72話 凹に肩を並べて
今日は雨が降っていた。
四月最後の日だ。ほとんど五月雨と言っていいだろう。
教室の窓に伝う雨垂れを見ながらぼんやりと考える。
この後どうしようか。
どうやら今、俺には公安の監視がついているらしい。
とは言っても複数人態勢で常時徹底的に、というわけではない。
それどころかあっちもこっちもお互いがお互いに気付いていることを知っている。
要はぬるい。
おそらくは護国十一家や守護の一族との摩擦の際のオペレーションがあらかじめ決めてあるのだろう。
現実的な重要度は低くとも、規則は規則のためにそれに従わざるを得なかった結果がこれだ。
お役所仕事にありがちな頑固さだが事の一端は俺にあるためにあんまり悪くいうのも忍びない。
放課後になるやいなやジンやサカキ、シイナといった仲の良い面々は皆委員会にクラブ活動にと早々に行ってしまった。
ちなみに俺は護国十一家とかいう大層な家の生まれのためにそれらに所属することはできない。
執行委員会などというわけのわからない組織に無理矢理ぶち込まれたのだ。
…………。
「何を呆けているの、ハガネ君」
前の席で銀髪が揺れている。
室内灯を受けて眩しいほどに輝くその髪と、美少女なのか美女なのか判断に迷う整った顔。
蒼い眼は俺を捉えている。
射殺すほどに真っ直ぐだ。
「いや、どうせセラも生徒会の仕事なんだろうなって。
俺だけ何もないんだよ、放課後」
皆俺に別れを告げて各々の活動に精を出している。
一人残された気分なのだ。
「今日は何もないけど」
「……珍しいな」
「毎日集まって事務処理をする程この学校は問題だらけではないもの。
『守護』としての仕事の方も、学徒動員するほど風霧家に余裕がないわけではないし」
生徒会の役員は日々学校運営に協力し、他委員会の手の届かない問題や、教官陣の目の届きにくい生徒間の些細ないざこざなどにも眼を光らせていると聞く。
だがまあセラの言うとおり毎日集まるほど面倒ごとが多いわけでもないらしい。
一時的な魔法力、身体能力の強化を促す迷宮産の霊薬、『神泥』の件がイレギュラー過ぎたのだ。
本来学校なんてこれくらい平和で丁度いい。
「なあセラ、この後暇か?」
「ええ」
開いていたディスプレイを閉じ、学校指定の黒い手提げ鞄を持って立ち上がるセラ。
お互い暇さえあれば剣ばかり振っているものだから、二人揃って暇になっても最近はもっぱら『シンゲツ』の道場か獣管理所に出向いて稽古ごとばかりしている。
たまには羽を伸ばして休めるのもいい。
「じゃあケーキでも食いに行くか」
「…………覚えていたのね、珍しい」
四月の頭。
天迷宮騒動でゴタゴタしていたあの辺り。
俺は俺でレベルダウンによって誰にも言えない秘密を一度に幾つもの抱える羽目になっていた時、心配から忠告と警告をくれたセラに『ケーキを奢る』と約束したのだ。
この一見して氷のように冷たい女は甘味好きである。
昔から喧嘩をすれば仲直りの時はいつも甘い物を口にしながら、というのが定番だった。
なぜか俺の口座に謎の臨時収入が入っていた(シンゲツ経由だから多分親父)ために懐は暖まっている。
食事が娯楽以上の意味を持たなくなってしまったこの身体では食費もかからず、武装はどれも手入れの必要がなく、私服も学校指定の狩人装束が動きやすく正直大して持っていない。
安上がりな人間だ。
「なら、『アザレ』にしましょう」
「アザレって、すぐそこのか?」
カフェ『アザレ』。
斑鳩校周辺は学生通りと呼ばれ、大きな道路を挟んで幾つもの出店が並んでいる。
その中の内の一つ、俺が初めてアストライアと会話したあのカフェをセラは指名していた。
しかしあそこは何回かセラやジンと共に訪れている。
テラス席もカウンターも座ったことがあるし、ケーキの類いもそれほどバリエーションがあったとは思えないが。
「行きましょう」
やけに乗り気なセラに連れられ俺も席を立つ。
よくある午後だった。
━━━
四つある校舎棟の南側から外に出れば校舎外周でジャージを着て走り込みをする一団が見られる。
クラブ活動の一貫なのだろう。
汗をかいて足りない酸素に喘ぎながら足を運んでいる。
現代の運動系のクラブ活動というものは前世紀程に重要視されていない。
ステータスというものが設定されてしまっている以上、どれだけセンスがあったとしても俊敏性の数値で劣る相手に勝ることが得てして少ない。
肉体の出力の才能が開きすぎてしまうために、同年代であるということ以外は全てが無差別級のような分類になってしまう。
魔力の補助機能を抜きにした元々の肉体の性能もまた無意味なものに等しく、男女の区分けもまた意味が薄くなり、どれだけ奇蹟に愛されるかがほとんどと言っても過言ではなくなった。
元来のスポーツは身体能力で劣る者が鍛練と経験、精神力で実力差を覆すことが可能であったにしろ、現代ではそんな甘い話ではない。
大人と子供以上の肉体の差が出てしまうことは珍しくなく、そしてこの斑鳩校に集まる生徒というものは際立って優秀な者ばかり。
そうなってしまえば他校との交流試合も組む意味がない。
ステータスで階級分けするという案もあったらしいが流石に通らなかったようだ。
展開円という予兆と証拠が残る魔法と違って、いつ誰が使ったともわからない異能の存在もある。
この時代のスポーツとはあくまで運動不足解消のための娯楽であり、決して本気で勝敗を求める競技競争などではない。
だが、彼らが汗をかき身体を痛め付けていることに意味がないわけではない。
魔力による補助とはあくまで補助に過ぎない。
レベルが上がり俊敏性が上昇したからといって突然宙返りができるようになるかと言われればそんなわけもなく、逆に数値が劣っていようとも足運びや身体操作に淀みがなければ不心得者よりよほど疾く動ける。
「羨ましいの?」
横目に見ていたらセラにそんな事を言われる。
羨ましい? 彼らが?
どうだろう、わからない。
今の俺は足りている。
剣も家族も友人もある。
おまけに夕断という異能に雪禍を初めとする天淵の武装も含めれば、恵まれ過ぎている。
ならこれは憧憬とかではないな。
「……いや、最近走り込みサボってたなって」
昔は体力を付けるためによく斑鳩市南部の河川周りを走っていた。
まあ全力疾走した回数ならばこの一ヶ月は今までの人生の比ではないだろうが。
何せ死にかけてるし、死んだし。
あの頃のトレーニングが今実ったと思うことにしよう。
「そう。なら走って行きましょうか」
「……月詠と風霧が揃って走ってたらどう思うよ」
「一大事でしょうね、国の」
くすくすと口元に手を運び笑うセラ。
こんなにご機嫌なのも珍しい。
日本どころか世界でも珍しい銀色の髪。
それに引けを取らない目鼻立ちの通る美貌。
正された背筋もあって身長以上にプロポーションはよく見える。
これだけ恵まれた容姿ながら、学内でこいつに声をかける人間はそう多くない。
皆、怖いのだろう。
『風霧』家は守護の一族の中でも筆頭と目される選りすぐりの集団だ。
魔法、ステータス、異能。
どれかに片寄るでもなく満遍なく得意とする家風である。
それは決して器用貧乏などではなく、言うなれば器用万能と表する程であり個であろうと群であろうと隙らしい隙はない。
近い将来、護国十一家に参入するであろうとまで言われている。
ちなみに入れ替わりで護国から落ちると言われているのは、言うまでもなく序列最下位の月詠である。
車道のない学生通りを並んで歩いていればとても穏やかに思える。
この四月にあった出来事全てが嘘のようだ。
レベルを失った事も、旧知の間柄の人を喪ったことも。
天迷宮が生んだ天魔や竜と戦ったことも、記憶に新しい筈なのにどこか遠い国の事のようだ。
そんな四月も間も無く終わる。
隣を歩くセラはずっと笑顔だ。
ジンもいれば多分笑ってた。
願わくばこんな平穏がずっと───
「見つけた」
続くわけないか。
学生通りには当然学生以外の通行人もいる。
買い物を楽しむ婦人、呑んだくれた中年、子連れの若い母親。
それから角と尻尾が生えた幼女。
「…………アルテナ」
銀髪赤目、紺色のだぼついたパーカーを着る十歳そこらの見た目。
昨日も会ったのだから、そりゃ今日も会うか。
しかしどこか違和感がある。
…………。
角だ。額の端からそれぞれ生えていた筈の角が片方無くなっている。
公安部の連中に折られでもしたのか?
それで俺に助けを求めて?
いや、こんな街中に来るなんて自殺行為に等しいだろ。
というか今俺には公安の監視が付いてるんだぞ。
なんでだ?
なんで誰も動かない?
「…………ハガネ」
「……?」
「………………お腹空いた」
…………。
竜って腹減るのか?
もう何もかもわからない。
「なら、私たちと一緒に来るかしら」
「…………ん」
セラと俺の間に挟まるアルテナ。
上目使いに袖を引かれてはもうできる抵抗などない。
もう知らん、何も。
出たとこ勝負でどんと来い。
「後でちゃんと説明してもらうから」
「…………はい」
楽しいカフェの時間はこうして始まった。