66話 伝達者
暗い夜道を歩く。
神田市と斑鳩市の境、舗装されたメインロードから離れた旧街道は照明も何もない。
遠くに見える街の明かり、月と星の光、それくらいしか光源がない。
「この辺だよな」
俺は呼び出されている。
誰とも知らない相手に、送信元不明のチャットに従って。
『沖網橋に向かえ』
無視してもいいが、そんな理由もない。
最近は月詠の家から仕事を任されることも減り、妹のセツナに鍛練に誘われることもなくなった。
何もないマンションに帰っても剣を振るうことくらいしか無い。
なら面倒ごとに首を突っ込むしかない。
好奇心は猫を殺すし、退屈は人を殺す。
争乱あってこその平穏だ。
「…………誰もいないな」
竜災の余波を受けてこの沖網橋周辺は打ち捨てられたに等しい状態で放置されている。
もう半世紀も前の出来事であっても、かの『褪せ赤のイフリシア』が遺した反生命魔法の残滓は人の心に染み付いている。
除去が完了したとて穢れた土地を開拓しようと考える人間はいなかったらしい。
下に流れる細い川、周りは手入れされていない雑木林と、仮にも旧都の最盛圏でありながら寂れ具合は地方のそれに似ている。
人など来る筈もない。
あくまで、人は。
「………………ハガネ、遅かった」
挽かれた石を裸足で踏む少女。
端末のライトを点けて顔を確認すればまあ間違えようもない。
銀の髪、赤い眼。
角と尻尾。
「……なあ。お前、追われてるぞ」
「………………?
追われたら、逃げればいい」
そりゃそうだが。
この竜が化けた幼女には危機感とかそういう類いのものは無さそうだ。
ぶかぶかのパーカーを羽織るその手足に傷も汚れも見られない。
あの雷を喰らったとは思っていなかったが、ここまで清廉なのも奇妙だ。
「…………ハガネ、星」
「うん? ああ、星ね」
そう言えば最初に街中で訊ねられた時に星が見たいと言われたんだっけ。
別に星なんて竜なら見放題だと思うが、なぜ俺に頼むのだろう。
というか明らかに俺を狙い撃ちしてないか、この幼女。
「名前、何て言うんだ。お前」
「…………『アルテナ』」
竜には個体名が存在する。
強ければ強いほど、賢ければ賢いほど仰々しい名前になるらしい。
特に竜の王とも称される『罪竜』は二つ名までが個体名になっている。
『重ね翠のエルフ』、『老い紫のベルジーク』、『崩れ橙のランバラル』、『褪せ赤のイフリシア』。
どいつもこいつも世界を破壊し尽くした最悪の連中だ。
何せ連中は獣の比じゃない程に人間への敵対意識を生まれつき持たされている。
天迷宮にいた『天魔』のように憎しみを由来にしているとかそういうわけではなく、竜は特に理由なく人を害する。
この銀髪赤目の幼女も人間を滅ぼすのだろうか。
アルテナと名乗ったこの小さい身体で人を蹂躙するのだろうか。
「…………ん」
「……座れってか」
崩れかけの橋の瓦礫の山を指差される。
こいつが本当に人類の敵ならこんなことをしている場合ではないが、どうにもこの無垢と無防備にあてられて敵意が起こらない。
もしやそれすら計算に入れて幼女に化けているとしたらもうお手上げだ。
指定された席(?)に座ると、俺の横にちょこんとアルテナも座る。
硬い瓦礫だ。何もこんなところで。
そう思ったが、空を見れば少し気分が変わる。
「…………街より、星、見える」
「……そうだな」
人工の光が少ない人に見放された土地だからこそ夜空が綺麗に見える。
魔法黎明期から人は随分と数を減らした。
環境問題も食料問題も予測できる範囲内では一瞬で解決した。
竜に穢されたお陰で、とても星が綺麗に見えるようになった。
皮肉だ。
「…………出てきていいよ」
「……?」
アルテナがパーカーのフードを揺する。
何を匿っていたのかと思えば、現れたのは小さな白蛇だった。
「どうしたんだ、そいつ?」
「…………シースっていう。
……アルテナの家族」
どう見ても普通の蛇だ。
まさか竜にそういった関係意識が存在するとは知らなかったが、この旧都に来るまでに拾ったりでもしたのだろうか。
白蛇の方は随分と大人しい。
アルテナの肩をするすると降りてその膝で止まる。
三十センチもない体躯に白い鱗が敷き詰められており、端末のライトを吸ってキラキラと輝いている。
「…………シースも、見る」
「はいはい」
シースと呼ばれた白蛇はアルテナの手に抱かれ呆けている。
獣でもなさそうだし、本当に在来種の野生なのだろう。
根掘り葉掘り訊くこともなさそうだし、俺も空を見上げる。
見慣れた春の星だ。
上を見上げてる時は大抵何か気乗りしないことがあった時ばかりだから、星を見ると落ち着くのと同時に少し気落ちする。
「…………ハガネ、あれ、名前」
「ん? いや、指差されてもわからないな……」
恐らくどれかの星を指したのだろうが。
端末のディスプレイを投影し、アプリの星座表を開く。
春の星は見つけやすいものが多い。
時節と時間を設定して天体を合わせ、アルテナに見えるように少し画面を移動させる。
「…………これ」
「ああ、スピカか。おとめ座の一等星だな」
画面と空を交互に確認するアルテナ。
竜の視力や空間認識能力がどれ程のものかはわからないが、まあ恐らく人より劣るということはないだろう。
「…………これ」
「それはアルクトゥルス。オレンジでわかりやすいな」
図鑑でも紹介してる気分だ。
星の名前が知りたかったのだろうか。
人に化けて、危険を承知で望んだものがこれ?
当然竜と人では価値判断の基準が違うのだから一概には言えないが。
続けざまに星の名前を訊いては空と見比べ、その表情はどこか楽しげなアルテナ。
この辺りは監視カメラも少ないが、俺に尾行がついている可能性もなくはない。
胸中穏やかに、とはいかないが、こうしていると昔母親に星座を教わった時のことを思い起こさせられる。
『もう、アタシにも見せなさいよ!』
「うわっ……。おい、アストライア、急にスピーカーモードはやめろって」
センチメンタルになりかけていたら電子の妖怪が騒ぎ出した。
こいつも星が見たいのか?
わからない。竜も妖怪も惹き付ける何かがあるのだろうか。
取り敢えず端末を首から外し、メインカメラを天に向ける。
投影角度を調整してディスプレイは俺の前に展開されるようにすれば不便はない。
「…………ハガネ、星飼ってる?」
「こいつは星じゃなくて悪霊だ」
『ふふん! 妖精と呼びなさい、おチビ』
端末に収納されてる奴の方が小さいのでは。
そんな野暮な事は言わないでおくが、何にせよアストライアのせいで少し賑やかな星見の会になった。
落ち込んでいたり塞ぎ混んでいたり、そんな気分で独りで星を見ることがほとんどだったからどうにも新鮮で慣れない。
『ふんふん。あれがこぐま座……。
実物を見てもぜんっぜん熊に見えないわね』
「…………アルテナも、そう思う」
「まあ、そうだよな」
星座なんて遠い昔の誰かが決めた纏まりだし。
ああでもないこうでもないと星を見ながら話しては、段々と動く月を追って身体の角度も変わる。
賑やかな割に静かだ。
心中穏やかでないのに、悪くない。
それにしても、右にアストライア、左にアルテナ。
どちらも明らかに常識の外の存在だが、こうしているとただの少女と幼女だ。
多分こいつらの背景はろくでもなくて、誰かの陰謀で、幸せな結末になることはないかもしれない。
「……ああ、もうこんな時間か」
結局のところ、当局も竜も獣も来ることはなかった。
この幼女を野放しにしておいてもいいと判断したのか、それとも単に捜査が追い付いていないのか。
星を見始めてから早一時間ちょっとだが、静けさは変わらない。
「なあ、アルテナ。お前は星を見にこんな人里まで来たのか?」
何だか山から下ってきた熊にでも語るような語り口になってしまった。
現在日本にいる竜はそのほとんどが本州西部の汚染地帯に生息していると考えられている。
だからこいつも西側から来たのではと思ったが、そういうわけではないのだろうか。
「…………アルテナは、星見たかった。
……でも本当は、違う」
自分の知的好奇心とは別に何か使命があるのか。
こいつが人類を敵視していないことと何か関係があるのか。
「…………ハガネには、教える」
「…………」
星を説いた礼なのだろうか。
まあ何にせよこの不可解な存在が自分で正体を語らってくれることは有り難いが。
「…………準備が、できたって」
「………………何の?」
誰が?
「…………『もう半分』を、取る準備」
「………………」
もう半分とは何を指すのだろう。
この国で失われた『半分』なんてものは、それこそ数えきれないほどある。
魔法事故や名家の対立、侵略国家からの国土攻撃。
魔法が生まれてから百年が経って、世界中が失い続けている。
その中でもこの国が最も失ったものと言えば、
「…………竜、星と月を見て、数えてる。
「…………あとどれだけ満ちれば、また祭が、始まる、……って」
建国以来最大。
失ったものは国土の半分。
人為的なものではない。
だが、竜為的なものではある。
『それって、『竜災』がまた始まるってこと?』
誰もこんな話信じない。
それこそ、話者が竜でもない限り。
「…………竜は、祭だって言ってた」
災じゃない、祭。
竜災ではなく『竜祭』。
だがそんな字面なんてどうでもいいだろう。
どちらにしたって、俺たちは滅ぶらしい。
幼い伝達者は、無邪気に破滅を教えてくれた。