92話 共に願った永遠
「…………刃紋が入ってる」
俺の胸に刺さっていた白刀、雪禍。
竜に戻るために一度胸の奥まで貫いて、再度引き抜けば、それは今まで慣れ親しんだ柄も鍔も何も無いただ白いだけの刀ではなくなっていた。
波打つのではなく、ただ綺麗に刃に沿って線が走っている。
少し刀に近付いたみたいだ。
「爪……、ちょっと握りづらいな」
俺の右手も想い出したことで形が変わっている。
肘から先では白金の大きな鱗が雑に重なりあって皮膚を作り、指は自由に動くが、竜にしては少し短い爪が刀を握るのに若干の違和感を生む。
しかし、ヴァルカンやエンデたちの人竜形態と違って、なんというか竜の腕と言うよりかは武者の籠手のようだ。
これが俺の『竜退行』。
想い出したのは自分自身ではなく、自分の半身の姿。
狂い銀のネメシスの力を噛み砕き、咀嚼した結果だ。
暴れ狂う褪せ赤のイフリシアが俺を見て、そして躊躇いなく八つの赤い巨剣を空から降らせる。
背にある翼のような何かと、後ろ腰に伸びる俺の意思で動く尾がどうにも気になるが、ゆっくりと確かめている暇は無さそうだ。
どうしようか。
尽くす手が無い、のではなく択が多すぎる。
身体はあり得ないほどに重くて、動かせば羽のように軽い。
割れた右目で見る世界はやたらスローモーションだし、片角が伝える魔力の波が新鮮だ。
取り敢えず、この新しい力の一つを試してみよう。
右手に握る、少し刀らしくなったものを。
今だけは『雪禍』ではなくなったこの呪いを。
「往こう、『雪月禍』」
ネメシスが四の節の力を振るっていたのに対して、今の俺はたった一つしかない。
銀の天異兵装である雪禍以外の残り三つは、力を継承している筈にも関わらず、どういうわけか俺には引き出せなかった。
ただ、その分雪禍が少し変わっていた。
終わりなんていらないと願ってネメシスは雪禍を封印した。
ただ静かに、音も風も無く剣を振るっていたいと俺は願った。
そのどちらもを反映して、この雪月禍は生まれている。
この一瞬、今だけは絶冬に閉じ込める必要なんて無い。
「狂え、【尽鉄】」
永遠に今が続けばいいのにと、俺もネメシスも願ったなら。
時を止めてしまえばいい。
木々のざわめきも風の泣き声も聴こえない。
夕断とも終銀とも違う、まるで原理がわからない異能。
なんで世界が止まっているんだろう。
「まあ奇蹟なんてこんなもんか」
刹那秒が経って動き出す前に、取り敢えず斬ろう。
━━━━━
━━━━━
「────!?───?─??──」
竜の顎を模した赤い口。
それを中心に肉塊の触手が幾つも生え揃い、血よりも赤い巨大な十字架を無数に背負う異形の竜、『褪せ赤のイフリシア』。
五十年前に世界全土で発生した『竜災』において、日本国での竜を指揮する立場にあったとされる罪竜は今、誰の目に見てもわかる程に混乱していた。
現在の行動原理は『己以外の全ての生命体の滅殺』。
竜も人も関係無く蹂躙せんと猛り狂う筈が、どうにもその思考回路は鈍く。
なぜかと言えば、それが人なのか竜なのか、そもそも生きた存在なのかすらも判然としなかったから。
「静かだな、イフリシア。
見ろよ、雪降ってきた」
その言葉は吹雪の奥から投げ掛けられた。
『赤の言葉』たる空のエンデから権能の多くを吸収したことで、今のイフリシアは人の感情の機微にも敏く、言外だろうと行間だろうと読みほどく程度の人語理解力はある。
それゆえに、まるで元からそこにいたかのように音も影も無く銀世界に現れた白い生き物が放つ言葉を表面的には理解していた。
静寂である。それは物質の運動が極端に制限されているから。
降雪である。それは天を閉ざしていた厚い雲が急激に冷やされたから。
だが足りない。
なぜそんな事を今言う必要があったのか。
意味なき戯れ言と切り捨てるには余りにも情景に富んでいる。
祝福の機関にして竜の摂理たるイフリシアでさえもが不思議とそう感じてしまう程に、その人竜は浮世離れしていた。
ただ、どれだけ非現実的な在り方であろうとも、眼前に立つ者は罪竜『狂い銀のネメシス』の力を取り込み、あまつさえそれを己の身に投影せしめた現実的な脅威であるために、イフリシアが排除へと移るのは至極当然の流れであった。
そしてそれは既に実行に移されている。
放った筈だった、祝福の赤い十字架を。
だがそんなものは、今やどこにも無い。
あるのは雪ばかりだ。
魔法や異能で無害化した?
竜の脚力で避けた?
どれも違うとイフリシアにはわかった。
この銀色の幽鬼は罪竜の領域に達している。
狂い銀のネメシスが持ち得た力ともまた違う、よし白く、より冷たい威容。
右前頭部より生える螺旋角。
四つの長さが異なる鞘が一つの樹氷を幹に生る翼。
右肘から先の竜の腕。
腰もとから伸びる薙刀を模した尾。
パーツ単位では竜に他ならない見た目であり、それは狂い銀のネメシスのものとよく似通っている。
だが全てが半端半分の不完全な竜退行ということもあってか、竜ではなく人竜、そして人竜よりかは鬼を連想させる雰囲気を醸している。
猛々しさではなく、静かで。どこか恐ろしく冷たい。
世界の上位存在たる罪竜の警鐘を鳴らすのには十分。
褪せ赤のイフリシアの決意は速かった。
「───寿がれよ──銀の担い手」
高層ビルに匹敵する大きさの赤い十字架。
それを肉塊の腕で握り振り回し、叩き付ける。
雪を散らし、吹雪を散らし、ついにはハガネの姿を捉え直撃させることに成功する。
罪竜の本気。
人が一喜一憂する数値のステータスが冗談としか思えないレベルの無慈悲な一撃。
だがそれが誰かに手傷を負わせることはなかった。
「まだ温いな」
「───その、チカラ──なぜ──」
真正面から受け止められた。
竜の右手を人の左手で支えながら、ハガネは笑って応える。
十字架の剣を引き抜こうとしたイフリシアが最初に覚ったのは身体の不自由。
意識はある。だが、意識以外の全てが手放されてしまったような錯覚。
止まっている、自分だけが。
「歯ァ喰い凍れ!」
受け止めた十字架を渡り一瞬でイフリシアに迫ったハガネが、宙に翻り右手を引き絞る。
強弓を引くように背を反り、小さな人の身体から放たれた竜の拳。
イフリシアがどう受けるかを考える間も無くそれは着弾し、巨体を殴り飛ばした。
「───!!??──??───???」
感覚器官として擬似的な五感を備えるイフリシア。
その生体には正常な思考と行動を妨害しない程度に設定された痛覚が存在し、百メートル近く殴り飛ばされ幾つもの十字架と肉片が飛び散った一撃を受けたのならば、本来はある程度の痛みを覚える筈であった。
それにも関わらず、イフリシアは何も感じる事が出来なかった。
「痛くも痒くもないだろ。
止まっちまったんだから、当然だ」
胸部からするりと雪月禍を引き抜いたハガネが雪を渡りながらイフリシアに近付く。
物体を止める。魔力を止める。世界を止める。
イフリシアがハガネの力にあてを付けようと思考を巡らせれば、それは答えの方から自ずとやってきた。
「止める、なんてのは俺と……、あとネメシスの強がりだよ。
無限に完全に停止することなんてあり得ない。
永遠なんて何処にもない」
「───??──」
「それでも、俺たちは願った。
永遠と思える一瞬が欲しいって」
見惚れる程の美しさ、白い紋入りの刀をゆらりと構える。
空を撫でた刀身が降る雪の小さな結晶を捉えれば、それはぴたりと空中で静止してしまう。
『擬似永遠の投影』
雪禍の持つ魔力の運動量の低下能力を極限まで高めた雪月禍。
単なる魔力の運動停止ではなく、設定した『軸』との相対位置を完全に固定する事によって、凍結すら起こらず対象は永遠を与えられる。
変形も変質も、移動も運動も無く。ただ世界に取り残される。
雪月禍の効力が有限である以上それはいつか破れる奇蹟であり、やがては止まった時は動き出す。
春に芽吹き、夏に実り、秋に実を落とし、冬に枯れる。
結局は一時的な永遠。
枯れる事への悲しみと、再び芽吹く事を待つネメシスの相反する感情に強く影響された結果がこの擬似的な永遠の投影だった。
罪竜の偉大なる権能にしてはいささか改変力に欠ける力。
ただ、外部からの強い衝撃に永遠化された対象が晒された場合、如何なる防御手段が機能しない。
通常であれば強い衝撃に際して硬質化しダメージを軽減する魔力障壁だが、止まってしまっていては一切の意味が無い。
「治り、遅いな。
でも痛くもないだろ、もう」
その結果、己が振り撒いた死を回収することで半永久的に再生を繰り返していたイフリシアの身体に消えない傷が刻まれる。
背に負った赤い翼には亀裂。大顎は裂け液体が流れ続ける。
それらはどれだけ周囲から死を取り込んでも、もはや元のかたちに戻る事はない。
欠けた状態で永遠を過ごしてしまったがために、永き一瞬の中で再生する肉体は本来の姿を忘却してしまう。
一秒にも満たない無限を過ごしてしまったがために、もはやイフリシアの不滅の肉体は歪な己を受け入れていた。
半永久が、擬似永遠に阻まれる。
命の天敵であるイフリシアの、更に天敵に位置する存在。
永遠の否定と肯定を同時に行い続ける月詠ハガネと狂い銀のネメシスを相手に、イフリシアは思考の一手を取らざるを得ない。
その末に選んだ択は、飛翔だった。
「───……」
逃亡とも取れるその挙動。
だが今のイフリシアにはプライドも何もある筈もなく、ただ己だけが存在し、己以外の全てを滅ぼすという行動原理に全てを捧げている。
太陽に覆い被さるように天に座し、赤い瘴気を溜め込み始めるイフリシア。
晴れ渡る空は消え去り、悪天候は更に加速し視界を奪う。
「夕断」
雪月禍を一振り、その後に両断。
一瞬固められた景色が断たれずれ込み、雪に秘されていたイフリシアがハガネの視線の延長線上に晒される。
雪の積まれた大地を竜の脚力で叩き割り飛び立ったハガネ。
イフリシアが回避行動に移ろうとした矢先、突如発生した大火球が雪を溶かしながら放られる。
それはイフリシアへ、ではなくハガネへ。
かわす事は容易く、しかし地上への影響を考慮したハガネは雪月禍を翼を象る鞘の内の一つに納刀し、銀を纏わせた刃で第五魔法の火球を消し去る。
「……まさかそのような変貌を遂げるとは。
思いもしませんでしたわ。ねえ、ツクヨミ」
「これは正直使いたくないんですが…………、やむを得ませんね」
最悪の魔法研究機関、『鎖木の植物園』。
その幹部格であるダン・エインワットとサリエル・シャルシャリオネ。
どちらもが吹き荒ぶ雪の中で下界のハガネを見下ろす。
ただ、その表情には今までのような絶対的な強者の笑みはない。
橙色の光を纏い顔無し蛇の上で大鎌を構えるダンと、右目だけを赤く輝かせるサリエル。
一線を越えた者たちの本気の戦闘態勢だった。
ハガネの旋角が揺らめくと同時にその姿が雪煙と共に消える。
ある種異能よりも奇蹟的な知覚能力を持つダンが大鎌を振るえば、百メートル以上あった距離をゼロ秒で詰めてきたハガネの拳の迎撃に成功する。
ダンの持つ天異兵装、『オリオンの大鎌』の持つ異能、『獅子壊』を更に別の異能により多重発動させてなお、ハガネの竜の膂力によって発生した破壊圧を抑え切れず、顔無し蛇が銀に呑まれ空中で粉々になる。
翼を失ったダンが獅子壊の反動でその場から離脱するのを咎めようとしたハガネを、今度はサリエルの持つ青い鞭が襲う。
「動くな」
「……ッ!?」
ハガネが睨むと同時に白金の薙刀尾が空を切った鞭を捉え、そこから伝播した永遠がサリエルの動きを一瞬止める。
振りかぶられた竜の拳、当たればただでは済まない事など百も承知のサリエルが額に触れる寸前に己の異能、【盤狂わせ】ですれ違うように位置の入れ換えに寸でのところで成功する。
「くっ……! 一度、離脱を……」
背後で発生した吹雪すら消し飛ばす一撃に恐れを抱くよりも先にサリエルは地上に降りた雪一つと己の身を入れ換え、これで空にハガネ、地にダンとサリエルとなる。
未だ力を溜め込むイフリシアを一瞥し、ハガネは鎖木の植物園の二人を優先する事を決める。
隕石の如く落下してきたハガネ。
そのまま一直線にダンに詰め寄り、竜の右手を振るう。
速さ勝負は互角かややハガネが優勢、ただダンはその身を包む橙の加護により回避を可能としている。
(驚異的な破壊力…………。
ただ、それだけ。それだけでは足りませんよ)
雪月禍を引き抜き叩き付けるように振るうハガネに対して、ダンの回避動作は少しずつ軽快になっていく。
大降りの一撃を繰り返すハガネ。
それがまた一つ空振った時、ダンの表情に余裕が生まれる。
(純粋な剣技で立ち回られる方がよっぽど厄介でしたね……。
竜の力に振り回されているようでは)
隙だらけの大振りの構え。
白金の瞳を輝かせ突貫してくるハガネに対して、遂にダンは完璧な反撃のタイミングを見た。
最小限の動作で右手の一撃を避け、大鎌でその首を落とす。
失敗すればどうなるかなど考える事もなく、その鼓動が乱れる事もない。
荒れ狂う大海を遂に渡り切ったと確信したダン。
そしてその次に、彼は海を見た。
「──────ぁ?」
船を揺らす大波も、降る豪雨も。
全て一瞬にして消えた。
もはや辺り一面の凪。
それは当然幻覚であり錯覚である。
ただ竜の勢いのままに向かってきた筈のハガネが突如として静止し、更に左腰に巻き付くように降りてきた翼の鞘に静かに納刀したために、その余りのギャップに思考が見せた幻影。
荒々しさが露と消え、膨大な静寂がダンの鼓膜を打つ。
「───月詠一刀、二転・火渡」
その呟くような声さえ、完璧に聴こえた。
地を舐める程に身を屈めたハガネの横薙ぎの白刀の一撃は、ダンの胴元を掠めるに過ぎない。
ただ、それで十分だった。
極限の中の反応でかろうじて後ろに跳び上がりかけたダンの全てがその場で停止する。
「呪あれ」
サリエルが入れ換えるよりも速く、竜の一撃がダンを襲う。
弾け飛んだ橙色の光。
とある異能の加護が耐えきれず散り、ダンの右耳の雫石のイヤリングが砕け散る。
吹き飛んだダンを一瞥もせず、ハガネの視線はサリエルへと移る。
振るわれた青い鞭が青い陽炎を作り出し、サリエルの姿を隠す。
もはや攻勢など考えに無いと言わんばかりの消極的な行動。
だが、吹雪の中で竜の瞳から逃れる術は無く。
雪に紛れ空に逃げ渡った筈のサリエルが下界を僅かに覗けば、空を蹴り上がってきた雪鬼の白金の瞳と目が合う。
「ひ、……!」
そのまま蹴り一つ。
超人的な防御力のステータスを持つにも関わらず、サリエルの頭を庇うために交差させた両腕の骨は軽々と砕かれ地に叩き落とされる。
雪がクッションになるにはその勢いは余りにも苛烈で、戦いの中で抉れた地盤にサリエルは強かに打ち付けられる。
世界の裏に君臨する魑魅魍魎。
鎖木の植物園の管理人たる二人は、今や戦列に戻ることなど出来ない。
ここでようやくイフリシアが動く。
人間同士が勝手に争い合う中、罪竜は溜め込んだ力を解き放つために、とある行動に移る。
「───我祝う─清浄の黄昏──」
「……詠唱?」
ハガネが聴いたのは竜の言葉。
ゆっくりと飛翔し、謳うように唱え始めたイフリシアに対して、雪月禍を構える。
この世界に設定された魔法の仕様に呪文の詠唱などは存在しない。
願えば叶う。それが全てであり、声に出す事でより強いイメージが可能となるために魔法発動の際に魔法名を口に出す事が訓練段階でのみ推奨されるが、それを行うことによって言霊が宿ることも威力が上がることもない。
「オイ! 月詠の小僧!」
吹雪を掻い潜り、風の魔法で僅かばかりに景色を晴らした国土防衛省直轄部隊『槍』作戦隊長、棺カイエンと護国十一家、水波シズクと盾湖ジクウがハガネの元へと駆け寄る。
白金の角と翼、それから尾を見て複雑そうな顔を浮かべる三人。
ただその視線は直ぐ様空へと移る。
銀世界の中に浮かぶ血で出来た太陽。
褪せ赤のイフリシアの秘奥。
「お、おい…………。
冗談だろ……」
カイエンが脂汗を滲ませ顔をひきつらせる。
シズクとジクウもまた、その顔に余裕は浮かべられない。
胎動するイフリシア。
周囲から赤い煙を引き寄せ、その鼓動は段々と強まる。
「─────寿ぎ書くて我が敵、その全て──滅せよ──」
瞬間、莫大な数のステータスバーがイフリシアを覆う。
投影された幾つもの画面で赤い球体の輪郭がぼやけ、一瞬雪の中に紛れる。
それも束の間、直ぐ様それは訪れた。
「──天雨解放、『壊晴赤天上』」
血を吐く太陽が、爆ぜた。