32話 嘯く
斑鳩市内某所。護国十一家序列一位、音冥家別宅。
少しばかり地価の張る住宅街の一等地に構えたその邸宅は、他の家々と比べてもやはり大きく見える。
門扉を開ければ直ぐに玄関が見え、生体認証とアナログな錠前の二重錠という少し変わった防犯意識もこの家ならではなものだった。
「ただいま」
今日も音冥ノアは誰もいない家へと帰る。
天涯孤独という訳ではなく、単に実家から離れ学業に勤しんでいるというだけ。
両脇の家は音冥の配下の者であり、困りごとがあれば手を叩いて呼べるほどだ。
いくら閑静な高級住宅街とはいえ、名家の息女が独り暮らしというのは世間的には眉をひそめるものがある。ましてやそれが護国十一家ともなれば尚更だ。
だが、彼女に関しては守護者は必要なかった。
最強の名を欲しいままにするその身を護れる者など居はしない。
「…………そろそろかな」
背筋よくソファに掛け、ノアは首に巻いたチョーカー型携帯端末を軽く叩き画面を投影する。
程なくしてコールが掛かり、応答のジェスチャーを指で送る。
相手が誰かなど見る必要もない。
時刻は午後七時丁度。
あり得ない几帳面さは自分には遺伝しなかったなと、ノアは嘆くでも笑うでもなく思った。
『私だ。どうやら今日は出たようだな』
首に巻いた端末からの骨伝導が音を伝える。
声の主は少し不機嫌そうだ。
「この間は立て込んでてね」
『…………まあいい。早速だが本題に入る』
ノアの通話相手は音冥家現当主、すなわち『護国十一家総盟主』である音冥ゼンジ。
音声のみの通話のために顔色は窺えないが、少し枯れた声と平時より細い呼気をノアの感覚は逃さなかった。
十一家における序列、それも一位を保ち続けることは当然容易ではない。
長らく下位に甘んじてきた音冥ならば尚更だ。
今日も今日とて善いことも悪いことも積み重ねて来たのだろう。
『月詠の長男には接触したか?』
「うん」
権謀術数の渦中にいる人間はこうも色んなものに怯えなければならないらしい。
そうノアは思いつつも、まだ十代半ばであった自分の力でのし上がった家なのだから、他家の新芽に過剰に気を配るのも無理ない話かと一人ごちる。
『随分と無警戒な事だ。
かの家の長男。悪い風評ばかり耳に入るがゆえの昼行灯やも考えたが。
家ぐるみで放任放逐とは、どうやら本気で愚物のようだ』
上機嫌に笑う父の声を聞き、ノアは特に顔色を変えることはない。
昔から下が気になって仕方の無い人だったということをよく知っている。
登るよりも落ちないことで生き永らえる人種だ。
『護国落ちが見えている没落家を気に掛けるのは本意ではないが、万が一ということもあろう。
だがまあ、いくら警戒したとしてもお前の異能からは逃れられんだろうが』
自慢の玩具を見せびらかすように語るゼンジの声。
序列の昇格にあたり、音冥ノアが国内外において目覚ましい活躍を果たしたのは、今まで適合者がいなかった音冥に伝わる天異兵器『金弓槍』と、彼女の持つとある異能の力が大きかった。
『視たのだろう?
月詠の長男の全てを?』
【天眼】
それが音冥ノアが持つ唯一にして究極の異能。
通常、他者のステータスを閲覧することは出来ない。
展開されたそれを盗み見ることは出来るが、ステータスや異能と言ったその者の生命線である情報群をみだりに見せびらかす者などいない。
狩人養成所においてもそれは同じであり、やれレベルが上がっただのステータスが上昇しただので報告義務は発生せず、秘匿する権利すら与えられている。
相手の力量を視るだけで解してしまう異能。
音冥の血に連なる者でもノアのその力を知るのはごく限られた一部の幹部のみであり、国土防衛省上層部にすら詳細な開示はしていない。
相手に覚られることなくその命に等しい情報を奪い視る力。
当然、ノアは昼間に出会ったくすんだ灰眼の少年にその異能を向けていた。
「うん、視たよ」
ノアの脳裏に思い起こされるのはあり得ない数字の羅列だった。
ゼロとマイナスが飛び交う壊れたステータスたち。
魔力どころか体力すら完全な無であり、生まれて初めて我が眼を疑った。
その身に宿す異能すらも異質であり、しかし考えが間違っていなければ彼は恐らくあの力を行使出来るのだろう。
それでいて、多分それだけではない。
まだ何かを秘めている、と未来視に近い直感がそう伝えていた。
何よりも信じられなかったのは、末席と言えども護国十一家には違いなく、異常に異常を塗りたくったその身体でなお平然と当然のように世俗に混じり、人として息をしてあまつさえ自分と語らったことにあった。
生まれたときから狂っていたのか、後天的な異常なのか。
何にせよ放っておくにはあまりにも壊れていた。
ゆえに音冥ノアは答える。
序列一位にして最強の守護家系。
狩人の盟主たる父に彼女が伝える言葉はただ一つ。
「微妙な異能と、平凡なステータスだったかな」
音声通話でよかったと、ノアは穏やかな笑みを殺さずソファに深く掛ける。
胸中を占めるのは、昼間に視た色の抜けつつある黒髪と灰の眼。
黄金の瞳は月よりも明るく輝いていた。