80話 静かに眠ること
常に世界の受け身に回る。
というのはとても苦痛だし、事実この一ヶ月は振り回されてばかりだった。
怒涛のようにどこかから押し寄せてくる非日常。
色んなものが理不尽に失われて、誰かが作った道の上を勝手に歩かされてる気になる。
学内考査を終えて一息つこうとした折に突然もたらされた二つの報。
正体不明の差出人から『竜境に来い』、そしてもう一つは俺の父親、月詠シドウから『銀を狩ってこい』とそれぞれ俺宛に。
そのどちらもが、おそらくあの銀髪赤目の幼女、アルテナに関する事であり、全くの同時に連絡が届いたということはリアルタイムで状況が目まぐるしく動いていることの証左だ。
また世界に置いていかれる。
誰かの盤上の駒としていいように扱われる。
それが嫌で、俺は今この部屋を訪れていた。
「月詠です」
「うん、いいよ。入って」
第四校舎棟、二階廊下の最奥。
学校関係者であれ立ち入りを許されないその部屋の名前は『執行委員会執務室』。
埋まることの無い五つの席と、豪奢な円卓。
その部屋の主は金髪金眼の幽世の人。
「久しぶりだね、ハガネ」
抑揚の削ぎ落とされた儚げな声。
護国十一家序列一位、音冥家の至宝、音冥ノア。
化け物じみたステータスと正体不明の異能、それから音冥家に伝わる天異兵装、『金弓槍』を以て神すら殺す国内最強の狩人が、俺の目の前の円卓に着いている。
凄まじいボリュームの金髪は流麗ながら所々跳ねており、自分の美に無頓着なのか手入れはしていても決して飾っている感じはない。
「久しぶり、と言う程ではないでしょう、音冥先輩」
「………………」
彼女は座ったまま、立っている俺をじっと見る。
怖い。なんで急に黙ったんだ。
デタラメな美貌ながら触れれば消えてしまいそうな異様な儚さで、つい声をかけるのが躊躇われる。
生まれのお陰かこれまで様々な人間に出会う機会があったが、この人はやはり特別だ。
「ハガネって、結構意地が悪いよね」
「え? いや、そんなことは」
「それとももう一回、私の口から聴きたいのかな」
笑っている。
珍しい、という程ではないにしろ、この人の薄ぼけた表情がはっきりとしていることはそう多くない。
このまま見ていようか。
「ノアって、呼んでよ」
金の眼に吸い込まれる。あるいは俺が吸い込んでいる。
斬り結び合いの最中、敵と眼を合わせてはいけない理由がよくわかる。
「……あー。
…………久しぶりだったもので失念していました」
「やっぱり。久しぶりなんだ」
論破された。
どこまでも浮世離れしていて無軌道な筈なのに、この人はたまに幼い少女のようになる。
狩人社会と日本のためならば実家を貶める事にも何の抵抗もない程の大局観と倫理観の持ち主の癖に、呼び方一つでへそを曲げる。
不思議な人だ。
「それで、どうしたの、今日は」
「お訊きしたいことがあります」
受け身に回るのはもういい。
謀略の根をぶっ叩きに行きたい。
「『銀』、あるいは『シルバー』とは何ですか?」
警察庁公安部の連中は『シルバー』と、親父やヴァルカンたちは『銀』と呼んでいた存在。
同一の存在であることは間違いない。
曰く、世界を滅ぼす力を持っていて、公安の複数部署が捜査にあたっていたり、竜境より西側から出てこなかった竜が人里に降りてまでそれを捜していたりと、騒動の渦中にあるのは確かだ。
「知りたい?」
「知らなければいけないので」
別に知りたくはない。
知らなきゃ困るだけだ。
あの銀髪赤目の幼女、アルテナが一体何者なのかを。
「いいけど、代わりにハガネは何をくれるの?」
「…………そうですね」
タダより高いものはないとは言うが、俺がこの人に与えられるものなんてこの世にあるのか。
地位名誉財産そして力、どれもとんでもない規模で持っている筈だ。
公安が秘匿している情報の深部に釣り合うものと言えば、俺の首とか?
立ったまま考えてみるものの何も思い浮かばない。
「ありませんね」
「そっか。まあ、いいよ」
何がいいのか、この人は急に端末を操作しディスプレイを投影して画面を弄くり始めた。
と、していれば俺の端末に画像ファイルが送られてくる。
開けばそれは空から撮った地上の写真だった。
衛星からのものではなく、高高度からの探査機によるものと思われる。
「一週間くらい前、竜境の観側室が捉えたものだよ」
「…………華、ですか」
花弁があって花軸があって、がくがあって、姿かたちは花である。
疑わしく思わせるのは、その大きさと色だった。
「銀色の地獄華。
命の失われた西側の世界で突然咲いたものだから、皆大慌てだったろうね」
ガラス細工のような硬質感に銀色の絵の具を塗りたくったような見た目、近くの湖のような場所と比較してわかるあり得ない大きさ。
五十年前に発生した竜災によって。もっと正確にはその際に現れた世界に数匹しかいないとされる『罪竜』が一角、『褪せ赤のイフリシア』が放った反生命魔法『赤祝書』によって西日本は命芽吹かぬ死の国となった。
今ではいるのはただ竜ばかり。
そんな場所で突如咲いた銀の巨大な花。
「これ以降、上位の竜が東側で頻繁に目撃されたり、『鎖木の植物園』の管理人たちが動いていたり。
政府はそんな中でやっと、元凶らしき存在を突き止めたんだ」
「それが『シルバー』、ですか」
アルテナは魔法を使えないと言っていた。
嘘をついていたようには見えない。だが本人が知らずの内に使っていたと考えるのは別におかしなことじゃない。
「ノアさん。
一部の竜が人の姿になってしまったことはこの銀の華が影響していると見ていいんでしょうか」
「ああ、そこまで知ってたんだ。
そう。これ以降、人型の竜が目撃されるようになったからね。華が原因だと皆考えてる。
ハガネはもしかして、人型の竜に会ったりしたの?」
「殺し合った仲です。お互いに名を交換しました」
去り際に鋼とだけ認識されたこの間の出来事を想起する。
善い戦いだった。かの『竜退行』後の本来の姿による圧倒的な破壊力、夕断を予見し回避するという前代未聞の察知能力。
地形を変え果ててなお彼らには余力があった。
「そっか、妬けちゃうね」
焔のヴァルカン、空のエンデ。
どちらも並の竜ではなかった。おそらく上位に位置する存在。
二人が追っているのもまたアルテナなのだ。
「今回の一件、政府は公安に解決をほとんど委任してるの」
「確かに政府関係者ではなく公安部の人間とよく会いましたね」
二回尋問されたし。
竜が街を襲う未曾有の大事件(神川町の件は職業狩人のベッドタウンと言うこともあってか簡単な箝口令が敷かれ、大事にはなっていない)、なぜ公安部だけがせっせと働いているのか。
「政府は二つ、実験してるからね」
「…………実験」
「一つは『オクリバナの天迷宮』で出土した霊薬、『神泥』」
「……」
「そしてもう一つ、『トコハの天迷宮』で出土した輝石、『神伏岩』」
四月。突如出現した迷宮に腕利きの狩人が幾人も送り込まれ、そのことごとくが冷たく無機質な地の底で倒れ伏し、地獄と化した天迷宮騒動。
その末路がこれか。
『神泥』は一時的に魔力の循環を活性化させ、本来以上の力を発揮できるようにする悪魔の薬だ。
政府は既にこれで実験している。
最悪なことに斑鳩校の生徒を使って、だ。
そして聞き慣れない方の『神伏岩』。
これはおそらく神泥をばら蒔いた国土防衛省直轄部隊『剣』がトコハの天迷宮の最奥にて発見したものだろう。
ことの成り行きからして霊薬以上に有用で、秘匿する価値があるものと踏んではいたが、間違ってはいなさそうだ。
「政府はこの二つを公安部のどこかの組織に預けた」
「それはどういった意図で?」
「わからない、けど、あまり気持ちの良い考えではなさそうだね」
国を運営し、国を護る、国そのものの組織。
当然巨大すぎるそれは一枚岩などではなく、天迷宮に関してもその拾得物を積極的に軍事転用するかの是非が分かれ派閥が存在している。
俺たち護国が言えた試しではないが、天上の人間の軋轢が下界を割って荒らしているのだ。
「近く、『竜滅』が行われるから。
私はそう思ってる」
これまで幾度となく、この国では西側を取り戻す取り組みが行われてきた。
反生命魔法の除去と、巣食う竜の排除。
これらを以て『竜滅』と呼び、故郷を追われた人々はそこに自分たちの帰る家が無かろうとも、命を賭して竜境にて戦っていると聞く。
この人が言うには今回の竜滅は政府主導のようだ。
ならば無謀な戦などではなく、確かな勝算があってのことだろう。
それが霊薬と輝石なのか。
「これくらいかな、私が知ってるのは」
「ありがとうございました。
何とか目処を立ててみます」
何の目処だよとは自分でも思うが、少なくともこの不可視の劣勢の中でもがく術はありそうだ。
やはりこの人を頼ってよかった。
解放同盟エルシアの一件も、元は音冥家の暴走とは言えこの人の助言が無ければ相当数の被害は出ていたために世話になりっぱなしだ。
礼を尽くしたいが、しかしこの人が求めるものを想像できない。
「ねえ、ハガネ、こっち」
「?」
首でも落とされるのだろうか。
事態が終わった後にしてほしいが、取り敢えず円卓をぐるりと回り近くに寄る。
…………。
?
なんだ、燐光?
この人の近くに来た途端、淡い光の粒が立ち上っては消えるような、気のせいか?
「やっぱり」
その白く細い指で俺の手を取る。
何らかの魔法の兆候かと思ったがそうでもないらしい。
温かい体温が感じられる、というか俺の体温が低すぎるせいではあるが。
指で指を絡めて、その金眼を閉じる。
脇に立つ俺のことなど忘れるように。
「………………」
やはりこの燐光は幻覚じゃない。
そして俺の眼にも見えるということは魔力が何らかの過程を経て変質したものということか。
だが原理がわからない。
俺がこの人に近付けば勝手に周囲から湧き立つとはどういう理屈なのか。
わからないが、取り敢えず少しだけ握られた指で握り返す。
『…………へえ。アンタのそれも、たまには他人の役に立つじゃない』
アストライアの言っていることの意味はわからなかった。
だが、音冥ノアは今とても心地よさそうに寝息を立てている。
安らかと言える程に静かに。
これが礼になるのなら半日ぐらいは付き合っていてもいいかもしれない。
指は絡めたまま、その椅子の足元に胡座をかき、いつの間にか父親から送られてきていた『仕事』の内容を確認する。
一つの鼓動と一つの呼気、その静かすぎる音が落ち着かない。
思い出してしまう、母親のことを。
誰かの手を握っていると、安心するのと同時に不安にもなる。
手を離れた時のことを想像してしまうからか。
アルテナの事が急に心配になってきた。
人に仇なす存在でありながら、人になりたくて俺を見つけて、結局人にはなれなくて姿を消した幼い竜。
俺は何をすることもできなかったし、別にその事を悔いてはいない。
「………………」
ただ、静かにこうやって眠れるような、心落ち着ける場所を見つけてほしい。
俺があの雪の降る地の底、『天淵』に墜ちたように。
音冥ノアが無防備に寝顔を晒せたように。
アルテナも、あの白蛇シースを抱いて、穏やかに暮らしていてほしい。
昇っては消える燐光の中でやっと決心できた。
俺はアルテナに人になってほしくはなくても、静かに生きていてほしい。
だから、斬りに行こう。
コール音三つ。多忙の身ながら、相手は愚息の呼び掛けにすぐに応答してくれた。
『なんだ』
「親父、話したいことがある」
月詠は一人を助けるために十人を斬り百人に迷惑をかけるものだ。
そう例えられて何世紀、ここに来て中々真に迫った表現だと確信できる。
偽善のためにそれ以外の正義全てを叩き斬る。
そんな願いは、あっさりと容認された。




