91話 竜の矜持の希想曲
味は特にしなかった。
甘くも辛くも酸っぱくもない。
食感と言えば、やたら硬くて噛み砕くのに苦労した。
まだ破片が奥歯に残っていて、少し嫌な感触だ。
いや、やっぱり兵器なんて食うもんじゃない。
鉄より硬い魔力を俺の身体は消化できるんだろうか。
なんか腹が痛くなってきたような───
「な………………なな、何してんだァテメェ!!?」
「………………正気か、……月詠」
凄まじい形相で突っ込んできて、俺の喉を片手で握り地面に叩き付ける国土防衛省所属の男。
呆れる水波シズク。
後頭部を打ち付けられて痛みが一瞬走る。
人はこうも激昂出来るんだなと感心するほどに、この男は怒り狂っていた。
俺の首を絞める手に力が入っていく。
そんな事をしても、ネメシスの宝玉が吐き出されるなんて事はあり得ないのに。
「何したかわかってんのかあ! ああ!?
罪竜の天異兵装だぞ!?
どれだけの兵器かわかってんのかァ!!」
「なので、鎖木の連中に渡る前に破壊しておきました」
「抜かしてんじゃねえ……!
クソッ! どいつもこいつもイカれてんのかよ、護国ってヤツはよぉ!?」
ああ。
いい気味だ。
別に政府に恨みなんてないし、ネメシスの力が誰に渡ろうがどうでもよかったが。
誰かの手が入り交じって進む盤上の戦場。
駒の痛みも気持ちも知らない連中が茶飲み話のついでに進行させる遊戯において、その盤面が滅茶苦茶になる瞬間ほど気分のいいものはない。
常に誰かの上にいて、常に予想通りとほくそ笑んで、常に甘い蜜を吸い続ける顔も知らない誰かさんが、今しかめっ面をしてる。
事のついででアルテナが殺されるくらいなら、こうも荒れに荒れた方がマシだろう。
一応、鎖木の植物園の手に渡ればマズイというのは本音だし、体裁としては十分だ。
「ざけんじゃねえ!!
世界共通統魔機構も噛んでるんだぞ! 俺らの派閥のメンツはどうなんだよ!?」
「イフリシアがまだいます。
流石の俺もおかわりはしませんよ」
「ッ!! ……………………っ、クソが!」
首を絞める手とは逆の方で俺を殴り付けようとした男だったが、どこかで踏み留まれたのか流石に何の抵抗もしない俺を殴ることはなかった。
正直悪いことをしたという自覚もある。
俺の軽率な考えと行動で誰かが明日食う飯に困るというのはザラにあることだ。
ただ、戦場で刃を向けられた以上、そんな些細なことは気にしてられないというだけの話だった。
罪竜の魂?である天異兵装を食した筈の俺の身体には何の異変もない。
拍子抜けだ。
「シュウ、カイリ、行動Aを破棄。
サブに移る。神伏岩の継続と肉塊共の掃討を頼む」
頭に血がのぼっている割には冷静な指揮系統だ。
俺の首から手を離し、そもそも俺なんて居なかったかのように背を向けて地に縛られたイフリシアに全員の視線が集まる。
あいつを殺して、そしてまたあの馬鹿みたいな争奪戦を繰り返すんだろうか?
さっきも言ったように流石に二個目は食べたくないし。
ただ、一つだけわかるのは。
褪せ赤のイフリシアはこのままでは終わらないと言うこと。
俺の生来の聴力か、あるいはネメシスの遺骸を取り込んだことで第六感でも根付いたのかは知らないが、さっきから昂りを感じる。
それは俺の昂りではなく、イフリシアとそしてエンデとアルテナのものだ。
「───ヒト、──ヒトヒトヒトヒトヒトヒトヒトヒト」
「うぉっ!? な、なんだこいつ……!?」
囲まれていたイフリシアが壊れた機械のように同じ言葉を繰り返し始めた瞬間、地面が抜けた。
「なっ!?」
「…………神伏岩の特性を把握したか」
俺もまた揺れる大地に転がりながらその光景に何となく察しがついていた。
神伏岩は強制的に対象の魔力のベクトルを定義付ける。
上に抗えば抗うほどに縛る力は強まり、まるで魔力そのものを封じられているように錯覚する。
その強大な効力で錯覚しがちだが、あくまで全てのベクトルが下に向くだけであって、別に魔法そのものを封じられているわけじゃない。
その結果が、地を喰らい尽くして崩壊させたイフリシアの脱出劇。
イフリシアから離れた場所の大地からも赤い十字架が噴出し、国防省の兵士たちが敷いていた陣など何の意味も持たなくなる。
ステルスを解除し高速機動に移ったヘリコプターが三機。
どれも赤い十字架を避けるのに必死であり、神伏岩による封印はもう望めない。
「セラ、アルテナは」
囲んでいた兵士たちが散り散りになったことで自由になったセラと、その小脇に抱えられたアルテナと合流する。
「意識はやはり朦朧としているけど外傷は無いわ。
それよりハガネ君の方こそ大丈夫なの?」
「平気だ。取り敢えず退避しよう」
ネメシスの助力も無くイフリシアに真正面からやりあえると思うほど自惚れてはいない。
距離を取ってフルパワーの夕断でちまちまと削るにしても、キリが無いだろう。
「────来たれ───我が言葉───」
「……言葉。エンデか」
天に舞い戻ったイフリシアの地鳴りのような声。
完全へと成るために自身の分けた身であるエンデと、そしてアルテナを取り込もうと再び動き始めたのだろう。
当のエンデはと言えば、やはり苦しみながらも足元に群がっていた肉塊を踏み潰し意識を保っている。
だがあの調子では逃げることすらままならない。
エンデがイフリシアに取り込まれることで何が起きるのかは定かではないが、間違っても弱体化などは起こらないだろう。
「───、─────」
音の無い声と共にヴァルカンの胴体にある巨大な口腔から止めどなく赤い十字架を吐き続けるイフリシア。
右も左もなく全て滅ぼさんばかりに降り注ぐ反生命魔法。
「……絨毯爆撃か。セラ、アルテナを頼む」
「貴方は?」
「上と下の異物を排除する」
倒れた巨木、割れに割れた大地。竜の魔法で作られたアーチ状の岸壁。
そこを這う肉塊と、天から降る十字架。
如何に狩人と言えども生身で駆けるには少し困難だ。
今はとにかくアルテナを遠くへ───
「どこへ行くんだ、君たち!?」
立ちはだかるのは黒銃剣を狩人装束に背負う兵士二人。
「…………イフリシアの欠け身を本体から遠ざけるために───」
「ならば殺す方が早いだろう。
本作戦における対奇蹟生命体の非殺傷条項は存在しない!」
「……いえ、赤の罪竜が自らの欠け身を殺そうとしている以上、我々がここで器を破壊するのはあまり賢い選択とは思えません」
「ならば置いていきなさい!
護国に守護と言えど学生、勝手な真似は君たちのお家を貶めることになるんだぞ!」
聞く耳を持っていない。
国土防衛省の兵士と言うからにはやはり厳格な作戦規定に則って任務を遂行しているわけだし、やはりがんじがらめで融通が利かないのも無理はない。
こんな事をしてる場合じゃないのに。
言ってる間に赤い十字架が俺たちの近くに墜落する。
舞い上がる土埃、腐臭。
誰もが顔をしかめる中で、どこからともなく嫌な羽音がする。
「…………竜もどき」
蝿の羽を植え付けられた哀れで醜い竜の成れの果て。
気付けば戦場に蔓延している。
十中八九エインワットの仕業だろう。
どこから湧いて出てきているのか知らないが、元々鎖木の植物園の拠点があったこの杜若では何がどれだけ出てきたところで驚きはしない。
アルテナとセラを護らなければ。
そう思い雪禍を抜いて、しかし奇妙な現象を見ることになる。
「……襲いかかって来ない?」
「…………いいえ、少し違うみたい」
俺の真横を不快な羽音と共に素通りした巨体。
竜もどきが狙うのは国防省の兵士ばかりだった。
「ぐっ!? 分隊B、増援を!」
こいつらに何を設定した、エインワット?
何を企んでる?
考えても埒があかない。
こうしている間にも赤い十字架は降り続け、抉れた地面から養分を吸い取りまた肉塊の化物が生まれる。
「……逃げようにも、何処へ行くべきか」
現場の統率を担っていた国防省の兵士たちは混乱の極致にある。
護国の陣営は水波の二人しか姿を見せていないが、おそらく後詰めの部隊が少し離れた森林や空の何処かに姿を隠していることだろう。
面倒なのは鎖木の連中だ。
新調した顔の無い蛇に跨がって空を飛ぶエインワットと、随伴するシャルシャリオネはおそらく罪竜の遺骸目当て。
それでもあいつらがイフリシア側についていたのは、恐らくパワーバランスの都合かもしれない。
罪竜を圧倒してしまえば、それだけ俺たちにも余力が生まれる。そうなれば易々と天異兵装を奪うことは困難になる。
あいつらからすれば出来るだけ俺たちに消耗してもらい、何人か間引いたところでネメシスないしはイフリシアに倒れて欲しかった筈だ。
現状イフリシアは空を取り戻し、一応人類と言うくくりの中にはある俺たちも各々の意思を優先してバラバラな以上連携など見込めない。
やってる場合かよ、というのが本音だ。
そう迷っている間に、今度は地上で火球が発生した。
「シャルシャリオネ……? いや、これは……、エンデか!」
自身を囲んでいた兵士を吹き飛ばす無数の球状の炎。
遠目に見てもわかる。ゆらめく赤い瘴気を背負い忘我のままに立っている。
その視線はイフリシアに向いている。
だが敵視には見えない。多分戻ろうとしているのだろう。
誰かがエンデを止めなければいけない。
それこそ、殺してでも。
イフリシアに吸収されればどのみち死ぬのと変わらない。
光の剣を精製して戦う国防省の兵士、『槍』なんて部隊名で呼ばれていた男と水波の二人はイフリシアの波状攻撃を掻い潜りつつエンデに接近する。
ただ双方が好きに動いているだけで特に協力の意思は見られない。
「ハガネ君、アルテナが……!」
「……やっぱり、イフリシアに引っ張られ始めてるな」
片膝をつくセラが支えるアルテナの目は赤く輝き、エンデと同じように赤い瘴気が立ち昇っている。
またさっきみたいに俺たちを攻撃してまでイフリシアと同化しようとするのだろうか。
雪禍で無理矢理止め続けたら今度はアルテナの命が危ないし、俺もセラも殲滅ばかりで拘束する手段は持っていない。
アルテナの小さな口が僅かに開く。
何か伝えようとしているのか?
「アルテナ、しっかりしろ。
イフリシアに呑まれたら─────────あぇ?」
俺がアルテナの肩に触れながら声をかけた瞬間。
アルテナの頭部の小さな一本角が、
ぽろりと落ちた。
「!? ハガネ君!? 貴方何して……!?」
「えええ、いやちょっと待てって。
わざとじゃない! っていうか、え? マジ?」
角取れたんだけど。
嘘だろ?
くっつけたら戻るのか!?
「………………ハガネ、…………うるさい」
「えっ……、平気なのかよアルテナ」
なぜかアルテナは角をもがれて意識を取り戻した。
何が何やらさっぱりわからない。
「……ハガネ君、これ」
セラが見せてきたのは落ちたアルテナの角。
その断面からは微かな銀の煌めき。
……まさかあの時ネメシスが放った何かの影響か?
尻尾はそのままだが、アルテナの頭部にはもう角の痕も何もない。
まるで角なんて元から無かったかのように、黒いヘアバンドと銀色の頭髪ばかりだ。
「………………『空』が、泣いてる」
「空? ああ、エンデのことか?
泣いてるのか、あれは」
アルテナがぼんやりと眺めるのはイフリシアと国防省の兵士たちの板挟みに逢いながらもがむしゃらに魔法を放ち続ける金髪の人竜、エンデ。
何を思ってああも荒ぶっているのかわからなかったが、泣いている?
「………………『空』は、先に生まれたから。
………………アルテナと『焔』を守るために」
「……ああ、だから今あいつは戸惑ってんのか。
何をしたらいいのかわからなくて」
無我夢中でとにかく攻撃している。
それは自分に手を伸ばすイフリシア相手であったり、撃ち落とそうと魔法を放ってくる他の兵士相手であったり。
その形相は悲痛そうにも見えるし、困惑とも絶望とも取れる。
そうか、あいつはそれであんなに必死なのか。
先に生まれたから守らなきゃいけない。
それではまるで、
「アルテナ、少しだけセラと一緒に耐えられるか?」
「………………ん」
「ハガネ君?」
「大丈夫、すぐ帰ってくる」
少しだけ親近感を覚えたあいつに、教えてやることがある。
━━━━━
━━━━━
個体名称『空のエンデ』。
発生時期不明、発生場所不明。
発生源のみ『褪せ赤のイフリシア』と判明。
狂い銀のネメシスの巡生命魔法により人の姿を与えられてしまった哀れな竜は今、発生して以来の混乱と困窮の中でわけもわからず魔法を放っていた。
眼下には人間、人間、人間、そして肉塊。
滅ぼすべき対象が溢れかえっているにも関わらず、かりそめの心の何処かで訴える正体不明の優先事項の存在が煩わしくて仕方がない。
そんな苛立ちにも似た思いを振り払うようにエンデは暴れ狂う。
賢く、理に叶った立ち回りなどどこにも存在せず、いたずらに範囲攻撃ばかりを放ち息を切らす。
この場にいる猛者と化物たち相手にそんな手がいつまでも通用する筈もなく。
土の魔法で作り上げた岸壁を見切られ、逆にそれを足場に接近される。
辛くも反応すれども、突然の超高重力に襲われ空から剥がされる。
地面を大きく叩き割りながら墜落し身体を起こそうとしたエンデが見たのは水面のような静かな刃紋。
流剣シラサメという銘を彼女が知ることはなく、何もわからぬままに首を落とされかけた刹那。
視界に割り込んで来たのは白い刀だった。
「……! 月詠、何の真似だ」
「今ここでイフリシアの欠け身である空のエンデを討伐するのはリスクが大きすぎるというだけです」
光の杭が円を描きハガネとエンデを囲う。
舞の如く雪禍の斬り払いは全ての杭を凍てつかせ、更に追い打ちをかけんと空から降ってきた高層ビルのような赤い十字架は無数の断ち傷により空中で崩壊する。
ハガネに抱えられその場から離脱したエンデにはやはり理解が追い付かず。
自分を解放して無防備に背を向ける白髪の少年に魔法を撃つかどうか数瞬躊躇い、やめた。
「納得できんな。その竜は我々を脅かしている。
放っておけと?」
「それはこちらから攻撃したからです。
今の空のエンデの命令系統には人への攻撃よりも優先されるものが存在します」
「なぜわかる」
「少なからず『銀』と繋がっていた身としての直感、では駄目ですか」
「駄目に決まってんだろうがバカが。
竜と仲良し小好しで戦うには俺たちは被害がデカ過ぎた。
迂闊に背中なんざ見せられるワケねえだろ」
一斉に魔銃を構える兵士たち。
晒されるのはハガネとエンデ。
眉間に皺を寄せ、魔法を放とうとしたエンデだったが、ハガネが庇うように伸ばした手で意思を遮られる。
それは果たしてどちらを庇ったのか、エンデにはわからなかった。
「大丈夫です。いざという時は俺が殺します」
「証拠は────────」
問いかけたシズクの言葉の途中で。
ハガネの白刃がエンデの腹部を貫いた。
「……はっ、…………あ……」
その技の冴えと、躊躇いの無さに誰もが目を奪われて、心を凍らせた。
無情、無慈悲、そんな言葉が浮かび、今まで庇いだてした竜を突然殺しにかかった月詠ハガネという少年に対して誰もが困惑と畏怖を覚えた。
「………………月詠の小僧、お前今、何をした?」
「この刀の異能で空のエンデの体内に時限式の死を埋め込みました。
俺の気分次第でいつでも起動できます」
ざわつく周囲と、そんな悠長に話している場合ではないと言わんばかりのイフリシアの攻撃を避けながら、奇妙な戦場の談合は続く。
「やるべき事をやりましょう、シズクさん」
「…………そうか」
「納得すんのかよ! クソッ!どうなっても知らねえぞ!」
エンデは目の前の光景をただ見ているしかなかった。
なぜ人間は自分への攻撃をやめ、結託し、イフリシアを攻撃し始めたのか。
時限式の異能?
あの白刃が?
正気なのかと疑いたくもなる。
腹部を撫でれば傷など無く、その体内にも一切の異物は感じられない。
当然も当然。この少年は自分を貫いてなどいない。
何を考えているのかまるでわからない。
数人の監視と思われる兵士を残して閑散となったハガネとエンデの周囲。
先に口を開いたのはハガネだった。
「なあ、エンデ。お前は一体何なんだろうな」
そんな事を問われたって、エンデには応える義理も答える言葉も無かった。
それがわからないからこれ程苦しみ、もがいているというのに。
「イフリシアの遺児。今はあいつの言葉だっけ?
それがお前の全部の筈なのに、じゃあなんで大人しくあいつに従って取り込まれようとしてないんだよ」
「…………それ、は」
上手く頭が働かない。
エンデの脳裏には理路整然とした言葉がいつもあった。
それが褪せ赤のイフリシアの言葉としての役割だから。
だが今では思考の海は穴だらけで、不意に落ちて帰って来られない程で。
そんな中でも何かに抗って、そして誰かの前にずっと立っていた……、気がしたような、そんなあやふや。
答えなんて自分では出せない。
「先に生まれたんだろ、ヴァルカンよりも、アルテナよりも。
だったらお前は姉なんだよ」
「ぇ…………」
「『イフリシアの遺児』じゃない。
『焔のヴァルカンと朧のアルテナの姉』だって言ってんだよ。
先に生まれたから仕方無く守ってんだ。
言っとくけど人間だってそうだからな」
感情にぐさりと突き立てられた言葉にエンデの思考が止まる。
他の欠け身を守るために先に発生しただけであって、別に遺伝的な情報の近似も無ければ姓も名も共通点なんて無く、とても姉弟なんて呼べたものじゃない。
それなのに、その言葉を手放せなかった。
頭の中で足場を与えられた思いが急速に現実感を増す。
気付けば視界はほんの少しだけ明瞭になり、不安感が募る。
「お前の中にあるネメシスの銀は、多分お前を肯定してくれる。
褪せ赤のイフリシアのものじゃない、空のエンデとして何がしたいかを認めてくれる。
竜として作られた以上、人間への憎しみは消えない。
でも、それ以外の感情だってお前にはあったっていい。
……なんて、俺の願望だけど」
決められた生き方を否定しきることはせず、ハガネはただ提案するようにエンデに声をかける。
その瞳の裏に迷宮で土へと還った天使の姿があったとしても、エンデにはそんな事はわかる筈もない。
今この瞬間も身を焼くイフリシアの欠け身としての衝動。
その身を捧げなければという使命感に空へと昇りたくなるが、両の目は足の向かう先とは異なり銀髪赤目の少女と、イフリシアと完全に同化した赤髪の遺骸へと向いてしまう。
「いざとなったら俺が本当に全部止める。
それまでに、決めてくれよ」
今度は茶番ではなく本気で殺すという意思。
言葉の割に軽い冗談でも飛ばすかのような表情のハガネにエンデは何も言えず、イフリシアに向かっていくその背を止めることはなかった。
━━━━━
━━━━━
言いたいことは全部言った。
あとはやるべき事をやるだけだ。
「───未だ抗うモノ共、還らぬ我が身。
─────ままならぬコトだ」
ヴァルカンの身体はもうほとんど飲み込まれてしまった。
今のイフリシアは巨大な口を中心に肉塊の腕を無数に生やし、赤い十字架を幾つも背負って纏う、竜ですらない巨大な何かになっている。
絶えずぼたぼたと赤黒い液体を振り撒いて、ゆったりと行進する。
とにかく斬り刻むしかない。
セラとアルテナを警護しつつ、鬱陶しい十字架の鎧を夕断で少しずつ剥いでいく。
大地が赤く染まる、段々と足場が減っていっている。
血の池地獄の中で肉塊が泳ぎ、赤い瘴気を掻き分けながら竜もどきが宙を彷徨う。
あの粗野な光の剣を駆使する国防省の男と水波の二人は先ほどの問答にある程度落としどころを見付けたらしく、あれ以上俺に食って掛かってくる事はなく体裁程度の協力体制は見せている。
他の国防省の兵士たちの練度もやはり高く、どれだけ喋る言葉が流暢になろうともやはりイフリシアの攻め手はイマイチ欠け、逆に俺たちは少しずつではあるがその要塞のような巨体を削り始めている。
このまま行けば、誰もがそう思うかもしれないが、当然そう簡単にはいかない。
「ッ! ダン・エインワットォ!!
邪魔くせえんだよ、テメエら!!」
「それが仕事ですから」
鎖木の植物園、その幹部二人。
空に座して魔法やら異能やらを放ってくる面倒極まりない連中。
俺たちに出来るだけ消耗してもらう必要があるがゆえに、あの二人はイフリシア側についている。
とは言ってもイフリシアにとってはエインワットもシャルシャリオネも滅ぼすべき存在であり、近付けば同じように攻撃しているが。
大型の竜もどきが放つ爆破の魔法。
シャルシャリオネが一定間隔で降らせてくる地形を変える第五魔法。
中距離から詰め寄ろうとすればエインワットが大鎌の異能で竜すら砕く一撃を見舞ってくる。
とても鬱陶しい。
だが、鬱陶しいだけなのだ。
この戦いは俺たちが勝つように進行している。
今のペースでイフリシアを少しずつ削っていけば、その核にあたる何かを破壊する事は容易く思える。
「───…………無駄なコトを──」
「しゃらくせえよ!【神射】ッ!」
光の巨剣を精製し大空に投擲する国防省の男。
肉塊の腕で薙ぎ払ったイフリシアだったが、その光の粒子が飛び散り視界を覆う。
その一瞬に狙いを定め高高度で待機していたヘリコプターが数機降下、おそらく神伏岩を時間にして二秒ほど当てたことで、イフリシアの身体は大地に引っ張られる。
待機していた水波の二人が魔法と剣技で肉の壁を弾き飛ばし、更にありったけの毒を注入する。
「そこか……!」
見える。
巨大な口を模した器官のその最奥。
赤黒く光る何かが大事に秘されている。
斬れる、今なら。
穢れた大地を放棄して宙を駆け、他の三人と入れ替わるように斬り込む。
狙うは心部。どう見たって弱点だ。
「【夕断】……!」
俺を叩き潰そうとした肉塊の腕を雪禍で受け止めつつ凍らせ、斬るべき物を視界に捉える。
終わらせる、これで。
全部────
「ああ、私の【盤狂わせ】」
捉えて────────、あれ?
何で俺の前に何もいない?
イフリシアは? 消えた?
いや、背景が違う。
消えたのはイフリシアじゃない、俺の方か?
「月詠、後ろだ!」
「えっ……!?」
俺の位置がおかしい。
背後からの肉塊の腕の叩き付けを確かに喰らい、吹き飛ばされながらも思考は続く。
あの瞬間、聴こえたのはシャルシャリオネの声だった。
まさか……!
「さあ、もう一度」
ぱちんと鳴らされた指。
同時に視界が瞬時に変わる。
今度はイフリシアから見て三時の方角に俺は立っている。
俺がいた場所にはシズクさんが。
駒の位置をすり替える異能。
その交換は一対一だけに留まっていない。
セラは別の場所の兵士と入れ換えられ、光の剣を構えていた男は群れていた竜もどきの中に放り込まれている。
「サリエル・シャルシャリオネ……!」
「あら。そんな顔もしますのね、ツクヨミ。
そちらの方が素敵ですわよ」
ぶち殺すぞ。
余計な水を差すな。
人を弄ぶことしか考えていない悪辣な異能。
天から睥睨出来るあの女が持つにはうってつけだろう。
五秒としない内に二回も発動していた辺り、時間の制限は考えに入れない方がいい。
魔力障壁の厚さだとか、そんなものは一切関係なく無理矢理入れ替えられる最悪の奇蹟。
イフリシアが地に座ったまま俺に腕を振りかぶる。
やめろ、それを受けるのは俺じゃない。
「さあ、踊ってくださいな」
理解していたにも関わらず、シズクさんはその一撃を喰らわざるを得なかった。
俺と位置を入れ替えられた。
「全員距離を取りやがれ!!」
その声と同時に潮が引くようにイフリシアの周りから人気が無くなる。
だがそれは完璧には叶わなかった。
前後不覚。
全員を対象に三秒間に一度発生する入れ替わりは、まともな逃げ方をさせてくれない。
その間もただ一人方角を見失わないイフリシアが、地平に全員が立っていることを幸いと赤い十字架を360度全てに向けて放ち始める。
その間も位置の入れ換えは不規則に発生し、誰もがいつどの角度から攻撃が来るか正しく予測できずに消耗していく。
「やめろっつってんだろうが!」
まずは空にいるシャルシャリオネを叩き落とす。
イフリシアはそれからだ。
もはや捉えた瞬間に躊躇い無く発動する。
夕断─────
「オリオンからは逃れられませんよ」
「がはっ!……ッ!? エインワット……!」
大鎌の異能をもろに喰らった。
人として形が残ってることが不思議なくらいの衝撃。そのままに地面に叩き付けられる。
顔を上げれば目の前にはイフリシア。
赤い泥のようなものを纏い、俺を貪ろうと伸ばされる巨大な腕。
違う、これも。
俺じゃない。
「フィナーレですわ」
俺と入れ替わったのは、アルテナ。
ふわりと投げ出された小さな身体が赤い肉に呑まれる。
俺から見てイフリシアを庇うようなアルテナの位置の都合上、角度が悪すぎて夕断は使えない。
雪禍は届かない。
誰か、
「ッ!! 離れ、な、さい!」
「……エンデ……!?」
空から割り込んだのは金髪を赤く汚したエンデ。
肉塊の腕を竜の膂力と爪で引き裂き、アルテナを抱え離脱する。
その右目からは赤い液体が垂れている。
「────我が『言葉』───捨てよ、その穢れを───」
「こっちを見て」
追い打ちをかけようとしたイフリシアを背中側から呼び止めたのはセラ。
放たれたよくある普通の第三番目の水の魔法。
それを見て避けることすらしなかったイフリシアの身体を、細い水流が貫通した。
「───??───!」
「脆いのね、貴方も」
初めて見るイフリシアの混乱。
その間にも二発、三発と様々な色の魔法が撃ち込まれ、堅牢な赤い十字架の鎧を容易く抉り、少なくないダメージをイフリシアに負わせている。
やはりあいつの異能は怖い。どれだけステータスに開きがあろうとも、どれだけ優れた防具を着込んでいようとも、風霧セラの前では意味が無い。
当のイフリシアは崩れた身体を治すよりも、疑問の解決に時間を使っている。
防御ではなく回避を選択し後退せざるを得ないほどにセラの魔法は罪竜にも届いている。
「…………カザキリ。妙な異能ですわね……。
仕方がありませんわ、少し順序を─────」
星を殴り割る勢いで手を叩き付け、大地を引っこ抜く勢いでその弓を取り出す。
借り物の金の腕輪。いつか天魔の残党に返してやらなきゃいけない。
だけど今だけ力を貸してくれ、『迷閃』。
「空から消えろ、『天炎槍』」
「……っ」
気付くが速く、飛行の異能の速度を上げて離脱を始めるシャルシャリオネ。
一発だけじゃ生ぬるい。
だがこの原始弓は流石に疲労感が強くなる。
だから正確に、逃げる先を追って…………。
あ、れ?
「己が技で、滅びなさいな」
入れ替えられた?
誰と?
というかどこだここ。
浮遊感。薄まった腐臭。上には厚い雲。
遥か下界から俺に迫る、俺が放った筈の爆閃。
「……っ! 雪禍ァ!」
全身全霊の防御態勢。
も、虚しく、空で爆ぜた天使の魔法に晒された。
たまたま背後にあった竜の魔法で出来た岩壁に身を叩き付けられる。
熱は全て防げたが、爆風だけはどうにもならなかった。
息が出来ているのか自信がない。身体は繋がってるのか?
意識だけがあっても、指が思ったように動かせず雪禍を左手から引き抜けない。
いや、そんなことよりもシャルシャリオネとイフリシアは……、
「……まず……!」
俺と入れ替わり地上に降り立ったシャルシャリオネは真っ直ぐイフリシアの元へと向かっている。
自殺行為にしか見えないが、その実は無差別なダメージの転嫁だということをもはやこの場にいる誰もが知っている。
触手のように細く尖った肉塊を伸ばしたイフリシア、あれに触れれば竜だろうと滅ぶ。
シャルシャリオネと入れ替えられたのはエンデと、その小脇に抱えられたアルテナ。
イフリシアの放つ赤い光がエンデを強く捉え、その片目から流れる赤い液体をより濃いものとしている。
イフリシアの動きが緩慢になった。
なぜかと言えば、それはもう逸る必要が無かったから。
十メートルもない距離で目を合わせてしまったことで、エンデは完全にイフリシアに魅入られている。
己が親にして本体。避けられない強制力。
「───母体たる我に還るのだ──愛おしき我が『言葉』──」
「…………、……………」
目に入ったのはイフリシアのすぐ上から魔法を叩き付けんとするセラ。
取り込むことに夢中になっているイフリシアは気付いていない。
「わ、………わた、しは、……空のエンデは…………」
「────??─────」
全てを差し出すように虚ろになっていたエンデの手からアルテナが離れ、エンデを庇うように両手を広げて立ちはだかる。
駆け付けたいのに動けない。
そう思っていたら、俺の景色が変わった。
完全に不意を突いていた筈のセラの一撃は不発となる。
入れ替えられたのだ、俺と。
どこまでも最悪な連中に。
「………………『空』を、いじめないで」
「────順序などない───『朧』───まずは貴様から───??
───????─────?????」
アルテナの小さな身体を覆ったのは、伸ばされた翼。
抱き締めるようにエンデが後ろからアルテナを引き寄せ両翼はイフリシアの触手から小さな身体を護るように前方で交差されている。
ぐちゃぐちゃの感情の中でも、エンデはアルテナを抱き後方に跳んだ。
だがそれだけでは避けきれるわけもない。
だけど、よかった。
どう見たって満身創痍だからシャルシャリオネは俺をセラと入れ替えたんだろうが、死に体でもやることなんていくらでもある。
崩れかけていた迷閃の最小出力の爆閃。その反動で投げ出された空中で身体の落ちる方向を変える。
当然イフリシアの前に落下する。着地は失敗したが、まあ良しとしよう。
俺に伸ばされたイフリシアのその攻撃を見て、思わず笑ってしまう。
エンデとアルテナの前に立つのは間に合った。
雪禍で迎撃するのは間に合わなかった。
だから俺の腹部に大きな穴が空いた。
冷たい異物の感覚。衣服の内側を伝う誰かの血、熱を持った喉、全部が嘘みたいだ。
多分、死にそうだけど、そんなことよりも言わなきゃいけないことがある。
「────????─────」
「………………は、ハガ、ネ……!」
「……あ、あぁ、私、は……エンデ、は…………」
三人ともが困ったような反応をしてる。
今起きたことの全部が、こいつらは当事者だってのにわかっていないんだから、俺が教えてやらなきゃ。
「……わかってんじゃねえか、エンデ。
お前が……、誰なのか」
「……わ、私は」
自分の身よりもアルテナを優先したこと。
イフリシアへの迎合を拒絶したこと。
全部が正しい。たとえ家族愛なんてものじゃなかったとしても、本能的な勢いだったとしても。
俺が身を挺する価値は有り余る。
「……それと、イフリシア。
…………お前、なんでこれで、……攻撃したのか。
……はは、わかんねえ、だろうなあ」
俺の腹を未だに貫いているのは、あの反生命魔法を纏った肉塊だの触手だの、じゃない。あれで貫かれていれば俺も、そしてエンデもアルテナもとっくに滅ぼされて取り込まれてる。
武骨で、無駄にデカくて、誇り高いだけの竜の爪。
これはイフリシアのパーツじゃない。
「…………焔を、舐めすぎたな。
ざまあ、みやがれ」
やべ、意識が。
今の内に、誰かイフリシアに……、とどめとか。
霞んだ目じゃ、夕断の線は見えない、……から。
━━━━━
━━━━━
「………………お、オイ!? 月詠の小僧!?」
「チッ! ジクウ!!」
「承知しました」
護国十一家が一人、倒れる。
月詠ハガネの身体から異物のような爪を引き抜いた褪せ赤のイフリシアは、しかし傷など負っているわけでもないのに地面を削りながら後ずさる。
「…………………………ハガネ、くん?」
ほとんど茫然自失となった風霧セラが、イフリシアの近くであるということも忘れ、地面に倒れたハガネの傍に寄る。
その脇には涙を流す朧のアルテナと、そして瞳を見開いた空のエンデ。
水波シズク、盾湖ジクウ、そして国土防衛省直轄部隊『槍』作戦隊長、棺カイエンがそれぞれの力の限りの威力を以て後退するイフリシアを追撃する。
鎖木の植物園、その管理人の二人は場を掻き乱す手を止め静観に回る。
これで死闘になる。
月詠ハガネというイレギュラーが倒れた今、パワーバランスは均衡に近付き、どちらかのワンサイドゲームはあり得ないと踏んだからだ。
人類側の増援が想定される以上、時間をかける展開は望ましくなく、二人はいつにない肉体労働の時間の長さに辟易しつつも次の一手を仕込んでいる。
そんな戦況の中で、最初に目立ったのはエンデだった。
竜の魔法と竜の膂力を用いた猛攻。
今までのがむしゃらなそれとは違い、明確に意思を持った指向性のある攻撃は、動揺するイフリシアに対して有効に働いている。
「────なぜだ??───『言葉』よ──『瞳』よ。
なぜ───我が子らよ───」
「……子では、ありません」
戸惑いながらも再び空に浮かび上がろうとしたイフリシアをエンデが上から魔法を纏った腕で叩き付け地に戻す。
段々と平静を取り戻しつつあるイフリシアが奈落を思わせる咆哮と共に反生命魔法を撒き散らす。
全員が退いた中で、倒れ伏すハガネとその横で叫ぶセラと、顔を伏せるアルテナだけが残されるも、三人を庇うようにエンデが翼を広げ立ちはだかる。
翼に穴が空く。角の先が欠ける。尾が真ん中から腐り落ちる。
それでもエンデは耐え抜き、そしてその瞳の色は元々持っていなかった銀色へと変わる。
「───その色、───なぜだ、我が言葉よ───」
「……空のエンデは、…………焔のヴァルカンと、朧のアルテナを守るために、先に生まれた。
ので、……だから、それで………私は、ただ」
「───貴様は我が───」
「私は……! 彼らの、姉、だから!」
巨大な赤い十字架を肉塊の腕で握り双剣とし、振りかぶったイフリシア。
大質量が迫る刹那、エンデの身体から燐光が湧き立つ。
今では失われた己の本来の姿が、矜持が騒ぎ立てる。
護るために生まれてきた事を強く自覚したがゆえに、思い出す。
原始の姿を。
「竜退行……!!」
突如戦場に現れた黄金の竜、もといエンデは、その巨体を持ってイフリシアの振るった巨剣を砕く。
大地を駆け、噛み付き、放り投げ、竜の息吹で赤い十字架ごとイフリシアを焼き払う。
誉れ高き竜の姿。
シズクたちもまた、エンデだけに任せきりにすることはなく、手を緩めずに剥き出しになったイフリシアを総攻撃する。
そんな戦場の中心で、ハガネは未だ起き上がることはなかった。
━━━━━
━━━━━
『ちょっと! しっかりしなさいってば!
ねえ! 聴こえてるんでしょ!?』
『ねえってば、バカ人間!!
返事くらいしなさいよ! ねえ!』
………………。
『アンタの力無しでどうやってあの赤いのを倒すの!?
どうせ何か策とかあるんでしょ! ねえってば!!』
………………。
『うぅ……。どうしたらいいのよ……。
誰か……、誰でもいいからバカ人間のこと…………』
………………。
『ふぇ?』
───、─────
『え? 今、誰か……』
………………、…………、………………
『…………嘘、でしょ……?
なんで、アンタがここに……』
『……、…………、…………………………』
『あ、アタシの領域に、……どうやって…………?
いや、それよりも! 今言ったこと、本当なの?』
『……、…………』
『……あ、アタシはどうすれば!?』
『…………に、…………よい、…………』
『……全然わかんないけど、これしかなさそうだし……!
わかった、やってみるから』
『……頼……』
『あ、あとアンタの名前もいい加減登録しておくから!
いつまでも不明通知じゃアタシの情報管理不足みたいだし!』
『…………だが、……確かに…………だな。
……音声……号…………、どれ…………か』
『ふん。あっ、もう始まってるじゃない。
ねえ、アンタならアイツのこと起こせるんじゃないの?』
『……だかな。案外……ガネは…………かもしれ…………。
『……しかし、無茶を……ものだな。
いくら…………は言え、限度…………が……。
『まあいい。
『いつまで寝ている。ハガネ、我の半身よ。
『さっさと起きて、斬ってこい』
「…………………………………………ネメ、シス?」
━━━━━
━━━━━
…………。
あれ、あんなに熱かったのに。
汗すら乾くほど暑かったのに。
涼しい。
誰かのすすり泣きが聴こえる。
ああ、これはセラだ。
昔はちょっとしたことで泣いて、親父さんに呆れられておばさんに慰められていたっけ。
もう一人は……、アルテナ?
地面が揺れてる。
確か俺はイフリシアと戦ってて、それで、あー、腹をぶち抜かれたのか。
死んで意識だけ残ったのか。だからネメシスの声が聴こえたのかな。
『返事をしなさーーーーい!!!』
「……!? ……がはっ、げほっ、う……」
驚いて、あまりにも驚いて息を吹き返してしまった。
アストライア、だよな?
端末の骨伝導モードではなく、スピーカーモードで爆音で鼓膜を貫かれた。
思考が突然クリアになる。
「ハガネ君……!?」
「………………! ハガネ、生きてる……」
なんで生きてるんだ。
と言いたいが、まあそもそも四月からは飯も水も摂らずに生きてるんだから腹に大穴が空いて生きていたとしてもおかしくはない、のか?
いや、おかしい気もするけど。
取り敢えず起き上がって雪禍を抜いて…………、ってあれ?雪禍が出てこない。
なぜ?
『もう抜いておるだろうが』
「…………えっ、ネメシス!?」
幻聴じゃなかったのかよ。
というか今のって俺の首に巻いた端末から音声が流れてなかったか。
悪霊か? アストライアに続いて二人目の。
『細かい話は後だ』
『ほら、それ引き抜いちゃいなさいよ!』
セラの膝から頭を上げる。
身体が軽いような重いような。
なんか胸に違和感が……。
「……あれ、雪禍。そんなとこに、いたのか」
刺さっている。俺のみぞおちに。
誰か刺したわけでもないだろうし。
よく見たら腹部の傷が塞がっている。
いや、それどころか纏っていた狩人装束すら薄氷で補修されている。
「立ち上がれるの、ハガネ君…………?」
「あー、なんでだろうな。平気みたいだ」
怪訝そうな顔をされるのも無理はない。
なんで死にかけてた人間が突然何事もなかったかのように起き上がるのか。
…………うっ、
「あれ……、なんだ、これ」
気分が良いような悪いような。
さっきから何か違和感があったが、段々と酷く、そして善くなってきた。
俺の身体で何が……、
『うーん、まだイマイチ混ざりきってないみたい』
『問題なかろう。どのみち、成らなければ赤は倒せん』
成る? 何に?
なんか、眼が冷たい……。背中も、頭も右手も。
立ち上がってみても一向によくならない。
胸に刺さってる雪禍は抜けないし。
ただ、違和感がすごい。
俺ってこんな形だっけ?
足りなくないか、何か。
『さて、忘れてはおらんだろうな。
この我を、貴様の半身を』
ネメシスが言っている言葉は全くわからない、ものではなかった。
わからない筈なのにわかってしまう。
俺が起き上がったことに気付いたイフリシアが、距離があると言うのに最優先して巨大な十字架を放ってくる。
それが今では、とてもスローに見えた。
狂い銀のネメシスを忘れる?
あれだけ鮮烈で豪快で、目映くて儚くて、何より美しかった竜の姿を?
無理がある。
もし忘れても、思い出せる。
あの威厳ある旋り角も、太古の空を思わせる大翼も、荒々しく光を照り返す爪と牙も。
その全部が白金で、雪を吸って銀に輝くことも。
『意気や善し、ならば我に見せてくれよ。
愛しき貴様の本性を』
爆発的な鼓動で眼が眩む。
ふらふらとたたらを踏みながら、未だ胸に刺さったままの雪禍の柄を両手で握る。
ああ、これって引き抜いてる途中じゃないのか。ようやくわかった。
これは、更に押し込むんだ。
俺の奥に。
人であることを一時的に忘れるために。
まあ、そりゃそうだよな。
罪竜の力の結晶体を取り込んで何もないなんてあり得ない。
体内を流れる銀が俺にある筈の無い憧憬を見せる。
さっき見たばかりだと言うのに、なぜかとても懐かしく思えた。
そうだ、ヴァルカンもエンデもネメシスも。
皆これを言っていた。
折角だから、俺も言ってみよう。
俺には竜の矜持も誇りも無いけれど。
駆け廻って、想い出せ。
「『竜退行』」
またとない狂い銀を、代わりに廻ろう。
━━━━━
━━━━━
空のエンデの姿が黄金の竜から人竜へと戻る。
活動限界に達してなお、その闘志は発生して以来初めてと言っていいほどに燃え上がっていた。
イフリシアの体内では水波シズクの異能、【毒留】による猛毒が滞留し、本体部分に近い肉塊には棺カイエンの異能、【神射】による消えない光の杭が無数に刺さっている。
竜の姿であったエンデによる傷が最も深く、イフリシアも一時は飛ぶことすら叶わないほどに不安定だったにも関わらず、今では徐々に再生を始めている。
そのエネルギー源は倒れた兵士たちと、そして鎖木の植物園が用意した大量の竜もどきの死骸から立ち昇る瘴気によって賄われている。
終わりの見えない戦い。
シズクとカイエンが一時的な撤退を視野に入れ始めたその時、雷が落ちた。
それが鼓動の音だと気付いた者は多くなかった。
遠目にシズクたちが見たのは、腹部を貫かれ致命傷を負った筈の月詠ハガネがよろよろと歩く姿。
その胸には己の武器である筈の白刃が突き立てられており、お世辞にも戦える姿とは思えなかった。
そして、ハガネがまるで自害するように白刃を自分の胸の奥まで刺し貫いた時。
季節外れの霜が降りた。
凍てつく冷気が戦場を満たす。
春過ぎだと言うのに吐く息は白くなり、厚くない狩人装束の上着では誰もが一瞬身震いするほどだった。
ただ、その背筋にもう一度悪寒が走る。
月詠ハガネがいた筈の場所には、人のかたちに近い奇妙な生き物が立っていた。
髪は白金に、瞳は銀に煌めき、雲間から差し込む僅かな太陽光でも十二分に人の目を奪う。
右の肩から先は白金の薄氷に覆われ、指先には凶悪な獣の爪を象っている。
何より目立つのは、その頭部にある天に逆らう旋角。
そして自刃により身体を貫いた刀身が氷結して出来た樹氷に、四つの長さの異なる鞘が下がることで出来上がる異質な翼。
悪魔のそれよりも直接的な殺意を匂わせる薙刀尾。
エンデすらも目を離せなくなるほどの暴力的な何かを秘めたその姿は、この数週間日本国内を騒がせた『人竜』に他ならないものだった。
ただ、シズクもジクウも、カイエンも、それを見て最初に想起したのは竜ではなかった。
「……………………鬼、……?」
猛々しさは無く。
大翼をはためかせるわけでも、灼熱を放つわけでもなく。
ただ静かに立つ姿は、とても竜とは言い難く。
竜の腕で刃紋の入った白刀を握り、音も殺して歩き出せばそれは美しく、そして同時に畏れを振り撒く。
悪魔でも天使でも、神でも竜でもなく。
白金の夜叉がそこにはいた。