89話 赤目の幼女
緑よりも土の色ばかりが目立ってきた杜若大森林。
数キロ離れた観測室予備連携地区ではサイレンが鳴りやまず、しかし当の竜が暴れ狂う戦場に外部からの闖入者は全く来る気配が無かった。
「───aahhh」
「発動:渇涸枯雷」
「獅子壊」
それは単純に、割り込む隙などどこにも無かったから。
闇より深い赤色を纏い、死の限りを天より振り撒く滅んだ筈の罪竜、『褪せ赤のイフリシア』。
その罪竜の遺児にして、混濁した意識の中で苦しみながらも強大な竜の魔法を放ち続ける上位竜、『空のエンデ』。
そしてこの状況を招いた一因を担う最悪の研究者集団の一人、鎖木の植物園その第三管理人、『ダン・エインワット』、並びに第八管理人、『サリエル・シャルシャリオネ』。
単身で魔法武装都市を陥落せしめる力を持った、『一線を超える奇蹟』を持った生物。
大国であれば相応の地位を与え小飼にし、小国であれば英雄として奉るであろう人材。
そんな狩人の中でも最上位に位置する者が揃いも揃って暴れていては、いかに魔法先進国日本の対竜最前線を担う者たちと言えどもおいそれと近付くことは叶わなかった。
そんな化物と言って差し支えない者たちが星を削りながら滅ぼさんとする相手と言えば、それは白金と真白だった。
「ふむ、温いな『赤』よ」
「これが『赤祝書』……。
雪禍で凍まるならただの奇蹟だな」
その二人は初対面だった。
接触自体はかねてよりあったものの、顔を付き合わせて会話するのは今日が初めてなのだ。
にも関わらず、白金の人竜と魔白い鬼の立ち回りは呼吸を同じにするかの如く揃っていた。
白金の人竜、もとい狂い銀のネメシスが右掌から赤い戦斧を引き抜き振るえば食い尽くされた大地から根拠無く新緑が芽吹き、天から魔法や異能を降らせる者たちに向かって伸びる。
その葉先には銀の雫、触れればただでは済まないと誰もがわかる。
天に刃向かうその木々を足場に空を駆けるのは魔白い鬼、月詠ハガネ。
実際には垂直に伸びる木々はあくまで隠れ蓑であり、その足が捉えているのは何もない空中。
大気に満ちた魔力を踏み固めて蹴り飛ばし、白い雪を軌跡として残しながら空を舞う様は流麗とも言えるが、その右手に握った大きな赤銅色の原始弓が全体のバランスを崩している。
空から反生命魔法、『赤祝書』をばら蒔くイフリシアに対して、ネメシスが地上から撃ち込むのは巡生命魔法『銀呪記』。
赤い十字架と菱形の銀の礫はそれぞれが衝突すれば溶け合い消える。
命を摘み取り終わらせるイフリシア、命を芽吹かせ廻らせるネメシス。
二体の竜のぶつかり合いを主軸に複雑に絡み合う戦場。
「ネメシス、十秒くれるか」
「ふむ、容易い」
時間を稼げというハガネの要望にノータイムで応えるネメシス。
空に浮かび上がり、イフリシア、エンデ、ダンの三人と同じ高度にまで達し格好の的となる。
「美しき白金の竜、是非とも解体して研究べてみたいですわ」
「何を企んでいるのです、狂い銀のネメシス」
真っ先にネメシスを追い落とそうとしたのは鎖木の植物園の二人。
巻いた金髪を風に揺らすサリエルは日傘を持たない方の手で第五魔法を。
ダンは手に持つ『オリオンの大鎌』で異能を構える。
空を飛べる竜にとって空中での不利は無い。
だが地を駆けた方が速いのは確かであり、ネメシスは今無防備と言ってもいい状態。
だがその顔に苦さは無い。
「名のある有象無象が二匹。
うむ、悪くない」
「なに?」
「春は芽吹き、嵐を呼び種を散らす。
かくも見事な廻りも、ただ芽吹くのみにては咲かず。
これより穀雨、降る命もあると知れ」
獰猛な笑みを浮かべたネメシス。
己の喉に指を入れ、取り出したるは刀身から何まで蒼い短剣。
「育め、『地昏』」
身を低くして三日月を描くように短剣を振るったネメシス。
その蒼い刀身から放たれた波動は重力に吸われること無く真横に波及する。
最もネメシスに近かったダンが感じたのは熱。
波立つ蒼き熱波動、放ったのは罪竜。
当然喰らうわけにはいかない。
顔無し蛇と呼ばれる竜に似た何かの首を叩き回避を促すも、その細い尾に熱波が掠める。
じゅっ、と音がして、それだけで顔無し蛇の尾の先は無くなっていた。
「……っ!」
自らの尾に起きた異変と、無い筈の痛覚を肉体が訴えた結果、顔無し蛇が大きく空中で身をよじる。
ダンが懐から取り出した注射器を胴体部分に叩き付けるように刺せば大人しくなりはするものの、その挙動は落ち着くことはない。
離れていたエンデは大きく下降することで回避。
赤い十字架で防壁を張ったイフリシアは、しかし壁を貫通して波立つ熱波に少なからず身を焼かれ一瞬怯む。
狂い銀のネメシスが持つ、固有魔法とはまた異なる力。
本来であれば竜を討伐した後に手に入るように設計された天異兵装。
罪竜としての上位権限を強引に行使し、あろうことか己の天異兵装を生きたまま使い倒すという御業によって引き抜いたのがこの一刀だった。
廻る節というネメシスに定められた設定、その一つ。
赤の戦斧、『雨鏖』。
蒼の短剣、『地昏』。
「─────gaaaaa!!」
「こっちを見ろ、イフリシア」
幾万の赤い十字架を背負った褪せ赤のイフリシアがネメシスに突貫しようとした時。
下界から呼ぶ声があった。
イフリシアはそれに対して特にアクションを取ることはない。
聞こえていないのか、無視しているのか、言葉を解さないのか。
取るに足らない相手だと認識しているのかは不明だが、これだけ離れた位置から何が出来るわけでもないとダンやサリエルも警戒するのはハガネの原始弓ばかりだった。
生来ハガネに備わっていた力。
どれだけ鍛えようとも、鍛えれば鍛えるほどに遠退くその力は、ひょんなことから使えるようになっていた。
名称、【夕断】。
ただものを二つに分かつことしか出来ない不器用な異能であり、もたらす結果は大雑把で簡潔。
「全部断て、俺の剣」
研ぎ澄まされたハガネの意識。
限界まで拡張された夕断の両断範囲。
弓を引き絞るように、抜刀する時間を待つように。
ハガネはネメシスが稼いだ時間を、夕断を構えた際に視界に浮かぶ線を真横に引き伸ばすことに当てていた。
足は開かれ、両手はぶらりと下がるハガネの格好。
傷の無い満身創痍にしか見えない構えで、その口は緩く笑みを浮かべ灰色の眼は大きく開かれる。
その悦びは己の底をこじ開けた事から来るもの。
その昂りはこれから起こる分かちを期待してのもの。
無意識に辺り一面を凍結させ、忍び寄っていたイフリシアの眷属である肉塊が無情にも凍る。
ハガネ本人すら使うことを躊躇った異能だが、奇しくもそれは万能でも絶対でもないと教えてくれる相手が現れたことによって、ハガネの枷もまた捨て去られていた。
何処までいけるのか、という振り切った感情で、ハガネはようやくそれを解き放つ。
「【夕断】」
空がずれた。
ネメシスが放った熱波の残滓も、イフリシアが降らせた赤い十字架も、サリエルが待機させていた火球も。
その閃線の延長線上にいたもの全ては、二つに分かたれた。
「…………なっ……!?」
「───!?─────!!」
下からであればその光景はよく見えたが、当の景観の一部である者からすれば反応が遅れるのも無理はないことだった。
イフリシアの胴体は真っ二つに割れる。
サリエルの第五魔法は形成条件を失い陽炎となって霧散する。
斬撃を放つだとか鋼線を飛ばすだとかそんなものではなく、ただ定められた地点を両断するという異能。
晒された側としては理解に及ばず、曲がりなりにもハガネと相対し夕断を身をもって味わっていた筈のダンですらも薄ら笑みを消すほどの衝撃。
まるで絵画に白く細い線を一本引いたように、上と下ではっきりと分かたれてしまったのは褪せ赤のイフリシア。
己の身に起きた異変に一瞬慟哭するも、直ぐ様分かたれた身体のどちらからも赤黒く沸騰する液体を放射し引き合わせ、やがて元の姿へと戻る。
「ちっ、常葉のスライムを思い出すな」
苦笑いをするハガネ。
体勢を立て直すべく退いた鎖木の植物園の二人はイフリシアに近付きすぎた結果赤い十字架を飛ばされている。
「いや、見よハガネ。
『赤』もまた無限ではない」
ハガネのすぐ横に降り立ったネメシスが指し示すように、イフリシアは再生こそすれどこれまでとは少し様相が異なっていた。
分かたれた断面は完全に回復してはいないのか、時折液体を噴出し、堅牢な鎧を形作っていた赤い十字架の数も目減りしている。
「しかし……。狂った力を持っているのだな、貴様は」
「これ一本で食っていく予定だったからな。
今じゃ武蔵坊弁慶並に武装してるけど」
冗談を飛ばしながら笑って見せるハガネに対して、ネメシスは並々ならぬ想いを抱いていた。
空をずらす、などという力は到底人に与えられていいものではない。
ネメシスは知っていた。
『ASTRAL Rain』が定めた異能の内、本来人工知能群が定めた設定を明らかに逸脱した超常がごく稀に存在することを。
それは例えば文言に対しての現実改変の煩雑さが招く予想しない挙動。
何もない所に火を起こす、というのは魔力を炎に変えるだけで務まる。
だが、解釈の仕方が無数にある異能は時折想定していない使われ方をする。
物体を手を触れず移動させる異能は、設定された二つのオブジェクトの相対位置の操作という形質を暴かれて、訓練次第では対象物を基軸として異能の使用者本人が自由な座標移動を可能とするようになったり。
自身の周囲の気候を数時間分予測する異能は、天候以外の第三者的要素が演算に組み込まれていることから、単なる気象予報ではなく、気象庁が出した気象予報と異能の気象予測結果を比較して異常の源泉を割り出すいわば異常予報としての役割を生んでいる。
要は仕様の隙を突いた悪用。
世界の運営者が本来想定した使い方とは異なる効力を発揮することが異能には多々ある。
だが己の権能の四分の一を預けた半身である少年の異能は、どれだけ解釈を広げたところで可能になるものとはネメシスには思えなかった。
「……あ? なんだ、イフリシアの様子が……」
ハガネの大切断によって間が置かれた戦場。
そこで一つの異変。
褪せ赤のイフリシアの肉体の変貌だった。
「……口?」
両腕を放り出し上体を前に倒す体勢で宙に吊られていたイフリシアの肉体が突如として持ち上がる。
腹を貫く赤い十字架、その周囲から牙が生え揃い、口腔を形成する。
「────ヒト、──汝よ」
「…………喋ったか今?」
地響きのような音を言葉として認識するのに時間がかかったせいか、ハガネやダンの反応も遅れる。
だが確かに、これまで呻き声しかあげなかったイフリシアが人の言葉を喋っていた。
「ぐっ、うぅ……!」
「……エンデ?」
あやふやな意識のままにイフリシアを援護していた空のエンデが、イフリシアの声を聞き、また苦しむ。
その身体から立ち上る赤い煙はやがてイフリシアの元へと行き、エンデの顔には脂汗が滲む。
「───理──破らんとするか──」
「生憎だが、貴様は理ではない。
我もな。所詮は理外の摂理でしかない」
ネメシスに断じられたイフリシアだったが、その身体はエンデに向いている。
空中をスライドするように移動し、蠢く肉塊が腕を形作りエンデに伸ばされる。
ハガネが止めようと空を駆け出そうとした刹那、聞き覚えのある声がした。
「ダメよ! アルテナ!?」
「……セラ?」
逃げた筈の朧のアルテナと、風霧セラが、どういうわけか帰ってきていた。
「───『空』──汝──我が言葉──」
「あぁっ! くっ!?」
肉塊の腕についには握られるエンデ。
流れ出す何かを止められず嗚咽を漏らし、ハガネはセラとアルテナの帰還に戸惑いながらもやはりエンデを救出する意思を見せる。
ネメシスの放った銀弾に合わせ迫るも、ダンの放った衝撃波に横槍を入れられる。
「邪魔だ、悪徳商人」
空中で錐揉み回転しながらもハガネの異能は確かにダンの跨がる顔無し蛇を捉え両断する。
そのやり取りの中、今度の異常は別の方向から音をたて始める。
「待って、アルテナ! 行っては駄目!」
セラの制止もむなしく、銀髪赤目の幼女、アルテナがふわりと宙へ浮く。
ぎょっとしたのはハガネであり、ダンの始末を後にしてアルテナの向かう方向へ先回りする。
「どこ行く気だよ、アルテナ。
ここはお前が居ていい場所じゃねえ」
「………………」
眼は開いているものの、その意識はエンデと同じように混濁している。
無防備なハガネの背中に向けてイフリシアがもう一つの腕を作り伸ばす。
受け止めるのはネメシス。その間もアルテナの移動は止まらず、
「………………」
「なっ!?」
ついにはハガネを氷の魔法で攻撃してしまう。
完全に不意を打たれたハガネ。だがその異能は横合いから叩き付けた氷塊を真っ二つにすることに成功し、ダメージを負うことはない。
ネメシスが地面から出した木々でアルテナを絡めとり強引に地に戻し、その隙を狙ったイフリシアの攻撃はセラが異能を付与した魔法で牽制する。
「取り込み始めたか」
「……取り込み? ネメシス、何か知ってるのか」
木の繭に閉じ込められたアルテナを複雑そうな表情で見つめるネメシス。
「空のエンデ、焔のヴァルカン、朧のアルテナは皆イフリシアの遺児だと教えたな。
そして今、『焔』がイフリシアとして再顕現を果たした。
ならば他の遺児はどうなると思う」
その問いにハガネの脳裏に浮かんだのは『継承落ち』という言葉だった。
イフリシアが自分以外のあらゆる生命を否定する以上、イフリシアもまた二つと存在してはならない。
ヴァルカンがイフリシアに成った以上、今行っているのは他の候補者の排除だと思われた。
だが実際には違う。
「奴は分割していた。前回我が滅した際学んだのだろう。
幼体時の場合は強大な単一の存在では限界があると」
「…………言っていた。エンデに、『我が言葉』って」
「肉体は『焔』、怨敵である我を滅ぼすための意思と力だけを与えられたのだろう。
言語は『空』、獣のそれではなく人に限りなく近付けられた理路整然としたものを与えられた。
そして」
アルテナが殻を破るように木々を焼き払い、自身の纏う服を汚しながら出てくる。
虚ろな瞳、だがその色は煌々と『赤く』光っている。
「『朧』は瞳。
滅するべき存在を見定めるべく、その深層意識には『人に近付きたい』と根付かされ。
そしてその姿は人が最も油断するとされる幼年の見目麗しいそれとなる」
「…………い、いや。ちょっと待てよ。
ヴァルカンもエンデもネメシスがその命の魔法で人の姿にしたんだろ……、だからあいつらが血眼になって……!
だったらアルテナは!」
「……『朧』だけは最初からこの姿なのだ」
人になりたい、人を知りたい。無邪気で無垢な少女の想い。
ハガネとセラはその素直さに打たれ、人の世界を見せた。
服を選び、食事を与え、愛した。
赤目の幼女。その字面そのままに、褪せ赤のイフリシアの瞳。
「だから我が共にあった。
その意思が完全にイフリシアのものとなった際に滅ぼすべく」
悠長だとか、甘いだとか。
ハガネには一瞬そんな言葉が浮かんだが、同時にネメシスの灰色の眼を見て音にすることはなかった。
命を愛してしまうという絶望的な形質特性。
ネメシスには殺せなかった。
それこそ自身の最強の権能にして終である『雪禍』を封印する程に、彼女は終わりを嫌っていた。
それを今手にしているハガネには、その想いが痛いほどにわかってしまった。
「……『空』と『朧』を取り込めば、『赤』は完全となる。
命を使いすぎた我にはもう止められん」
廻るがゆえに、滅ぶ。
どこまでも自然的で、竜としては不自然なネメシスに、ハガネはかける言葉を迷った。
だが、迷っただけだ。
「……なら」
「ふむ?」
「なら簡単だな、斬ればいい」
ハガネの瞳が捉えたのはエンデを捉える肉塊の腕。
夕断が幾百と発動し、細切れの肉を生む。
解放されたエンデはよろつきながら墜落するも、衰弱こそすれ命に別状は見られない。
「───刃向かうな──ヒト、月詠ハガネ──」
「随分流暢になったな。
流暢ついでに質問なんだが、お前星に興味ある?」
アルテナの肩にハガネが手を添えれば、魔力の凍結により一時的なイフリシアの支配が幼女の身体から消える。
あくまで一時的ではあるが。
雪禍を見せつけるように抜いてイフリシアに場違いな問いを投げかける。
「───汝、──理解に及ばず──その問い答えるに値せず」
「…………ハッ。よかったよ、安心した」
あの日、アルテナとハガネが初めて出会った日。
最後に見たのは星だった。
なぜ見たのかと言えば、それはアルテナが見たいと言ったからであり、星の名前など当のイフリシアにとってはなんら価値の無いものだった。
それでも見たいとせがみ、忘れたくないと涙無しに泣いたのは全てが彼女の意思だから。
そう勝手にハガネは決めつけて、勝手に昂る。
「───ヒト、月詠ハガネ───命故に──消えよ」
「馬鹿言え。
お前も星座の一つにしてやるよ、褪せ赤のイフリシア」
絶望を知れど歩みを止められないハガネに、イフリシアは僅かに未知の感情を覚えていた。