残暑
記録的な酷暑だった。
夏が暑いのは当たり前だが、その日はそれに輪をかけて酷く、冷房は最早快適に過ごす為の娯楽品から生命維持装置に変わっていた。
大学生となり、一人暮らしになって。
安い場所でいいと思っていたその考えは、今になって大失敗であったと解る。
長い事調子が悪かったが、遂に黒煙を吹き(さすがに比喩表現だが)壊れてしまったクーラー。扇風機では余りにも力不足と音を上げ、彼は友達の家へと避難をする事に決めた。
咄嗟に頭に浮かんだ人物が、一人。携帯電話でアポを取り、すぐに向かう事にした。
ロクなものでは無いと思っていたこの暑さだが、彼女に会う口実になってくれたのは彼にとっては嬉しい誤算だった。
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大柄な青年は、決して長くはない筈の道のりを道路を水浸しにしながら歩く。
(日傘くらい持ってくるんだったかな)
一度そう考え、小洒落た傘を持った自分を想像して笑った。似合わなすぎるだろう、と。きっと彼女もそれを見たら笑うだろう。あの小さい口元で、困ったように、嬉しそうに。
ああ、そういえば前に借りた傘を返すのを忘れていた。まあ直ぐに会うだろうし良いか。
そう思いながら進んでいた足は、いつのまにか永遠にも思えた道程を終えてくれていた。
彼女の事を思うと時間がすぐに過ぎる。そして、それに気付くくらい彼女を想っている事に気付いたのはごく最近。
軽く頭を振り、思考をリセットする。
そしてインターフォンを押す。少ししてフォンからくぐもった音が聴こえてくる。
『いらっしゃ…うわぁ凄い汗。
そんな汗かきでもないのに…』
「ああ。って事で早く涼ませてくれ…
そろそろ限界な気がすんだ…」
『あー…その、それが…』
「…?」
声は、水が煮立ちそうな気温とは裏腹に、やけに煮え切らない態度をとる。
それを怪訝に思いながら青年は扉を開けた。
…
……
「はい、氷」
「おお、サンキュ。
…しかし『まさか』すぎるな」
「ね。僕もびっくりで…だよ」
そう話す少女は半袖を更に少しだけまくっている(「形振り構っていられません!」だそうだ)。
そして窓近くの縁側で足をバケツに入れた冷水に浸している状態だ。青年も首筋に氷を当て、彼女の横に並び、そうしている。
「『まさか』このタイミングでひさめの家のクーラーまで壊れるか、普通?」
「はは…そんな奇跡いらないのにね、全く」
そう、それは正に負の奇跡。あってはならない確率。彼が連絡を取ったその直後、彼女…村時雨ひさめの家クーラーは何をどうしても動かなくなってしまったのだ。
結局そこからまた別の家に避難する気力すら残っていない青年…古賀集の提案により、二人で全力で涼む事になっていた。
幸い風通しの悪い古賀のアパートとは異なり窓を開ければ風は通り、ある程度の納涼は期待できた。だが、何しろ暑い。単純に、且つどうしようもなく。小細工ではどうしようもないくらいには。
「ほんっとうに暑いね。結構寒がりの筈なんだけど、これは流石に参っちゃうな…」
大学生となって、それぞれ別の学校に行った今となっては先輩後輩の関係ではない。だから互いに敬語はやめようと言った時期は、今年の春の事だった。意識して、普通の口調にしようとしているようだが、今でもふとした時に敬語が出てしまうようでもある。
ただそれでも、それまでとは違うような彼女の口調は、これまでより深く彼女を知れているようで、凄く嬉しいものだ。
「…俺は尚更キツイ。元々暑いのは色々あって嫌いな上に、それに…」
「太陽に近いから?」
「正解」
フフっと、ひさめが笑う。
それを見て、古賀も満足げに微笑む。
ふと、彼の視線が彼女に留まる。
彼女のうなじを走る汗粒が目を惹いた。
その汗粒は首筋を、鎖骨を通り、そしてそのまま重力に従って…
「あ、そういえば」
「うわぁっ!な、何だ!?」
「ど、どうしたんです?そんなに驚いて…
そういえばアイスがあと少しだけあったなって思って」
「そ、そうか…」
「…?まあいいや、折角だし取ってくるね」
ひさめはそう言うと傍のタオルで足を拭き、とてとてと冷蔵庫の方へと歩いていった。
青年はその動作から歩き去る背中までをぼーっと、しかし、じっと見ていた。
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「あひゅい」
アイスを舐めながら、空気の抜けた変な発音で少女が言う。
「フフっ」
「あ、笑ったなー。別に言いたくて今みたいに言ったわけじゃないのに」
「いやゴメン、でもついさ…ははは、ひさめはちょくちょく変な事言うよな」
「む、何でふか、変なことって…
ああダメだ、怒ると余計暑い」
「悪い悪い。
怒らせるつもりじゃなかったんだけどな」
「尚更悪いよ、それ」
脱力したように、ため息混じりにそう言う。
それを聞き、また古賀は少し笑う。
今度は視線を向けなかった。何か、変な気持ちが起こってしまいそうだったから。
まったく…とぶつぶつ独り言ちる少女の声を横に聞き、古賀は変な緊張感に囚われる。
「そういえばさ。前も暑い日に古賀くんと一緒に居たよね」
それを知らずして、ひさめはふと新しい話題を口に出す。
「いつだっけ?」
緊張と暑さで頭が働かない古賀は、それを生返事で返す。
「ほら少し前。そっちの家に行った時でさ、間違って僕がお酒、を…」
「…あ…」
ひさめはそこまで何気なく語り、そして消え入るようにして黙る。
…あの日の出来事は二人の間で軽いタブーになっていた。口にそう出した訳ではないが、暗黙の了解でそうなっていた。
少女も青年も、押し黙る。
気まずさよりも。
互いにその日を思い出しているのだ。
あの日の暑さ。あの日の痴態。あの日の激情。その全てを。
あの日の残暑が彼らを欲望の彼方へ追いやろうとしていた。
その場を沈黙が支配する。暑さと欲に当てられた、じりじりとした沈黙が。
その頬が赤らんでいたのは暑さ故のものだったか、それとも。
…どれほど経ったか。アイスが溶けていなかったのでそれ程長くは無かったのだろう。
どちらが動いたか。それはあまり重要な事では無い。結果として行動がそこにあったという事に変わりはないから。
彼らはキスをした。
片方は驚いたが、それを拒絶する事も無かった。驚愕は歓喜へ、歓喜は更なる情欲へ。情欲は、その口づけに極めて受容的にさせた。
そのキスを契機に、言葉は必要無くなった。
言葉は人間に与えられ、人間が用いるもの。
ここにいる獣たちには、必要が無かった。
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無言だった。
今度の無言は気まずさや、それに随する感情に依るもの。
縁に放置してしまったアイスは溶け、その溶けた液体すらも蒸発していた。
時計はまあまあ遅い時間を指してはいた。が、夏は日が長い。燦々たる太陽は未だ恐ろしい程の熱を放っていた。
「…汗だくになっちまったな」
「そう、ですね」
汗で互いの身体は酷くベタつく。疲労感でろくすっぽ動く事も出来ないままに、そう呟く。何とか会話を行おうとしての言葉。
「…大丈夫か?その、泣いてたけど」
「え?あ、うん。もの凄く痛かったけど」
「……」
「…けだもの」
「うっ」
「冗談、冗談。泣いたのはその…
痛みからじゃないですから」
「…ならいいんだが」
バツが悪そうに頭を掻く古賀を、今度はひさめが笑う。いつもの困ったような笑みではなく、イタズラに、上機嫌に。
「それじゃあ、どうしよっか。
…っていってもとりあえず…」
「あー…色々流さないとな」
「…だね」
そう言って漸く立ち上がる。
そして一言、少女が話す。
「ねえ」
「ん?」
「明日…また、来ます?」
「…ああ、行く」
「……そっか」
…
……
…その後は、何も無い。事は既に起きたのだから。
ただ仕切り直して日が暮れるまで涼み、帰宅した。それだけだ。
その何日か後。
土砂降りの雨が降った。
それは夏の日の暑さすら流し去り、それまでが嘘のような涼しさをもたらした。
その日。その年の夏は終わった。
それでも、この夏の日は彼らの胸を焦がし続ける。焦がし、焦がれる。
彼らには永劫、この日の暑さが残り続ける。




