誘蛾灯
─アンタなんか生まれて来なきゃよかった
それは、両親のどっちが言ったのだったか。
口調的に母親だったろうか。
昔の事だ。鮮明には覚えてない。
でもそれなら、言われた事自体忘れてくれればよかったのに。
自分の不都合な脳が嫌になる。
自分が誰からも望まれていない命だということを知った。
生まれてくるべきではなかったんだ。産んだ張本人が言うのならば、きっとそうなのだ。
人生をただ、人らしく。普通人のようにありたいというその願いは周囲の否定が邪魔をする。
この顔がいけないのか。
この顔も含め『僕』そのものが普通人として生きようなんておこがましいのか。
いつか、蝶のようと言われたこの容姿すら邪魔にしかならないのか。
ならもう、それでいい。
きっとこれは、この世に生まれたという消えない罪に似合う罰なのかもしれない。
納得なんて出来ない。それでもただ諦めた。
世界はこんなにも仄暗い。僕が照らされる事なんて、無い。スポットライトは全てに恵まれた者のみが当てられるもの。だから愛の貧者はただそれを羨むのみ。
自惚れるな。調子に乗るな。図に乗るな。付け上がるな。増長するな。胡座をかくな。分をわきまえろ。
それでも諦めきれていない自分を。
徹底的に否定しろ。
頭の中で誰かがそう呟く。
きっとそれは、親であり、元友人であり、クラスメイトであり、そして自身だ。
自分の存在を肯定するな。
否定された時、より辛くなるから──
…
……
「……」
目が醒める。身体中を倦怠感が襲う。
起き上がる気力もないまま、天井を見た。
曇った空は部屋に朝光を送らない。部屋は薄暗いままだ。
僕はふらふらと、立ち上がり、歩きながら洗面所に行った。
鏡の中の自分はいつもより一層醜く見えた。
吐き気にも似たような嫌悪が自分に向かう。
もう見ないようにして、家を後にした。
いつもと同じ通学路。
いつもより歪んで見える道。
いつもと同じ喧騒。
いつもよりも煩い話し声。
「おはよ、ひさめ!」
いつもと同じ友の声。
この世には何も起こってはない。だから、周りがより黒々として救いがなく見えるのも自分が惨めに感じるのも、ただ、勝手にそう感じているだけ。
晴果のような、明るい人を見ていると辛くなる。自分の存在がなんたるかをまるで知らしめられているようだ。
挨拶に生返事もできないまま、彼女は通り過ぎていってしまう。
…ああ、そうか。もう授業の時間か。
急がないと。
気だるい身体に鞭を振って、少し走った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
空中を覆う暗雲は全てを薄暗く写す。
それに気持ちを引きずられるように鬱鬱としたままにひたひたと歩く。
下だけを見るようにして歩き、着いた所はいつもの教室。彼らが集まる、生徒会室。
扉を開けて顔を上げる。
そこでは大きな体躯が一人、机に突っ伏すようにして眠っていた。周りに人は無い。寝息以外は不気味なくらい静かだった。
起こす気にはなれず、代わりに、その寝顔を立った状態から見下ろすように眺めた。
彼は…古賀さんは、よく寝る。
それに一度寝付くとなかなか起きない。
身体の養分を寝る事で賄ってるんだろうか?なんて考えた事がある。
ふと、顔の傷をなぞる。
起きる様子はまるでない。
醜い傷だと自称し、他にもそう語る火傷の痕。
外面が良かろうと腐った中身の自分とまるで逆の、拙い見た目と、周りを照らすその人間性。
蝶などとは程遠い、蛾のようにおぞましい僕はただそれを羨む。
…ふと青ざめた。何を思っていた?この傷を醜いと思ったのか?拙い見た目と考えたか?そんな事、もう思ってもないのに。
『もう』?
一度は考えていたのか。
死にたくなる。自己嫌悪だけならまだしもそれに巻き込み他の人を、ましてや大切な人を腐すなんて。
「……最悪だ」
その場にへたり込むようにして、彼の横にある椅子に座った。
最悪の気分だ。立つ事すらも、辛くなる。
こんな最悪な気分になってしまうのもあの夢のせいだ。そんな、いっそ投げやりな情動と増幅する自罰の中、顔を上げた。
視界に、机と床の間に宙ぶらりんになっている彼の腕が映った。
その手を無心のままに手に取る。
意識のない人間のそれは、結構重い。
半開きになっている掌を少しだけ開かせて、
ひたりと自分の首に当てた。
その手が、首を絞める形になるように。
……
僕の手が大きな手を包むようにして、
段々力を強く、強く込める。
「……か、…はっ…」
チカッ、と目の奥に火花が走った気がした。
明るい灯火に虫が惹かれるように、醜い虫が誘蛾灯に誘われるように、毒蛾はまんまとその煌きに眼を奪われてしまった。
だから仕方がない。
こうも貴方に惹かれるのも、この苦しみもきっと仕方がない事なんだ。
「…ァ、は、ぁっ……!」
大きなその手が、みるみる気道を塞いでいく。
息が出来なくなる。喘ぐように息をした。
酸素が足りなくなり、頭がくらくらする。
不思議な、高揚感。
「ッ!!」
足音が聞こえた気がして、咄嗟にその腕を放るようにして離す。さすがに起きてしまうかとも思ったが、ううんと唸りをあげるだけで目覚めはしなかった。
足音もどうやらただ通り過ぎていっただけのようで、誰も入ってくる事はない。
酸欠からか荒い息のまま、頭を抱えた。
(…何だ。何をやってるんだ、僕は)
自傷行為ですらない。正しく『手を借りて』、
こんな凶行に及んだのだ。
なんておぞましい。彼にまた責任でも背負わすつもりだったのか?どうしてこんな事をしてしまったんだろう。どうしてやめようとしなかったんだ。
…こんな気色の悪い行動に、どうして僕は…
逃げるように、その場を後にする。
これもきっとあの夢のせいだ。こんな狂ったような事をしたのも、心が不安定なのも。
早鐘を打つ心臓も、荒い息も、やけに熱い頬も。火照った体も。なにもかも、あの悪夢の。
息切れをしながら足を止めて、さっきまでの体温が残る首筋を撫ぜた。寝ている人の、いつもより少し暖かいその手が触れた場所を。彼が触れていたその場所を、ゆっくり。愛おしむように。
口端が歪むのを感じた。
その顔はきっと、この世の何よりも醜いのだと確信してやまなかった。




