ブラッド・キュート・アトラクト
…痛い。ものすごく、痛い。
痛みにはそこそこ慣れてるけど、その上で。
頬に、ずきずきと絆創膏の下で痛みを放つ引っ掻き跡。腕にもいくつかあって、首に打撲跡が幾つか。太腿にもまた打撲跡。
…的確に急所を狙ってきてて怖い。
好きでこんな傷まみれになった訳では当然無い。こうなった理由は、ほんの少し遡る…
…
……
『ある事』を教えてもらう。そんな交換条件で、クラスの委員長と勉強をしていた。
彼女は、とても真面目で成績優秀なのだが、ここ1週間程、高熱で学校を休み、そしてその分の授業内容がわからなくて困っていた。
俺はそんな様子を目ざとく見つけて、話し掛ける。それはただ善意だけでなく、ある打算があった故のもの。彼女なら、今俺が知りたいものの情報を知る事が出来るのでは、と。
交換条件を提示すると、その委員長は二つ返事で承諾してくれた。
曰く、得しか無いからOKだと。
そうしてノートを見せ、これがどうとか。教えていた時の事だった。
色々と話しながら勉強をしていた時。机を並べてそれについては、なんて少し楽しくなりながら物を教えていた、そんな時。
ぞっと、背中に突き刺さるような痛みを感じた気がした。勿論気のせいではあったのだが、即物的な苦痛を感じると勘違いするような程の視線だった事に変わりはない。
驚いて振り向くが、そこには誰も居なかった。
『……今、後ろに悪霊居た?』
トンチンカンな発言をして、委員長から怪訝そうな目を向けられるのも仕方がないと思うくらいには、その視線から恐怖を感じたんだ。
しかしまあ、その場は、いいやと流して。範囲を教え終えて、代わりに委員長から『情報』を教えてもらってから、解散。
その後に逢いに行った、シドの第一声。
そして、その明らかににこやかすぎる笑顔で、俺は失敗を悟った。
『やあ。どうも、悪霊だよ』
……いっそ、本当に悪霊だった方が良かった。
あの時より青褪める感触は、人生において無かったんじゃないだろうか。一度二度、命に関わる大怪我をした時はこれくらいになったかもしれない。
『まったく。
随分お楽しみだったようじゃないか。
まるで発情期のイヌのようだったよ』
『うんうん、楽しそうだった。いい笑顔だったよ。彼女はボクと違って優しいもんね。顔も結構良い方じゃないかな。スタイルも?ハハ、悪くはないよねえ』
『…どうしたの?そこまで縮こまらなくてもいいじゃないか。まずい事をしたと思えるような知能があるなら、あんな事をしないだろうに』
明確にキレていた。
言葉で表すのすら難しい程、ぷつんと。
そもそもが沸点が意外と低いシドだが、この時はそういうキレとは、また程度が異なった。
あれはただ勉強を教えてただけで…そんな風におろおろと、言い訳をしたが逆効果。火に油どころかガソリンをぶち撒けてしまうような結果となり、最終的には手が飛んできた。
終いには、これだ。
『もう知るか、この浮気者!
勝手にやってろッ!』
早歩きで去ろうとする姿を後ろから掴んで止めようとした。が、その暴れ方と言ったらなんの。青タンだらけ、皮膚が何箇所か剥がされ、男性機能はあわや潰れる所だった。的確に急所を狙ってくるんだ、本気の殺意を感じた。
そんなこんなで、今俺は彼女の家の前に来ている。簡単に、俗っぽく言うと機嫌取り。そしてうまく言えなかった言い訳の続き。
何より渡さないといけないものがあったから。
これより更に痛めつけられたらと正直ハラハラする気持ちもありながら、インターホンを押す…
…
……
「あぁムカつく、ムカつく、ムカつく!」
心の中のみで収まらず、誰に言うでも無く連呼しながら部屋に転がり込む。
感情をコントロール出来ず、手に持った荷物を衝動のままに叩き付け、寝台に倒れ込む。
その状態でも目を閉じると苛つく光景が脳裏に浮かんで来て、枕に爪を突き立てる。
羽毛がぐずり、と中身からまろび出た。
(クソ。嫌いだ、あんな男)
楽しそうに笑いながら机を横に並べる姿。ところ構わず、女に笑顔を振り撒く優しさという名の無責任。クソったれの、責任を放棄した、誰の事も考えてないあの微笑み、背中。
ボクだってあんな事、まだした事無いのに。
あれを思うだけで全身が煮え立つ。
ぎり、と歯軋りの音が無意識に口から鳴る。
ボクだって鬼じゃあない。
きっかりと、否定をすればボクは許すつもりだったんだ。ちゃんと、不用心な行動だっただの、もう二度としないだの、素直に言えば。
だのに。
『違、あれはただ勉強を教えてただけなんだ。教えてたのも理由が…!』
あんな中途半端に、言い訳がましい態度を取りやがって。そこまでしてボクを煙に撒きたいか。
実際の発言内容よりも、その、何か隠しておきたいと言わんばかりの態度が一番気に食わなかった。そんなにあの女が良いのか。あんな、ただ真面目なだけのつまらない愚物が。
ずぼり。
枕に穴が空いた。それでようやく正気に戻り、やってしまったと口を抑える。ああ、お気に入りだったのにな。
「クソ、全部あいつのせいだ。全部」
そう言い、ふと自分の指を、爪を見る。
暴れ、爪の間に挟まった赤黒い皮膚の断片。彼の腕の表層が詰まっていた。
それを歯で噛み取る。口に血の味が広がる。
そうだ、全部古賀くんのせい。
それはそうなのだが。
それはそれとして、不安になる。
だいぶ、手酷いことを言った気がする。
かなり、手酷い傷を負わせた気がする。
ボクは勉学も運動も全くもって完璧だ。
だからつまり力も普通の女子以上には当然あるし、格闘技とかも習わされた。
だから、その…それで全く、加減しなかったのはかなり不味かったかもしれない。と、血味を感じ取って、初めて思った。
「………フン、知ったことか、あんな奴!
これも全部あっちが悪いんだからな」
急に心に広がり始めた不安を誤魔化すようにそう口にする。だが、そんな程度で掻き消えるようなものでは当然、無い。
……このままじゃ、こんな事をしてばかりだと、いつか愛想を尽かされるんじゃないかと、思っている。
彼から受け止めてくれるという、無責任な信頼もいつまで保つかわかったものではないと、そう感じてはいる。
優しい委員長に靡いている事が悔しいなら、ボクも優しくなって彼を包み込んでやればいいじゃないか。それくらい、ボクなら出来る。何故なら完璧だから。それくらい、何度もやったことがあるから。
その上で、だから。
憤って、忿懣やる方ない。
何故ボクという者が居ながらああまで近くに話す。ボク以外の女生徒に顔を近づけるな。笑いかけるな。ドのつく阿保。バカなんじゃないかあの男。違う、バカそのものだ。それくらいなら、ボクがやれるのに。
きん、こん。
ボクの部屋への来客を知らせる音が鳴る。
穴が空いた枕に埋めていた顔を上げる。
少し、早歩きをして。
そのインターホンの先を見る。
カメラに写る人影は、莫迦らしく大きい。
案の定、目の前にはあのクソバカ男が居た。
「……帰ってくれ」
それだけを言って、鍵を閉める。
彼はボクの部屋の合鍵は持っている筈だけど、ドアを開けようとする気配は見られなかった。
代わりに、電話がかかってくる。
それに、嬉しくなる自分が嫌だった。まるでボクが、そうされる事を期待していたみたいで。
ふん、と鼻を鳴らして、コールを何度も、何度も待たせてからようやく電話に出る。
「…もしもし、ビデオ通話にしていいか」
「ハッ、どうぞご自由に」
そうして彼のビデオに映ったのは、頬に2つほど青痣が出来、頬の絆創膏の下からまだ少し血が滲んだ痛々しい姿。それを見て、どきりと、ほんの少し残った良心が軋む音が聞こえた気がした。
それから、必死に耳を塞ぎながら。
「……謝りはしないよ」
「ああ、謝るのは俺であるべきだからな」
そう、和やかに話す姿に、また心がずきんと痛んだ。
相当に全身が痛むだろうに、全くもってボクに対しての憎悪やら怒りが感じられないのは、むしろ逆に心苦しくて居心地が悪い。
「…その優しい態度を誰にでも撒き散らす節操無しの色情魔が、何の用?性格も悪い、癇癪も酷い女なんぞ放っておいて、さっきの子と逢瀬を続けたらどうだい。ボクなんぞとは違う、キミに見合った優しい子とね」
「断る。俺はお前じゃないとダメだから。
…用事はさっき出来なかった言い訳と、ご機嫌取りだ。いいかな」
ああ、クソ。優しい他人に嫉妬するくらいなら、もっとちゃんとボクが優しくすればいいのに。その言い訳と機嫌取りを、ちゃんと受け入れてやればいいのに。
そんなのわかってる。
出来るつもりだった。
だけどそれでも、他の人に笑いかけてる姿を思い出すと、苛々してそれが出来なくなる。
「……」
「…いい、ってコトで良いかな。
それならまず言い訳から」
「…俺は交換条件で彼女に勉強を教えててさ。勉強の代わりに教えて貰うのは、『生徒会長が欲しがってた物』について」
どきり、と、身体が高鳴った。
ああ、ボクは頭が良いから。ただその一言だけで全てがどういうことなのか分かった。
いいや、違うね。本当に聡明ならば、こんなに彼を痛めつける前に分かっていたろうに。
そうだ、ボクは分かってた筈だ。
彼がボクを裏切る筈なんて、有り得ないなんて、1+1よりも簡単な数式を。
ああ、嫉妬とは恐ろしい。いつもなら秒も掛からずに出る答えすらが、全く出なくなってしまうほど、視野が狭まってしまうんだから…
「………もういい」
「ま、待ってくれ!それで俺は」
「もう十分だよ。それで、プレゼントを渡してご機嫌取りをと思ったんだろう」
「!…映してすらねえのに…」
奥の手も見透かされた、というように、画面越しにすら青ざめていく姿を見て取れる。それを見て、ようやく、自分の口角が上がった。
通話を切る。
そしてそのまま携帯を放り出した。
扉の鍵を開けて、ドアを蹴り開けた。行儀が悪く、母様が見たら卒倒するかも。フフ。
万策尽きた、と言うように絶望して座り込んでいた大男の背中を、不意打ち気味にどんと押す。古賀クンは全く気付いて無かったそれを受けて、うわ!と声を上げながら前のめりに倒れた。
「痛ッ…って、シド!?」
「プレゼントの中身は…
…ハッ。ハンカチかい。馬鹿だな。
そんなの、ボクが喜ぶワケないだろう」
喜ぶわけが無い、とそう言うと、沈痛な趣きで顔を逸らす古賀クン。
本当に、バカ。大バカだ。
こんなので喜ぶわけがない。
こんなので、幸せになるわけがない。
もっともっと、大きい贈り物を毎日毎日貰っているんだ、こんな程度で喜ぶもんか。
頬の絆創膏を無理矢理剥がし取った。
そしてまた流れてきた血を舐めとるように、頬の傷にキスをする。じっくりと、謝罪も、懺悔も、愛も全てを込めて。
「……本当に、馬鹿。
プレゼントなんて、要らないのに」
「……ボクにとっての幸せは、キミがずっと一緒にいてくれる、それだけなんだから…」
そうだ。ボクにはもう他に、何かを好きになるような愛は要らない。
モノも要らない。何も要らない。
キミが居れば、ただただそれで良いんだ。
ずっとボクだけを見てくれる。
それが、唯一にして最大で、最期まで独占する、最上の贈り物なんだから…
…
……
「……ごめんねえ。
本当に、痛いだろうに」
「いや、まあ…正直どこもかしこもめっちゃ痛いけど、うん」
珍しく反省したようなシドに傷をそっと撫でられて、それぞれに優しく口付けをされながら、そっと抱き合う。
その感触は妙にくすぐったく、なんというか…
……少し、危うい気持ちになってきそうになる。
「…本当に、あの女とは何にもないんだよね」
それを咎めるように、ぎろりと此方を睨んでくるシド。本当に違うんだけどな…
と、云うより。もっと論理的にそうじゃないと言ったほうが、彼女にはいいのかもしれない。
「大丈夫だって言ってるのに」
「…どうして言い切れるのさ」
「いや、本当に簡単なことだよ。
変に思わなかったか?俺が、わざわざ委員長にお前のプレゼント聞きに行ったの」
「……まさか」
「そう。委員長もお前のファンだよ」
そう言うと、シドはさっきまでの愛撫すら止めて、天を仰いでから頭を抱えた。どうしてそんな単純な事も分からなかったんだろう、と今にも言いそうな程に。
「………はぁーっ、なるほど。
なるほどなあ………」
「なんだかなあ…これまでは実的被害とかは無かったから全然良かったけど…」
「…今度からファンクラブに圧力かけておこうかなぁ…」
「お、おいおい…」
だいぶ、だいぶ本気の剣幕でぼそりとそう呟くシドの姿に、俺はただ苦笑いをしながら呟くことしか出来なかった。




