、サイカには見当がついていた。
流れるような黒髪を高い位置で結んだ冷たい眼をした少女。
後ろに立つ父と、倒れ伏せる兄とやはりよく似ている。
顔立ちではなく、雰囲気が。存在そのものが。
「…………月詠、セツナ」
「父のご無礼をお許しください、剣様。
文字ばかり目に映る常にて、戦場の兵はかくも馳走に映るものです」
それはまるで自分の行いを棚に上げた言葉でしかなかった。
確かにシドウはゼンを行動不能に陥れたが、肝心のサイカには手を出してはいない。
むしろ刀の頭とはいえ殴り付けて大きく吹き飛ばした彼女の方が余程礼を失していると紛糾されてもおかしくはない。
だが、サイカはそんなことを問い詰める気はない。
気の狂った一族に、常識を問う愚は持ち合わせていない。
「父さん、いい加減にして。
お国の人が困っていますよ」
「……む」
月詠家の長女、『月詠セツナ』。
落ちこぼれと謗られる兄とは違い、彼女は実に護国らしく、秀でて、優れ、そして少しだけ狂っていた。
ハガネの一つ下の学年であり、その代では並ぶもの無しとされる魔法技能と近接戦闘の技術を持つと喧伝されている月詠の次代のエース。
不出来な長男に代わり彼女が跡目を継ぐのだろうと誰もが噂する生まれついての才。
黒髪に黒目という、父であるシドウと全く同じ形質。逆にハガネは灰髪灰目であり、そう言った点もまた正しく直系であるという認識を強めていた。
「そうだな。失礼した、剣殿」
「……………………は?」
娘に窘められ、胸に手を当てて詫びる仕草を取るシドウ。
突如謝罪されたサイカとしては開いた口が塞がらない。
「我々は用あってこの場に来たのだ。
争う気など無い」
「………………??」
「数時間前に愚息から連絡があった。
『保護対象』がいると」
戯れ言としか思えない言葉の数々を何とか噛み砕いて飲み下したサイカ。
そしてその賢い脳は段々と理解する。
この会話の先に待つものを。
「『少女に助けを求められた』、と愚息は言っていた。
ふむ、あちらの銀髪のお嬢さんだろう」
「あれは竜だ」
「はて」
流れるように全員の視線が集まる。
小さな少女に。
「竜と言うには、あるべきものが無いようだが」
シドウのとぼけるような言葉に、サイカは苛立ちを覚える。
が、沸き立つ感情よりも先に視界に入った情報に驚愕する。
確かに、無い。
あるべきものが。あった筈のものが。
「……角と尾はどうした! なぜ!?」
先に現場に送った『槍』の隊員達から送られてきた映像には、確かに銀髪の中に埋もれるように小さな角が、背の下辺りから伸びる細い尾があった筈だった。
だが無い。どちらもが。
「ふむ。人の姿で、人の言葉を喋り、人の心を持つ竜、か。
剣殿、これはもう人と呼んでいいのではないだろうか」
サイカは知らない。
狂い銀のネメシスが今際の際に放った奇蹟を。
朧のアルテナに向けたそれは、かつて焔のヴァルカンと空のエンデに放ったものと同じ、『人化の力』。
竜を人にする奇蹟を、生まれついての人竜に放てばどうなるのか。
ゆっくりと侵食したそれは角を落とし、尾を溶かし、いつしかアルテナの竜としての威容を全て失わせていた。
ひとえに彼女の望み通り、人の世界を見せるため。
例えそれがイフリシアによって植え付けられたものでも、ネメシスは認めた。
人として生きるべきだと。
「そして行くあても無いときた。
なにより特殊な出自」
「……まさか」
「ご存知だろう。我々、月詠の過去と、そして現在を。
あの六年前の雨の日より、続けてきた『保護活動』を」
その意を汲めたのはサイカと、そして水波家に長く仕える盾湖ジクウだけだった。
「…………何が保護か。実態は私兵の補充だろう」
「滅多なことは言わない方がいい、剣殿。
その首、落としても俺は困らん」
はっきりとした脅し。
未だに意識を失っているゼンを一瞥したサイカは戦力的に無理を通すのは不可能だと悟る。
政府の、それも軍関係者の指揮官クラスに手を出せばいくら護国とて相応の制裁は免れない。
だが、月詠ならやりかねない。
そんな漠然とした恐れもあった。
護国十一家にまともな家は無い。皆それぞれ狂っている。
だが、会話が通じないとサイカが感じたのは初めてだった。
「父さん、それでは脅しになっています。
ことを荒立てないと決めていたではありませんか」
「む、……そうだったか」
竜の破壊痕がそこかしこに残る地獄と天国を混ぜた鍋の底のようなこの場所で。
黒い髪の親子は団欒をしている。
頭のネジが外れていると、サイカは素直に思った。
今は眠っているのか死んでいるのか判然としない月詠ハガネが目を覚ますようなことがあればもはや収拾はつかない。
サイカの頭痛の種は考えるほどに増え、無理矢理にでも結論を迫らせる。
(上から求められているのは『罪竜及びその残党の殲滅』、そして『武装の回収』。
このイカれた親子相手じゃ後者は見込めそうにないねえ)
前提として、サイカとゼンがこの杜若に来た目的は『後片付け』である。
仔細は告げられず、サイカの現場判断に委ねる形の秘匿任務であり、罪竜の力を宿した月詠ハガネの抹殺はあくまでサイカが独断で決断した事項でもある。
ゆえにこれは翻意しても構わない、とサイカは自認している。
竜殺すべし、という己の心情はこの際置いて、やるべきことをやる。
立ちはだかる月詠シドウと月詠セツナは強敵であり狂人である。
頼もしき元部下は一瞬で無力化された。
愛剣は月詠ハガネに砕かれた。
殲滅対象であった筈の朧のアルテナは、どういうわけか竜としての形質を失っている。
回収対象である褪せ赤のイフリシアの遺した赤い剣は未だシドウの手の中である。
(本当に、ろくでもない)
八方塞がり。
仕方無しにでもなく悪意だとかでもなく、割り込んできたイレギュラー。
護国十一家末席の落ちぶれた名家。
だが剣サイカは知っている。
六年前、月詠が起こした最善最悪の事件を。
その延長線上で竜すら匿ってしまうほどの狂った価値観と使命を家ぐるみで帯びていることを。
歯噛みし、ゼンを起こして退かざるを得ない、とサイカが胸中の屈辱を殺しながら背を向けようとした。
背を見せることに恐れは無かった。
だから驚いた。
自分の足元に伝わった小さな衝撃に。
ぼろぼろの地面に赤い剣が突き立てられいた。
「手ぶらでは帰れないだろう」
「……なんのつもりだ」
褪せ赤のイフリシアが遺した赤い剣、『褪紅の天剣』。
それを疑いもせずに地面から引き抜いたサイカ。
放ったシドウをそのまま睨み付ける。
「愚息の件は護国内では決着が付いている。
『罪竜の力は失うには余りにも惜しい』と、『音冥』、『石土』、『怖火』の筆頭をはじめに、やがて全八家が処断ではなく徹底した管理のもと国益に奉じることを条件に有効活用すべきだと」
「…………血の繋がった息子を兵器に堕とす、か」
「兵器など、そんな生ぬるいものではないな」
皮肉げに笑ったサイカだったが、何の表情もなく受け止められたことで一人相撲だと悟る。
剥き出し抜き身の刀が人の姿をして歩いているような家の人間には無為な嘲りだったと、少し間をおいて反省する。
だが溜飲は下がらない。
所属する組織としての意向もあるが、何よりその在り方がサイカにとっては気に入らなかった。
他者を駒としか見ていない人間は数多く見てきた。
だが、家族すらも一本の刀としか見ていないような、空々しく、刹那的で冷たい家の存在は不可解であり不快だった。
「…………満足かい、持たざる者が力を授かって。
あるかもわからない親心が満たされたかい」
サイカは自分で言っていて吐き気がするような台詞を溢す。
感情ごときに左右されるなと常日頃部下に檄を飛ばす身でなんと愚かだと自嘲しながら。
持たざる者。
普通でありふれていて、護国という出自のせいで出来損ないの落ちこぼれとして育った月詠ハガネ。
その彼が罪竜の力を手に入れた。
それを実父である月詠シドウはどう考えているのか。
サイカには気になったが、きっと不愉快な答えしか返ってこないと知っていた。
だから、シドウの口元が僅かに動いたタイミングで背を向けた。
聞く気など無かったから。
「持たざる者? あれが、か?」
その答えは、サイカが思っていたものとは違った。
淀みきった思考は、『利用価値が生まれた』だとか『護国としての定めだ』だとか、そんな答えばかり決めつけていた。
つい足が止まってしまった。
「あれは、酷く月詠だ。
俺よりも、随分とらしい」
「………………ゼン、起きな。帰るよ」
無視をした。
無視をして、うつ伏せに転がっていた元部下の大男を揺さぶり起こす。
ゼンは呻き声を上げながらも直ぐ様状況を理解し、そしてばつが悪そうにサイカに笑って詫びる。
それを受け止め、首を振ってサイカはゼンから離れる。
大樹の元にいたカイエンは帰還の匂いを嗅ぎ取り慌てて上司である『槍』の総指揮官の元へ合流する。
待機させていた部下を合図一つでまとめ、赤い剣を携えてサイカとゼンは場を離れた。
彼らは罪竜の天異兵装である『褪紅の天剣』を手に入れた。
誰一人として欠けてはいない。別組織との角も立っていない。有意義な報告が見込めた。
それなのに、とても暗い顔をしていた。
━━━━━
━━━━━
護国十一家、水波家の長男である水波シズクは何をすることもなかった。
今しがたの嵐のような出来事にすることが無かったし、出来ることも無かった。
今この場にもはや場を荒らす者はいない。
いつの間にか消えていた鎖木の植物園の二人。
褪せ赤のイフリシアが撒き散らした肉塊の芋虫は、銀に汚染されて霧になった。
そして、音も無く消えた『空のエンデ』。
当人に動く気力はあれどその肉体は限界をとうに超えていた。
誰かが移動させた。その誰かは見当がついていた。
どうやって、かはまるでわからなかった。
サイカたちが消えた後に、非武装の大型ヘリコプターが一機降り立った。
中から現れたロングスカートの給仕服の女は月詠の親子に恭しく礼をし、そして眠る月詠ハガネを抱え、朧のアルテナの手を引いて機体の中へと消えた。
シドウとセツナもまたセラと会話をしながら搭乗し、曰く付きでしかないヘリコプターは空の彼方に消えた。
公安の生き残りの面々もまた魂の抜けた顔のまま帰路へつく。
シズクとジクウは行きに乗った輸送機の誘いを断り、水波家の応援を待つことにした。
もはや二人以外誰もこの場にいない。
いつになっても消えることのない大樹の足元。
空は晴れてはいるが雲はある。
とても静かだが不気味ではなく、法都の雑踏の中で日々を過ごすシズクにとっては得難いものでもあった。
「ジクウ、なぜ政府は手を引いたのだろうか」
だから質問をしていた。
多忙な両親の代わりに生まれた頃より常に共にいた水波家の補佐役である盾湖ジクウに。
「確かにあの場では勝ち目が無かったかのように思えるが。
しかし完全に手を引くような形で撤退するほど今の政府が及び腰とも思えん。
来る『竜滅』に際して、結果的にはあの赤い剣を持ち帰ることは出来たようだが一度は諦めたようにも見えた」
竜に奪われた西日本全土を取り戻す。
そのためには罪竜の天異兵装など、喉から手が出るほど欲しいもの。
シドウが譲らなければそのまま諦めて帰投していたであろう顛末に、シズクは違和感を覚えていた。
「こう言っては何だが、何故、月詠をあれ程怖れる?
当主殿の戦闘能力などは確かにはかり知れんが、それだけだろう。
肥大化した組織も、政に出す口も、街を動かす財力も。
月詠は護国の他家どころか、一部の守護の一族にも劣るだろう」
「仰るとおりにございます」
月詠は、弱い。
当主同士の殴り合いならいざ知らず、家として組織としての力は脆弱である。
魔力色調異常の愛娘のために守護領域に当たる地域の信号の色を変えた木堂家。
政府に断り無く山を均し狩人専門学園都市を拓いた旗天家。
防空を任されていることをいいことに富士第二山麓を中心とした空中都市の建造を進める六海家。
絶大な家力にものを言わせて好き放題する他の護国十一家とは違い、月詠にその類いの表だった話は存在しない。
全国の剣術道場の指南役の派遣。
経験豊富な実戦狩人が集まる警備会社。
そんな細々しい活動は取り沙汰されることすら無く、実際にそれが月詠のほとんどでもあった。
シズクは月詠を軽視などしていない。
あるがままに、実情を見聞きした上での言葉だった。
「ならば何故」
「報復を、怖れているからです」
奇妙な話でもあった。
いち民間の報復を怖れる国がどこにあるのか、それも日本政府という数多の武装と狩人を抱える組織が。
いくら『何をしでかすかわからない月詠』と言えども、報復という言葉は大袈裟で、そもそも政府に直接的に仇なすようなことがあれば他の護国十一家も黙ってはいない。
つまりは怖れるに足らず。
「良い機会ですのでお話しさせていただきます」
その改まった言葉に、シズクは少し目を細めた。
祖父よりも祖父らしく、あるいは父よりも長い付き合いのこの執事然とした補佐役の硬い態度は見慣れないものだった。
「現在の護国十一家序列三位にあたる総地家をご存じでしょうか」
「…………? 何を言っている。
国内の狩人社会に属する者であればそんなことは誰でも────」
「かの家は六年前、月詠の手によって実質的に滅ぼされました」
━━━━━
━━━━━
「申し訳ない、姐さん」
「詫びは無用だね。
ヤツの気分次第で転がってたのは私だったかもしれないんだから」
国土防衛省直轄部隊、『槍』総指揮官、剣サイカと『盾』総指揮官、祭名ゼンは数人の部下を連れて杜若大森林の一角にある空路中継用基地を目指し歩いていた。
先程までいた開けた、あるいは拓かれた破壊の広場とは違い、鬱蒼とした木々が空を塞ぐ、正しく森の中だった。
「気を失うなんて何十年ぶりか……。
頑丈さには自信があったんですがねえ」
「頭突き、か。
どれだけの数値を持っていればお前相手に一方的なノックアウトを強いれるのか。
…………なぜ月詠が今さら表舞台に」
誰しもが魔法とステータスを持つ時代。
金も地位も権力も全てが暴力の下位互換になりかねない世界情勢でも日本が法と秩序を保ち続けていられるのは、ひとえに力のある者を重用し、賢いものを立て、視野の広い者にそれらを指揮させ続けてきたからだった。
今の政府の実働的な役割を担う組織には無能は存在しない、と言うのがサイカの自負であり客観的な意見でもある。
それだけ現場で働く者の登用は旧態依然の世襲式とはほど遠く、実力主義がまかり通っている。
だが、それはあくまで手足に当たる末端の部分に過ぎず。
脳が腐っていれば手足もまたいずれ腐り落ちることをサイカは知っている。
「姐さん、俺は六年前の『地砕きの夜』を校正済み調書でしか知らないんで。
曰く、序列最下位の月詠が当時序列二位にあたる総地を何らかの理由と手段をもって当主格の数人と使用人、研究者及びその設備施設全てを討ち滅ぼしたとしか記憶してません」
「概ね合っているが、足りないな。
政府は護国殺しとも言えるあの惨劇を引き起こした月詠を『お咎め無し』とした、までが全容だよ」
「…………いいんですか、俺の部下に聞かせて」
「月詠が動き出したのなら、いずれ明るみに出てもおかしくないさ」
それはゼンが背後の部下に聞かせるかを迷うほど、禁忌とも言える秘匿を孕んでいた。
歴史の裏側は誰かが隠したから裏側に位置する。
隠すことが出来るということはつまりはただならぬ立場にある体制側というのが常であり、仮にも政府の直轄の狩人部隊であるサイカやゼンがその秘匿を暴くようなことを口にするのは憚られてもおかしくはない。
それでもサイカはよく通る声で呟く。
愚痴のように。
「だから摘んでおきたかったというのにな」
「……月詠ハガネを、ですか」
護国十一家とて民間人のくくりにあり、そして民間人を守護する立場にあるサイカがしていい発言ではないということはこの場にいる誰もが理解していた。
それでもなお彼女がそう溢してしまう背景があるのだろうと推察できない者もまたいなかった。
「一度や二度じゃない。
お上は月詠が過去起こした国内外での大事件を意地でも明るみに出すまいとしているのさ。
私なんか所詮は前線に放る使い捨ての駒、いい加減一般人の言いなりになるのはやめろなんて遠回しに言ったところで進言なんて通らない。
何を握られてるのかわからないが、自分の脳にあたる連中が腐ってていい気はしない」
「それで、月詠に手を出せば何かアクションが見込めると?」
「そんな打算的な話じゃないからこうしてお前に愚痴ってるのさ。
八つ当たりだよ、私のしたことは」
「でも、それが全てじゃない」
ゼンの言葉に嘆息したサイカ。
十何年と共にいる飄々とした大男の鋭い返しは今の彼女には少し切り口が鋭利すぎた。
「…………哀れ、だったからかね」
「あの少年が、ですか」
「……………………何の才にも恵まれず、出自だけはご立派で。
どんな因果かあんな戦場に放り込まれて挙げ句過ぎた力に振り回されて。
一時の干渉で竜なんざ庇って私たちの前に立つあの姿がねえ。
……見てらんなかったのさ」
上に立つ者として持たざる者を幾人も見てきたサイカにとって、あの時のハガネの姿は幼気であり健気であり、同情するほど弱々しく見えていた。
屠ってやらねばと、決意してしまうほどに。
「月詠は、何を企んでいるのでしょうかね」
「保護と称して総地から根こそぎ奪った『巫女』たち。
表に出していい存在ではないことは月詠だってわかってるはずさ。
だが」
「やりかねない」
「そうさ。
今日だってそうだろう。竜を庇って取り込んで、息子を兵器に貶めたあの黒い瞳の怪物が。
世界を壊さない保証がどこにもない」
そんなわけがない、と否定する材料よりも。
もしかしたら、と懸念してしまう材料の方が随分と多い。
昼行灯と表現することすら憚られるほどに表だっての活動が鈍い月詠。
それが前触れも無く当主自らが突然動き出し、理解不能な言動と底の知れない力を以て国にすら牙を剥く。
日々の雑務に加えて、先月は天迷宮問題、今回の竜騒動、竜滅、侵略国家の存在と、ただでさえ目を背けたくなる事案が幾つも存在する中で、月詠の奇行は余りにも煩わしく。
「たまにはぐっすりと寝たいものだね」
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朧のアルテナは竜である。
筈だった。
それが今では角も尾も失い、銀髪赤目の幼女でしかない。
そんな彼女は今、揺られていた。
静音飛行の大型民間用ヘリコプターの中に設けられたソファ席。
そこに座らされている。
「…………………」
「…………」
大型とは言えそう広くない機内。
二人詰めの操縦席にはスーツ姿の男が一人。
その後ろの補助席には黒髪黒目黒装束の痩躯、月詠シドウとその長女、月詠セツナ。
そして最も広い搬入口には前後に向かい合う形で二つずつ客間用のソファ席が設けられている。
進行方向とは逆を向くのはアルテナとセラ。
二人が見つめるのは二人用のソファに横たわる月詠ハガネ。
だがハガネに視線を注ぐのは二人だけではなかった。
「……随分と、ご無理をなさられたようですね」
その表情を一言で表すのならば、慈愛だった。
黒と白で構成されるシックな給仕服の裾が汚れるのを躊躇わず、膝をつけハガネの顔の汚れをハンカチで拭く女。
纏められた長い黒髪が儚げな美人と言った面立ちによく映え、いち使用人にしては少し雰囲気がありすぎるようにも見えた。
「……あの、イオリさん」
セラの声は届いたのか。
イオリ、と呼ばれた使用人風の女はハガネからセラとアルテナに膝をついたまま向き直る。
「如何しましたか、セラ様」
「その、アルテナはこれからどうなるのでしょうか」
『億堂イオリ』
それが彼女の名前だった。
月詠に拾われ、専ら使用人として働く彼女をセラは知っていた。
会うのも初めてではない。
セラが尋ねたのは朧のアルテナという竜の今後についてだった。
突如現れた月詠本家の二人と、付き人として同伴したイオリ。
彼らが保護と謳い、アルテナを匿う理由がセラにはまるでわからなかった。
旧くからの付き合いではある、だが護国と守護という微妙な立場の家柄同士だからこそどうしても踏み込むのには躊躇われる。
それゆえに、セラは先程の政府の尖兵と月詠シドウの会話の意味を捉えかねていた。
『保護』とは? 月詠の因習にそんなものはあったのか?
考えれど答えは出ず、だから考えるのは後にした。
「御屋形様は国土防衛省の方々には意図的に仔細を伏せておりましたが、実際には護国十一家の他家と他守護の一族との取り決めにより、『特殊狩人保護法』の適用がなされました」
「…………それは」
「『アルテナ・ミスティ』様の経過監察を月詠が担うこととなりました」
罪竜『褪せ赤のイフリシア』が次代の己として生んだ赤の瞳、『朧のアルテナ』。
イフリシアが討たれ、焔のヴァルカンは赤の肉体として消滅し、空のエンデは誰かの力でここではないどこかへと飛ばされた。
残された幼い元竜の少女に待っているのは処断の未来だとセラは悟っていた。
月詠ハガネの懸命の甲斐無く、護国も守護も政府も、角と尾が無くなったから見逃すなどというぬるく甘い答えを寄越すとは思っていなかった。
だがここに来て、月詠がアルテナの『保護』を持ちかける。
この短い時間に他家と何を話し、何を画策したのか。
セラからしてみれば当然アルテナの処断が行われないことは喜ばしいことである。
だが素直に安心出来るかと言われればそんなことはあり得ない。
幼い少女の姿をしているから、竜としての力が失われたから、角も尾も無いから、そんな理由で人は竜を許さない。
奪われた痛みは半世紀ごときでは癒えることはなく、ならばなぜ、と言うのがセラの本音だった。
聞きたくはない。
問えば答えてくれるだろうという確信めいたものはあったが、セラは躊躇う。
鹵獲した兵器は従順で未知で、元は竜ながら人としての姿に意思思考を持ち合わせている。
魔法の研究は禁止されていても獣あるいは竜の研究は禁止されていない。
つまるところ、朧のアルテナは材料としては至高の存在である。
「ご安心ください、セラ様」
よぎる嫌な思考が顔に出ていたのか。
セラはイオリに意識の間隙を突かれ僅かに視線を揺らす。
「アルテナ様を護国十一家あるいは月詠本邸及びその他施設機関で預かることはございません」
「……? では、どちらに」
セラの疑問を他所に。
イオリは立ち上がり、そして深いソファ席に足を放るアルテナの前に目線を合わせるように膝をつく。
騎士の儀礼のようだが、シックな給仕服と床に付きそうなほど長い纏められた黒髪が少し異様ではあった。
「アルテナ様の帰る場所は日本国旧都東京斑鳩市東区矢爪10-11高層住宅『輝夜』の二階の一室にございます」
「…………あの、そこに何が?」
突然の羅列に思考を何とか追い付けたセラ。
月詠の当主が直々に出向き、罪竜の天異兵装をなげうってまで回収した朧のアルテナという切り札。
それを運ぶは研究室でも牢獄でも戦場でもなく、よくあるマンションの一室と言われてもセラには意図が全く読めない。
そんなやり取りの最中だった。
「………………ハガネ、起きた」
人間よりも魔力を明瞭に捉えられるアルテナにだけは見えていた。
月詠ハガネの周囲を取り巻いていた黒い霧が随分と薄くなったことを。
修復が終わったのだと。
アルテナの声と視線に合わせてイオリとセラもまたそちらを見れば、確かに今まで目を閉じ呼吸すら忘れていたかのように眠っていた少年は仰向けのまま目を開いていた。
その黒髪は深く、瞳は全てを吸い込む漆黒。
セラと、イオリと、アルテナと目を合わせたハガネ。
やがて口がゆっくりと動く。
虚ろにも見える眼のままの第一声は、
「いや、それ俺の家……」
そんな微妙な声色の一言だった。