41話 冷たくて寒い
神田総合型獣管理所、中央草原区。
普段は陸型の獣が走り抜ける穏やかな大草原の中心では、泥のような死肉を被る巨躯が二つと清廉なスーツを纏う男が一人、そしてその足元で平伏する泥だらけの狩人装束の男が一人というなんとも異質な光景が広がっていた。
「なあ、頼むよ! 上には俺が後から通しておく!
そいつらを貸してくれ!」
「……困りましたねえ」
草木が焼け落ち死臭の吹き抜けるこの地獄のような場所で余りにも場違いなスーツを着る男、『鎖木の植物園』第三管理人『ダン・エインワット』は言葉とは裏腹に優しく微笑みを浮かべる。
その足に泣きつく男、解放同盟エルシア極東地域常葉支部支部長『棚井 シロウ』は狂気に近い笑みを浮かべ懇願する。
「まだあいつらは管理所入り口にいる!
ここで一網打尽にすれば見せしめは完了するんだ!
だから……!」
ダンの思考を占めるのは金銭含めた損得勘定の天秤の均衡だ。
弱さにつけこまれた弱者以下の愚者の矜持などどうだっていい。
いつだって大切なのは支払能力の有無だ。
そして今足元で泣きつくこの男は知恵も力も無いが扇動の才だけはある。
愚者が束ねた愚者の集団など手駒にする気は毛頭無いが、それでも魔法都市圏であるこの旧都東京、それも斑鳩市の隣で解放同盟エルシアとして機能させていた手腕は中々悪くないものだ。
「まあ、テストの協力の件もありますし、仕方ありませんね。
ただし、少しだけ割増になりますが」
「……! ああ、払う!
だから早く!」
捨てられた犬に餌でも見せびらかしている気分にもなる。
こうも哀れな生き物がいるのかとダンは愉快さに微笑む。
面倒は増えるが稼ぎは潤いデータの収集も捗るため文句はない。
何より、ダンはどこか奇妙な感覚を覚えていた。
魔法の知覚に長けすぎたその身は、まれに表面的な思考の一歩先を進み結論を導き出す。
魔力が伝える世界のうねりや脈動。
普段と異なるそれは異常であることの証左であり、思考が至った結論との齟齬を明瞭にする。
平たく言えば『嫌な予感』ではあるが、漠然としたものではなくダンはこれに何度も命を救われている。
そしてどういうわけか静かなこの草原でそれは予感された。
間も無く様々な鎮圧部隊が飛び込んでくるであろうこの場所に元々長居をするつもりはない。
だがそれ以上にもっと、何かが既にここにはいる。そんな気がするということは、気がするだけではないのだ。
(この国でこんな感覚になるとは。
狼か蛇か、それとも……)
何が出るか興味はあるが、喰われる気は更々無い。
高見の見物を決め込むことも考えたが、イレギュラーを考えれば一刻も早くここを離れるのが最善だろう。
こうして竜災後最悪の魔法開発研究機関と呼ばれた『鎖木の植物園』の管理人の一人はこの場を後にした。
残された男は委譲されたその権能を端末で確認し、大いに歓喜する。
一体で『金』の狩人を圧倒できる力。
それが二つも己が手の中にある。
力を否定するエルシアの教義を説く彼が力に酔い潰れていることを指摘する者はいない。
「これで……、これでやっとあのガキどもを!」
力に長け、希望に満ち溢れたあの顔を見るたびに怒りが湧いた。
自分を踏みにじった者達の顔が重なり、呼吸が早くなり鼓動が耳元まで迫る感覚だ。
そんな思いを今すぐにも振り払う力を手に入れた。
汚ならしい外見に鼻の曲がる異臭。
だがこれこそ正義であり星の敵意。
成す術など無い。蹂躙だ。
「きひっ、あのクソ教師もムカつく御曹司も才能を自分の努力と勘違いした馬鹿同級生も皆皆皆皆、みんなこれで───」
壊れて笑う男の目に、ふと遠くの人影が映った。
人影ではあったが、人ではないとわかった。
それはどうやら、真白い鬼だった。
━━━
「…………逃げきったのか」
その白い髪の少年は空を見上げてそう言った。
灰色の目は青空を映せども晴れることはない。
付帯する魔力が次々と結晶化し、煌めく雪になってその足元に積もっては消える。
「来て正解だったな」
解放同盟エルシア極東地域常葉支部支部長、棚井シロウはこの少年に見覚えがあった。
先ほどまで自分の操るデミドラゴンと相対していた斑鳩校の学生の一人だ。
生意気にも攻撃を避け撹乱し撃破の糸口を掴まれたがゆえによく覚えている。
だが、あの学生はこんな髪色ではなかった。
こんなにも、冷たい眼をしていなかった。
「……は、ハハハ。自分から殺されに来たの……、来たみたいですね」
胸中に張った得体の知れない霜を振り落として、男は声高に叫ぶ。
虚勢ではないと彼は自らの胸中を推察していた。
生意気そうな顔をした生け贄が一人、自分からのこのこと歩いてきたのだ。
決して正体不明の感情など抱いてはいないと、強く意識する。
「まずは腕を焼きましょうか! 次に足!
芋虫のように星にひれ伏して───」
「いいだろ、もう」
少年は辺りを気にしていた。
空を見て、地平を見て、一つ頷いた。
誰かの目を気にしているような素振り。
応援などまだ来ない筈だ。
気を逸る男は何か違和感を感じていた。
それは異変ではあったが、異常とは思えないもの。
世界とはこんなにも鮮明だったのか。
音とはこれ程繊細なものだったのか。
突然クリアになった五感に付随する全能感。
神にもなった気さえした。
これは天啓。
そう思えて仕方がない。
だからこそ、目の前の白い異物が目障りに見えた。
「…………何をさっきからブツブツと」
募る苛立ちを慢心で抑え込み、端末で投影したディスプレイに指示を打ち込む。
こんな雑兵一体相手にしている時間はない。
男は何かに急かされながらも、まるで艦砲射撃の指示でも出すかのように右手を勢いよく突き出す。
気分の良いことこの上なかった。
対して少年は男に右肩を見せるように立った。
竜もどきたちに隠すように右手を左腰にあてがい、何かを引き抜いた。
「…………」
それは白い刀を模したもの。
武器とはとても思えない、雪細工のような儚さ。
男は一瞬目を奪われたのち、理解不能な感情に突き動かされて従えたデミドラゴン二体に攻撃指示を出す。
だが、破壊を引き起こす筈の竜の魔法は不発に終わる。
「……は? なっ……、おい、何をしてる!
あれを早く───」
男の声は途中で止まる。
両脇に砲台の如く揃えていたデミドラゴンは、そのどちらもが止まっていた。
凍って、凍てつき、閉ざされていた。
見れば緑溢れる草原が銀世界に変わりつつある。
幻覚の類いを疑うほどの狂った世界。
そして次の瞬間、静止していた二体のデミドラゴンが上下に寸断された。
「…………あ……、……ぇ? 」
男の脳が理解を拒む。
信徒から巻き上げた金をかき集め闇の底に住む最低最悪の魔法研究機関から買った竜もどきたち。
その力は本物の竜には及ばずとも、生半可な狩人など幾ら居たところで意味を成さないほどには強力無比で、そして従順だ。
そんな最高の玩具はもうどこにもない。
上には上がいる。強きものの前には更に強きものが現れる。
男は狩人として生きてきた人生の中で、そんなことはとうに知っていた。
だが、こんなものが強さだとはとても思えなかった。
あれほど憎んで焦がれた力や強さとは、こんな寒々しく閉ざされてしまったものではない。
絶冬の中で男は笑った。
噛み合わない歯をかちかちと鳴らし、理不尽と無慈悲に震えながら。
どこからか出てきた涙すらも、頬を伝う前に凍っていた。