恋と愛と腐女子と夢女子
「実はね、私、結婚することになったの!」
「へ?」
芙美子の上ずった声は由愛のスマホを床に落とした。興奮冷めやらぬといった顔の芙美子は今にも踊り出しそうなほどウキウキなのが見て取れる。由愛はスマホにひびが入っていないことを確認しながら、画面を袖で拭いた。
「マジ?」
「大マジ。前に三周年を前にして彼氏が挙動不審って相談したじゃん。アレがさ、プロポーズどうしようって悩んでくれていたみたいで。いつもみたいに土曜日のお泊りしてたら急にプロポーズされちゃって。ほんとドキドキしちゃった」
「じゃあその手にある花束は」
「貰ったの! ちゃんと十二本あるんだよ」
赤い薔薇の花束を抱えて笑う芙美子の顔は輝き、まさしく乙女という表現が服を着ているかのようだった。上気した薔薇色の頬にリップグロスの塗られた肉感的な唇。いつもより瞳は潤み、可憐な乙女の姿をしていた。由愛はそんな芙美子に少し戸惑いを覚えながらも彼女に部屋へ上がるように促す。芙美子が靴を揃えるのを確認してからリビングの扉を開いた。
「どうする? 私としては話を聞きたいんだけど風呂入りたい?」
「ううん、入ってきたから大丈夫。後でにする。私も由愛と話したい」
「わかった。後で花瓶探すからとりあえず薔薇はテーブルにでも置いてよ。とりあえず水持ってくるから」
「ありがと!」
由愛がテーブルに水の入ったマグカップを置き芙美子の隣に座ると、芙美子は待ってましたと言わんばかりに口を開いた。
「あのね、前から付き合ってた彼氏、というか由愛は知ってるよね。ほら三年前くらいに言った婚活パーティーで出来た彼氏。そう、その時書いてたアンソロのネタのために参加したやつ。お見合い・婚活がその時のテーマだったから。そういう経験なかったじゃん。その時にできた彼氏と続いてて、今でも土曜の夜はちょくちょく泊まってたよね。それは置いといて、最近彼がそわそわしててさ、でも浮気してるとかではなかったから静観してたんだけどそしたらプロポーズされたの!」
「うん、それで」
「それでね、私もいいよって返してそうしたらゼクシィを箪笥から出してきてね! 『結婚式する?』って言われたの。するって返したんだ!」
「そう」
「だからね、絶対由愛に新婦友人代表スピーチして欲しくて。二人でゼクシィ読んでるときに思ったの。絶対今日言おうって思ってたから言えて嬉しい。引き受けてくれる?」
「新婦友人代表スピーチ? 私でいいの」
「もちろん。だって由愛は五年くらい一緒に住んでるし、一番の友達だもん」
芙美子は由愛の手を取る。由愛の大きめの手を芙美子の柔らかくて小さな両手で包んだ。由愛はため息を吐くと、芙美子の方へ向き合った。
「いいよ。だって私は芙美子の一番の友達だからね」
「ほんと? 嬉しい」
芙美子はそういうとゼクシィを鞄から取り出した。既に開封済みで、雑誌の何ページかには折り目がついている。二人の膝の上に広げると、そこには大きく「お色直しのドレスは何色がいい?」と書かれていた。
「ね、私お色直しのドレスは由愛に聞こうと思って。前から私に似合う洋服を選ぶのが上手かったから、今回も参考にしたくて。もちろん彼にも聞くけど、どういうのがいいかな?」
「……あのさ、結婚するんだよね」
「そうだよ?」
「じゃあさ、シェアハウスは解消、ってことになるの」
「あ、そうなっちゃうかも」
「……そう。まあでもいつかはこうなるって思ってたから。それだけははっきりさせておきたかった」
「うん、今までありがとう。多分これから引っ越しの話とかすると思う。その時はちゃんと話し合いしよ。で、残り少ないけどこれからもよろしく、お願いします」
「よろしく」
由愛がゼクシィを覗き込むと、その姿を見た芙美子が一緒に覗き込んだ。そのまま二人でああでもない、こうでもないと言いあう時間が由愛にとって幸せでなぜか物悲しかった。夜、ベッドに入ってからも由愛の脳内にはこれからのこと、一人で暮らすことやこの家は一人で住むのに広すぎると思案を巡らせ続けていた。由愛がようやく眠ったときには時計の短い針が三を指し示していた。
由愛が仕事から帰って来た時には既に芙美子が帰ってきていたのか、リビングの電気がついていた。珍しいと由愛が思いながら芙美子の部屋をノックすると、中から「入ってきていいよ」という声が聞こえた。遠慮なく扉を開けると液晶タブレットにかじりついている芙美子の姿が見える。
「ただいま、作業中?」
「おかえり、作業中。今日は通話してないから大丈夫だよ。晩御飯食べたい?」
「いや、今日は要らないんでしょ。だから自分の分だけ買ってきた。てかなんかそんなに詰めるものあったっけ? アンソロはこの前やったって言ってたじゃん」
「あのね、イベントのストーリー更新で推しカプが出てきたの! 今それのおかげで創作意欲が止まらなくて」
「ほどほどにしなよ。この前、一週間毎日深夜ワンドロ参加で体壊してたじゃん」
「大丈夫大丈夫、推しカプの供給でプラマイプラスだから」
「そういう事じゃないんだけど。てか彼氏には腐女子ってこと言ってるの?」
「言ってるよ。って言ってもバラしたのは一年くらい前だけど。だから結婚しても腐女子はやめません!」
「そう、確かに腐女子で結婚してる人、考えてみれば多いんだよね」
「あ~確かに。相互さんでも結婚してるのは大体腐女子の方だよね。あんまり夢女子の人は結婚してるって聞いたことないかも」
「まあわかる。夢女子やってるとどうしてもね。恋愛するならやっぱ二次元の男だわ。てかどうやって現実の男と恋愛すんの?」
「だって私は壁やってるから、現実と二次元は違うし。うーん、説明するのが難しいな。なんていうか二次元だと当事者じゃないから?かな」
「わかんないや」
「私も由愛経由で知る知識が多いから何とも言えないけど夢女子の人の方が恋愛対象は男な事多いし恋愛とかしてそうだけどな」
「そんなわけないじゃん。現実が無理だから二次元で恋愛してるだけだし。確かに恋愛対象は男なんだけどさ」
由愛が苦々しい顔をすると芙美子は苦笑して手元のペンを回した。イラストはほぼ出来上がっているようで、由愛から見える範囲でもほとんど色がついている。
「まあ、だからこそ三次元で恋愛出来る腐女子、てか芙美子は凄いなって思うよ。まあ恋愛は出来ても結婚とか無理。一緒に暮らすとか考えられない」
「うーん、そんなに難しいことじゃないと思うんだけどなあ。多分いつか由愛にもいい人が現れるよ」
「そう」
由愛は吐き捨てるとドアを閉めた。思っていたよりも強い力で閉めてしまったのか、バタンと音が鳴る。言いようのない不快感とこんな不機嫌を芙美子に当てつけてしまったかもしれないと自責の念が夢の中で渦巻き、ドロドロとした感情が腹に溜まっていくようだった。
「婚活うまくいってる?」
「うまくいっているように見える?」
「あんまりかな」
「そうだね、そうだよ」
由愛は窮屈で最悪なパンプスから足を開放した。あまり似合っていないパステルカラーのワンピースを着て出かけるのが苦痛でしょうがない。婚活にはパステルカラーのワンピースだと結婚相談所の人に言われてから着用しているが、由愛は鏡の前に立った時のそれを着た自分が嫌いだった。
「また『俗にいう夢女子ですよね。無理です』って言われたんだけど。わざわざオタクで向こうがオタクでもいいですよって書いているのにむこうはもう大体私のこと腐女子だと思って話しかけてくるんだけど。なにが『オタクってありますけど僕もオタクなんです。女性なので腐女子ですか?』だよ。デリカシーも無ければ夢女子を受け入れる器も無いってこと?」
「あーあー今日も荒れてるね」
「だってさ、芙美子が結婚して出てっちゃうから。私も挑戦してみようかなって思ったんだけど。こんなことばっかりでもう本当にダメそう」
「そんな人、由愛にふさわしくないよ。というか腐女子がオッケーで夢女子がダメって何なんだろうね」
「言われ過ぎて理由は聞いてるんだけど、大体が『自分が一番じゃないと無理。普通に浮気に当たる。腐女子は男同士だからまだ分かるけど夢女子は恋愛対象なんだろ』ってさ。まあ間違っちゃないけど」
「あー浮気。わからなくもないかもしれなくもない」
「こっちは三次元と二次元は別って決めてやってるのに。もうときめきは三次元に抱いてないから現実的に結婚のメリットを享受できる関係になりたいのに大体恋愛感情とか性愛とかそんなのを求めてるやつばっか。もう三十代なんだから恋人じゃなくて家族になってくれる人を探しているだけなのに。あと結婚の話をしたとしてセックスは無理ですっていうと皆お断りされるのも気持ち悪い。なんなの」
「落ち着いて。確かに恋人が欲しい人は多いかもだけど世の中には二次元が嫁とかいってる人もいるしまだマッチングしてないだけだよ」
「そういう人もセックスはしたいとか言い出すんだよね。子供要らないしこれからを支えあっていける……みたいなパートナーが欲しいだけなのに」
由愛はそう言うと、冷蔵庫にあったビールの缶を開け一気に飲み干した。口元から溢れてしまった分が喉を伝う。それに構うことなく缶をシンクに置くと、シンクの縁に手をつくと、隣にいた芙美子が由愛の背中を摩った。その手が優しくて、こんなことで心配かけさせてしまっているという気持ちが更に由愛を苛んだ。
「話変えよ。結婚式の予定は進んでる? 昨日は話し合いだったんでしょ。確かもうドレスとか決まってて確認に行ったんだっけ」
「うん、行ったよ」
「そろそろ本当にここから出てってしまうんだね。なんかもう家族みたいなものだからさ、ちょっとお母さんの気分だよ」
「家族みたいなものだよね。私もこれからはあんまり由愛の料理食べられないのかって思うとちょっとホームシック、かな?みたいな気持ちになるね」
「私も芙美子の料理が好きだから。同じ気持ちだよ」
「ただいまご紹介にあずかりました、春野由愛と申します。百太さん、芙美子さん、並びに両家の皆様本日は誠にご結婚おめでとうございます。僭越ではございますがお祝いの言葉を述べさせていただきます」
由愛のマイクを握る手に力がこもる。スポットライトに焼き殺されてしまうのではないか、突き刺さる視線に刺し殺されてしまうのではないかととりとめのないことが頭を過る。全身から変な汗が出ているのではないかと錯覚してしまいそうだ。
「芙美子さんと私は七年前ほどに料理教室で出会いました。当時から芙美子さんは素敵な人で、昔は料理が下手だった私のことを応援してくれて、いっぱいいっぱいな私の進歩や成長を見守って応援してくれました。人に寄り添うことのできる優しい人なのだと感じました。今でも芙美子さんは変わらず優しく、誰かと笑いあうことのできる料理が上手くて素敵な人です。きっと素敵な家庭を築いていくことと思います。百太さん、芙美子さんのことをよろしくお願いいたします。お二人の末永いお幸せを願い、私のスピーチとさせていただきます」
由愛がスピーチを言い終わる頃には指先の感覚がなく、全身が冷え切っているみたいだと錯覚するほどぎこちなく体が動いた。披露宴の会場は拍手で包まれ、由愛が視線を送った先にいる芙美子は少し涙ぐんでいた。泣きたいのは私の方だ、と突発的に由愛は叫びそうになった。何故かもわからないままマイクを司会者に返し、席に戻る。乾杯の音頭もケーキ入刀もやったはずなのに何も覚えてはいない。あっという間にお色直しだ。芙美子のドレスは彼女のために作られたのではないかと思われるほど似合っていた。芙美子と由愛で選んだそのピンク色のカラードレスに目を奪われてしまう。二人で選んだドレス。芙美子が「由愛はセンスいいから。百太さんも気にいってくれたよ」と言ってくれたドレスだ。由愛の目にはどうしようもなく輝いて見えた。そのまま由愛が呆然としていると、芙美子にスポットライトが当たった。司会者のキンキンとした高い声が聞こえる。
「本日のブーケトスは先程お伝えした通り、贈呈という形になります。新婦から直接渡したいとのことです。では、どうぞ!」
その声に由愛は一気に現実へ引き戻された。芙美子を見ていたのでその目線が由愛に向いていることがわかる。体が鉛のように重いと由愛は感じた。芙美子がピンクのドレスを引きずりながら由愛の席まで歩く。高砂からかなり近いはずなのに、由愛にはその時間が一時間ほどではないのかというほど全てがスローモーションに見えた。
「由愛、どうしてもあなたにブーケを送りたくて。ほら、ブーケを受け取った人は次の花嫁になれるって言うじゃない。だから是非あなたに、って。きっと由愛にもいい人が出来るよ。今までも大切な友達だったし、これからもずっと友達だよ」
芙美子が差し出すブーケが由愛には怖かった。決別の象徴だ、と頭の隅で誰かが叫んでいる。由愛は受け取りたくないと瞬時に思ったが、体が勝手にブーケを手にしていた。芙美子は満面の笑みを浮かべ、漠然と幸せな花嫁の顔だと由愛の思考がはじき出した。きっと芙美子は由愛の婚活を見てきたから由愛がパートナーを欲しがっていると考えているのだろうと由愛は思った。カラカラに乾いた口からは「ありがとう」と思ったよりも大きい声の返事が出た。
そこから由愛の記憶はほぼ無い。気がついたら引き出物のカタログとブーケを抱えて玄関に立っていた。明かりのついていない暗い部屋。帰ってきても誰も「おかえり」と声をかけてくれない。家の中に芙美子の荷物はない。靴箱の半分は空だし、冷蔵庫もスカスカ、誰も居ない一部屋の空きがここには在る。由愛の脳内には芙美子の「きっと由愛にもいい人が出来るよ」という言葉がリフレインしている。由愛にはもういい人が居た。そのことを強く確信した。欲しかったのは家族だった。パートナーだった。いい人は居なくなってしまった。由愛の頭には花嫁衣裳を着た、お色直しのドレスを着た芙美子の姿がある。ずっと一緒に居るものだと思っていた。婚活していたのは花嫁になるためじゃなかった。由愛の体からは力が抜け、今にも倒れそうなのに体は直立している。喪失感で涙が止まらない。泣いたのは何年ぶりか、と由愛は頭の隅で思考した。きっと芙美子にとって由愛は大切な友達だった。でも由愛は芙美子のことをパートナーだと思っていた。現実で家族になるなら芙美子が良かった。「今更気づくなんて、ほんと馬鹿だ」という自嘲が一人では広すぎる家に溶けて消えた。