45話 悪意を知る
『悪魔』
古今東西問わず宗教あるいは教えに根差す対立的存在の象徴。
あるいは悪徳、不義理を由とする存在やそれに誘う者のたとえ。
トコハの天迷宮内で凄絶とおぼしき状況の渦中で救援部隊が残した言葉。
それが何を意味しているのか現段階ではわかるはずもない。
稼働している天迷宮は何が起こるかわからない。
教典由来の悪魔がいてもおかしくないのだ。
あれ以来シンゲツの通信管制区は別種の慌ただしさを呈している。
聞き流す程度に音声を絞り、市の境を走って越える。
月詠傘下のマンションが常葉寄りの場所に構えていることを除いても、我ながらイカれた速さで走ってきたと思う。
時刻は午後三時前。
決して人通りの少なくない道を蹴り砕くが如く駆け抜けてきたのだから注目を浴びたかもしれない。
「…………大丈夫だ。そう簡単にくたばるわけがない」
共に竹刀を振り、護身術を学んだ人たちが死に瀕しているかもしれない。
そう焦ったところで何が変わるわけでもないとわかってはいても、左手の雪華結晶の紋が手袋の下で冷たく熱を持っていることがわかってしまう。
逸るな。落ち着け。
メインロードから外れた道を走って市街地から離れた旧工業地帯を抜ける。
木よりも高い鉄柵が目に入る頃には家を出てから二十分は経っていた。
大丈夫だ。まだ、間に合う。
彼らは生きている。
封鎖線は敷かれていない。
大事にしたくないのだろう。
あくまで常葉陸型獣管理所の閉鎖理由は環境整備だ。
突如出現した天迷宮に向かった斥候部隊の壊滅を受け、送り出された救援部隊もまたただならぬ状況に置かれているなど拡散したところで誰が得することではない。
通常の管理所の出入り口から大分外れた場所から鉄柵を越え侵入する。
柵上方に仕掛けられた非常警報の類いは鳴らない。導線部を断ったからだ。
木を伝い、あの黒く巨大な螺旋階段が伸びる地下空間を目指す。
道中、と言うほど陸地を歩いてはいないが、人の気配は多くない。
時折上から見掛けるのは青ざめた顔で誰かと通話をする狩人装束の者だけ。
シンゲツの取り付けたカメラの場所は大体把握している。
間隙を縫ってその大きな空洞へ。
トコハの天迷宮侵入口周辺には二人の警備員がいる。
片方は隊服からしてシンゲツのスタッフだが、もう一人はまた別の会社の職業狩人だろう。
梟の如く樹上で息を殺しているが、この時間さえ無駄だ。
「雪禍」
右手で左手の甲をなぞる。
抜いた白刀を軽く握り、カメラの死角から最速で跳躍する。
【夕断】で周囲の木を切断し、さらに【終銀】で天迷宮から漏れ出ている豊富な魔力を凍らせる。
「なんだっ!?」
「て、敵!?」
敵じゃない、が説明している時間もない。
狩人装束のフード部分を深く被り、同様の隙をつき木を蹴った勢いそのまま黒い螺旋階段に頭から突っ込む。
邪魔な手すりと階段の一部を切断し、開けた空洞の中に落下する。
順調だ。良いペースと言っていい。
俺の匂いを嗅ぎ付けた蜘蛛型の獣『ロスト』が天井から次々と落ちてくる。
この階では物音も何も感じられない。
戦闘の跡すら見られない。
この下か。
「急いでるんでな」
遊んでいる場合じゃない。
階下へ降りるためには階層主を討伐しなければならず、更にその後あの螺旋階段を見つけなければならないのが天迷宮のお決まりだ。
そしてそんな悠長なことをしている余裕は今の俺にはどこにもない。
「断ち斬る」
材質不明の超硬度の天迷宮の床。
それを躊躇いなく斬り落とす。
卑怯だとかズルだとかそういう話は後でいくらでも聞ける。
四方を切断した瞬間に思い切り踏み抜いて階下へ落下する。
多分ここだ。
トコハの天迷宮-2階。
「………………っ!」
落ちて最初に目に入ったのは、腕。
獣でも竜でもない。
人の腕だけが転がっていた。
断面は酷く傷付いている。鋭利な刃物で切断したとかではなく、まるで引きちぎったかのような乱暴さだ。
迷宮の赤黒い床に走る金色のパルスの上には血の痕が残っている。まだ新しい。
辺りには隊員たちが身に付けていたであろう機器や装備の破片なども散らばっている。
だが、肝心の人の姿がどこにもない。
無数の四角い部屋を通路が繋ぎ合わせている形状のこの天迷宮だ。
血の痕が点々と残る先を追っていけば必ず彼らはいる。
「まだだ……」
間に合うから。
壁にべっとりと付いた血。
折れた剣。砕かれた盾。
靴。
指。
それらを無視して走った先にあったのは、
嗤い声だった。
「──────────」
笑っている。
人並みの体躯。不格好にも長く肥大化した腕。
短い足。
猿に近い奇妙な生き物が、何かを漁りながら、貪りながら群れている。
「くそッ!」
離れろ。そこから、一秒でも早く。
それ以上彼らを冒涜するな。
「夕断ッ!」
細切れになった不気味な獣を無視して、その足元に積まれた何かを検分する。
手足をもがれた人の死体。
血と熱でまだ温かい。
間に合わなかったという事実が頭の奥を圧迫する。
こいつらがやったのか?
辺りを見舞わせば、ここは異様な一角だった。
床のあちこちに武具が散乱している。
整頓とまではいかないが、剣は剣、盾は盾と区分を分けて揃えて置いてある。
武器庫? 獣の棲みかだろうここは。
黒い体毛に身を包む猿に近い謎の獣はまだいる。
同族がバラバラにされたというのに笑っている。
こいつらは何を笑っているんだ?
何がそんなに面白い。
そもそも、なぜ獣が笑う?
「───!──────!」
下卑た視線が仄かに集まる場所。
別の死体の山に動くものがあった。
獣じゃない。人だ。
「……藤堂さん!」
短い角刈りに額には古傷。
何より腕に着けていたボロボロの赤い隊章が誰かを物語っている。
藤堂シュン、俺が剣を習い始めたころ、シンゲツの剣術道場でいつも世話になっていた人だ。
付き合いで言えば五年ではきかない。
意識は朦朧とし、至るところから出血が見られるが呼気は聴こえる。生きている。
「どけよ!」
斬る。斬り落として斬り捨てて。無数の肉片にする。
こいつらはもがくこの人を見て嗤っていた。
左足の脛から先は強引に千切られたのか、繊維が滅茶苦茶になった断面を曝している。
魔力による形状保存作用が働いているお陰かこれ程の重体でも死には繋がっていない。
ただ、失った血が多すぎる。これではほとんど猶予がない。
特に出血が酷いのはやはり足だ。
縛るか?
……いや、止めるしかない。
「頼む…………、雪禍」
不気味で奇妙な獣に囲まれたこの場所で極限まで集中する。
俺が一歩間違えれば藤堂さんは死ぬ。
ただ俺が臆して何もしなければどのみち助からない。
地面にそっとたえさせた藤堂さんの身体の上で白刀を重ねるように構える。
全神経を注ぐ。
『血を流動させる』という人間本来の機能を魔力が補助している状態では、いくら魔力による修復機能、保全機能が働いても患部からの出血により血は止めどなく無くなっていくばかりだ。
だから凍らせる。足だけを。
その断面部と、それを促す魔力だけを。
最も恐れるのは体温の低下。
狩人装束と更にインナーまで脱いで冷えゆく身体に掛ける。
「【終銀】」
超局所的な異能の行使。
汚ならしい笑い声に意識が削がれるが、構っている場合じゃない。
少しずつ、ほんの僅かにだが確実に傷を凍らせる。
運動停止に伴って、分子へと変質しかけの魔力が絶対零度に包まれ凍結現象が生まれる。
魔力を殺しすぎるな。これはこの人の命そのものだ。
傷を焼くように凍らせて、一刻も早く地上に戻す。
「……………………よし、止まったか」
少し体温が下がった身体を揺らさぬように背に負う。
雪禍は手放せないため口で咥える。
あとは戻るだけ。この悪意の塊のような異様な獣の群がるこの地から一刻も早く離れる。
それで助かるはずだ。
「───咎人を連れてどこへゆく」
頭の中に直接響くような声だった。
そんな筈はない。
なぜならそれは目の前にいるから。
「鬼が人を助けるとは、哀れを通り越して滑稽だな」
赤褐色の肌に麻でできた原始的な服を着た男。
尊大な口調。年頃は三十代くらいで、人種は既存のどれとも読めない。
なんだ、こいつは?
いつ現れたのか。俺の目でも見えないほどに、霧の如く立ち登ったのか?
それ以上に、こいつの腕に走るラインはなんだ?
これでは、まるで、
「…………ッ!」
いや、構ってる暇などどこにもない。
その脇を駆け抜け、上階に繋がる階段を探さなければ。
走れ。ただし揺らすな。背負っているのは命そのものだ。
俺が助ける。
助けなければならない。
「おーい、そこの白い亡霊さん!」
「……!?」
またも赤褐色の肌の、今度は十歳そこらの少年のような見た目をした何かが、駆けていた俺の前に立つ。
「遊んでくれないの? いいじゃん、そんなの置いてさ。
もう死んでるようなもんじゃん」
黙って退け。
夕断でバラす時間すら惜しい。
撥ね飛ばす勢いで素通りして、天迷宮の床を踏み抉る。
どこなんだよあの螺旋階段は。
「……!」
あった。上階へと続く蜘蛛の糸。
まだ藤堂さんは息をしてる。
助かる。助かるから早く。
「もうよいでしょう。魔白き者よ」
赤い髪の女。
肌はやはり赤黒く、腕や足、頬に至るまでに金色の脈動が見られる。
もうわかってしまう。
こいつらは獣じゃない。
そして、人でもない。
「奪った者が奪われて、どこかおかしなところがありますか?」
俺の目でも捉えられない神出鬼没っぷり、体色構造。
何よりこの溢れんばかりの『敵意』。
肌に伝わる怨讐の念。
盗られた物を、取り返しに来たのだろう。
「かの者たちも。
身を削られて、少しは理解できたでしょう。
我らの痛みが、喪失が」
こいつらは天迷宮そのもの。
迷宮の意思だ。