57話 反射反撃
斑鳩市西区、通称『悪魔通り』。
その物々しい名前の由来は決して悪感情から来るものではなく、単に歓楽街として魅力に過ぎるという称賛からのものだ。
誘惑の多いこの場所ではそれだけ規律の意識も高められている。
とりわけ路地裏手前には私服の公安や、守護の一族に由来する警備員が目を光らせており、争おうものなら容赦なく彼らが止めにかかるだろう。
その一角で男は待っていた。
個人の誰でもない、ただ斑鳩校の学生であれば何だっていい。
「…………ふっ」
思わず笑い声が漏れてしまったのは想定よりもずっと早く対象が現れたからだった。
色がぼけた黒髪の、おそらく一学年と思われる斑鳩校指定制服兼狩人装束を着た少年だ。
背は自分と同じくらいの百七十五センチほど、歩き方も素人臭く、警戒も何もない。
この地域は別に学生を排斥していない。
時刻はまだ午後六時前であり、賑わっているのは飲食店ばかりだ。
ただ、こんな場所にわざわざ来るのは普通の学生とは言いがたい。
見ればその少年の纏う魔力は同情するほどに皆無に等しかった。
これは、餌だ。
誰も視ていない路地裏から煙のように立ち現れた男。
客引きの脇をすり抜けて、獲物へとすり寄る。
「ちょっといいかい、学生さん」
「……はい」
振り向いたその眼は少し変わった色をしていた。
灰色というのは日本では珍しい。
だが男にはあまり関係のない話だった。
雑踏の中で並び歩き、会話を進める。
「僕は政府の魔法調査機関に勤める者でね。
今秘密裏に開発を進めている新薬に『適合』する人を探していたんだ」
男は自分の言葉に吹き出しそうになりながらも真面目そのものな表情で喋りを続けた。
魔法の開発も、一般人での臨床試験も国際法に触れている明らかなルール違反だ。
だが学生というものは得てしてこう言ったものに弱い。
特別という名の糸で承認欲求に餓えた心を絡め取ってしまえば正常な判断などできなくなる。
ただでさえ斑鳩校の生徒というのは、名門ゆえの激しい生徒間競争に身を置かれ嫌でも優劣が目につく環境なのだ。
その荒んだ心に塗り込む薬が例え劇毒だったとしたも、一時の快楽に溺れることを恐れない。
「君は特に素質がある。
だから治験に協力してほしいんだ」
三十代中頃といった見た目、爽やかさと誠実さを表に出す容貌は敵がい心を崩していく。
ついに足を止めた少年に、男は手応えを確信していた。
脆い、幼い心だ。
これだから学生は。
そう嘲りつつも、自然な流れで元いた路地裏近くに足を進める。
「これね、『神泥』って言うんだ。
適合する者の眠っている魔力の覚醒を促す薬でね。
万が一効果がなくても身体に害はないから安心してほしい」
『1/8』と書かれたテープを懐の中で剥がし、男は中の見えない小瓶を少年に押し付けるように渡す。
受け取った少年はそれを顔に近付け中身を確認しようとしている。
興味ありと言った風だ。
男は拍子抜けしていた。
『作戦』の第一段階がこうもあっさりと終わるとは。
自分たちの力を低く見積もっていたわけではないが、まさかここまでこの街が堕落していたとは。
あとはこの少年の住所戸籍を押さえて監視員を付けるだけだ。
なんて淡白な、
なんて───
「なるほど、道理でこの厳戒態勢の中好き勝手動けるわけだ」
誰がその言葉を発したのか、男には一瞬わからなかった。
雑踏に音ひしめくこの場所で自分の耳に届き得る声など知れているというのに。
この至近距離でなお、その少年が口にしたのだと理解するのに時間がかかってしまった。
「ずっと疑問だった。今のこの街でなんでわざわざ違法薬物のばら蒔きなんてしてるのか。
各勢力が派閥争いじみた監視と治安維持に努めてるこのタイミングでなんで」
「…………どうしたのかな、急に」
「政府の役人に成り済ますなんて大胆だと思ったが、まさか本当に政府関係者だったなんてな」
おかしい。妙だ。身体の自由が利かない。
男は動かない身体で背中に伝う冷や汗だけを感じていた。
何が起こっている? この子供は何を言っている?
パニックになりかけながらもリスクを承知で魔法を練るが、それすらもうまくいかなかった。
「その『NeXT』は市販品じゃない。
巧妙に偽装されているが、軍関係者に支給される特別端末だ」
「な…………に、を」
「そうだろ。
トコハの天迷宮、-4階から霊薬を持ち出した張本人。
国土防衛省直轄部隊『剣』」
なぜ動かない。
なぜ練れない。
なぜ、これほど冷たい。
それだけ感じて、男の意識は氷点下へと沈んでいった。
━━━
「身柄、押さえました」
『こっちの方は動きナシだ。そいつの持ち物は?』
「『1/8』とラベルの張られた小瓶が二つ。
あとは軍用端末くらいですね」
枝折先輩と通話しながら路地裏にて壁に背を預ける男の持ち物を確認する。
こんな怪しいことをしていれば人の目を引きそうだが、少なくともその道のプロはこの場にはいない筈だ。
なぜならここを任されている男は今目の前で倒れているのだから。
見張りの目を掻い潜って学生に薬を渡していた、そう思い込んでいた。
実態は見張っている奴が犯人だったとは。
男の首から端末を取ったその時、
「着信です」
青い光が三連続で点滅するパターンだ。
『……定時連絡か何かか? 面倒だな。
月詠、お前の好きにしろ』
「出ます」
倒れている男の指を借り指紋認証を突破して応答する。
同時に俺の端末でディスプレイを投影し、片手でキーボードを操作する。
『こちら二番。六番、先ほど著しい体温の低下が見られたが、あれは?』
端末を常時人肌に当てているがゆえの体温管理機能か。
異常があれば他の隊員にもその情報は共有され、前線でのスムーズな作戦遂行を補助する。
国土防衛省直轄部隊らしいありきたりだが有用なギミックだ。
通話先の二番と名乗った声は加工無しの肉声だった。
奪った端末を俺の手首に巻き、口許に近付け、反対の手でディスプレイに文字を打ち込む。
『アストライア、逆探知は可能か?』
『無理ね。そんな機能この端末に備わってないし、あったとしても軍用回線相手じゃ分が悪いわ』
宛が外れたが仕方がない。
今は事態をどう持っていくかを考えなければ。
『六番、何があった? 応答しろ』
急かすように訊いてくる声。
未だに枝折先輩との通話は開いたままだ。
何か俺の事の運びに問題があれば待ったがかかると信じよう。
『アストライア、この端末の通信量を制限することは?』
『それくらいまっかせなさい』
元気でよろしい。
俺の端末と奪った端末を部分同期させる。
俺側の情報セキュリティはほとんど開示させず、逆にあちら側は許されてる全ての情報をさらけ出すよう設定し直す。
電子の悪霊の悪戯。
その効果は目に見えてすぐ現れた。
『──しろ─! ──こち───!!』
酷いノイズだ。
これでよりこちらの状況が混沌としていることの証左になる。
奪った方の端末の通話を切り、無造作にポケットに突っ込んだまま移動を開始する。
『誘き出す気か、月詠』
「ええ。回収した端末のGPSはあえて切っていません。
ただ、素直に付いてくるとも思えませんね」
というか学生二人で国家機関の狩人部隊を相手にするのは無理がある。
戦うシチュエーションになる可能性はあまり高くないと思うが、とにかくこの『無差別実験』とも言える事態を一刻も早く取り止めるよう交渉しなければ話にならない。
『…………おい、月詠。
相手方は知れた。後は斑鳩校上層部にぶん投げる方がいい』
枝折先輩の言うことは尤もだろう。
無理に危険を冒す必要はない。
大人たちに話し合いの場を設けさせて無理矢理丸く収めさせるのが一番冴えたやり方だ。
「なぜ彼らが斑鳩校の生徒を狙ったのか、まだ判然としていません。
当校と、かの『剣』なる部隊あるいはその背後関係にある組織に何かしらの確執がある可能性が高いです」
『………………お上じゃ信用ならないと』
「いえ。ただ、学生相手の方がいらない事も話してくれそうだと」
枝折先輩が待機していた場所はこの歓楽街を見下ろせる高い商業ビルだが、通話の向こうの音からして移動しているのは確かだ。
二人で合流してからポイントに誘い出すか?
いや、不意打ちの意味合いも込めて一人はバックアップに置いておいた方がいい。
「今から西区外れにある稼働停止している資材管理所に向かいます。
通話は繋いだままにしておくので、枝折先輩は後詰めとして何かあったら突入していただければ」
『………………お前、何故そこまでする?』
怪訝そうな声は客観的に見れば確かに自然なものだ。
たかだか十五歳のガキが国家レベルでの陰謀に首を突っ込み身を危険に晒そうとしている。
青臭い正義感、分をわきまえぬ無謀、己を過信した蛮勇。
護国十一家という立場を加味してもそう言った謗りを受けるのは違いない。
だが、俺はそんなものに突き動かされていない。
そんな大人びた考えなど持ち合わせていない。
「ただ許せないだけですよ。
歪みと、それをもたらすものが。
それこそ、何を擲ってでも殺したいほどに」
『…………』
頑張って隠していた感情が少し表に出てしまい新調したばかりの靴の先が少し凍ってしまった。
みっともない感情の動きを見せた恥だけが残り少し気まずい。
「それに、枝折先輩にも試験に集中してほしいですから」
誤魔化すように口から適当な言葉が出る。
俺を憎んでいたにも関わらず頼らざるを得なかったB組の生徒、常磐ジュン。
級友の身を案じ一学年の若輩に頭を下げた生徒会長、郡サナ。
将来の進路を左右する試験前という大事な期間を取り潰されている、枝折カンナ。
そして外法に触れてしまい、おそらくこれから後悔と屈辱に苦しむであろう被害者生徒。
現実に引き戻され、手にした力は露と消え、喪失感と全能感の残滓とのギャップに情緒を破壊されることが運命付けられた彼らを、多分誰もすぐには救えない。
皆、俺が嫌いな顔をしている。
不安げで、哀しみ、取り繕って笑う。
どんな言い分があって彼らにそんな顔をさせているのか、少し興味があったのもこの単騎突入の理由の一つだ。
『…………………………バカすぎる』
全くもって同感だ。
その声が少し笑っていたような気もして、気が楽になったが。
『……相手も同じように部隊を分けて待機させる筈だ。
ど突き合いになったらまず逃げろ。逃げればそれを追うために待機させてた部隊を動かす筈だ』
「それでは囲まれそうですが」
わかりきった質問をぶつけてみた。
こんな問答意味がない。
わかってて、フリというものを投げ掛けてみた。
多方向からの攻撃というものはよく洗練された部隊のものほど効率的だ。
友軍撃ちの心配も一面突破の懸念も想定した訓練を幾度となく行ってきた軍隊というものの包囲陣に隙など本来はない。
その辺の学生狩人二人など、潰されるのを待つ羽虫でしかない。
だが、今は囲まれることへの忌避感は一切湧かなかった。
通話先でくつくつと笑う声が聞こえた。
『ハッ。囲まれたら、───勝ちだろ』
生徒会庶務、枝折カンナ。
どこかで聞いた名だと思って調べれば、それはとある警備会社の冗談のような戦闘概要の保管記録だった。
護国でも守護でもない普通の家庭に生まれて、人と同じように幼少を過ごした少女。
とある事件に巻き込まれた際に開花した一対多の防衛戦における常識外れの能力は、原理は理解されど彼女以外一人として真似することはできない新時代の戦闘領域だった。
所持異能、【魔叩】。
概要、決められたベクトルを持つ非変質魔力の操作。
展開時に魔法行使者が決める筈の攻撃方向を強引にねじ曲げる力であり、半径八メートル以内の自分に向いたまつろわぬ魔力を同時に全て外側へと向ける『反射』を可能とする異能への理解力も相まって、その真価を発揮すれば無敵に近い身となれる究極の初見殺しの一角。
『四方殲滅』
それが彼女の唯一にして最も得意とする戦闘方法であり、彼女の異名でもあった。