花燭洞房
緊張感。そう、言葉にすると何処となく違うような気がする。一番近い言葉というとそれ、というだけであって、それが的確な言葉ではないのだろう。
「…えっと。
そうだ、買い出しに行ってきます。
その、食べるものも少ないから」
「あ、それなら俺が」
「いえ、ほら、気分転換とかもしたいから?散歩代わりにね?」
「…そ、そうすか?」
「うん。だから…」
私、浮葉には、やましい事も嘘もない筈なのに、なんでかわからないくらいに慌てて、そう言って。なんとか彼との距離を取る。
あんなに貴方と一緒に居たいと、ずっと、痛いほど願っていたはずなのに、実際にそうなってしまった時には私はただその目の前にある光景に焦燥感のようなものを抱いてしまって。
私は何を焦ってるのだろう。
焦っているとも、また違うのかな。
ならこの、どうしようもなく忙しないこの心は何に由来するものなのか。
わからないけど、ただ耳にまで鼓動の音が響くくらいで、頭がくらくらするようだった。
脳みそごと、お酒に酔ったようにふらふらとするようだった。
…
……
スーパーマーケットで、カゴを持ちながら歩いていた。何を買おうかとか、決まったわけではなく。
ぶーっ、ぶーっ、と。
携帯が鳴り響く。電話の着信音。さっきまで一緒に居た彼の名前が画面に映し出される。
それを手に取り、会話をしようとする事には何も緊張が無かった。心を落ち着かせて、ゆっくりと貴方と話すことに、素直に喜びを感じた。
「もしもし?何か用かしら?」
「すいません、食器洗剤が無くて。重くならないようだったら、買ってきて貰ってもいいですか?」
「ああ、うん。わかった。
他に何か欲しいものはある?」
「大丈夫です。
…気をつけて帰ってきてな」
「!…え、ええ。ありがとう集くん」
そうして、電話を切る。
ほっと口から、ため息のような固まった酸素が出る。ただそれは当然、ため息じゃなく。
どちらかと言うと、綺麗なものに意識を奪われたような時の息というか。
…この長い間。対面で話すよりも、この携帯電話を通して貴方と話す事の方が多かった。
貴方に会えず、ずっとこれを代用にしていた。
だから、この会話の方が慣れてしまっているのかもしれない。これなら、緊張しないのかもしれない。
過去を思い出す。
集くんが私の背中に手を差し伸べて、私を見つけてくれた日。私を見初めてくれた日。
それから、新任教師としての生活。
君との不思議な関係。
生徒と教師だけでない、奇妙な関係。
私が君に会ってから。
話していた時間はきっと、凄く短かった。
でも、だからといって。
いや、だからこそ。
貴方に向ける気持ちが偽物なんて思わない。
こっちに、電話を通した会話に慣れているのは確かだ。でも、だからといってそれにもう戻りたいとは思わない。直に貴方を見ることが出来るという事は、緊張しない、なんてそんなことに大きく勝るほどの幸福だから。
そう決意を新たに歩いていると。ふと、さくらんぼを見かけた。なんだか目に付いたそれをぼーっと眺め、そういえば久しく食べてないことを思った。どんな味だったか思い出そうにも、いちごの味を追憶する始末だ。
(なんだか、食べたくなったかも)
何かの縁か、ちょっと買って行ってもいいかもしれない。そう、軽はずみにカゴに入れる。
…
……
「ただいま」
「ああ、おかえり。
取り敢えず洗濯物しまっておいたよ」
「あら、ありがとう!ふふ、よくできました」
帰ってきて、少しだけ褒めてほしげにそういった彼の頭を背伸びして撫でる。そうされた彼は、嬉しそうな、それでいてちょっと違うと言うような、複雑な表情をしていた。
「色々買ってきちゃった。
お腹空いてる時に買い物はしちゃダメね」
「あ、本当だ。
…さくらんぼ?浮葉さん、好きでしたっけ」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど、なんだか食べたいと思っちゃって」
そう私が返すと、集くんは何故かだんだんと気まずそうな顔をし始める。
終いには、その顔を赤くしてどんどんと顔を逸らし始めてしまった。
「…ど、どうしたの?
その、何か変なこと言ったかしら?」
「!い、いや!なんでもないです!
その、勝手に邪推したというか!」
邪推。
邪推。
そう言われて、ぴくりと、恐らく彼も考えていた事に、私も考え付く。
かっと、顔が赤くなる。
きっと与えた誤解についての恥ずかしさ。
「ち、違う違う!そういう、キスのそれとかそういう訳じゃなくてね!?そういう、アピールとかそういう事じゃなくって!」
「あ、ああ!やっぱり違うんすね!
いや、まさかとは思ったんですけど、その、そうかなと一瞬考えちまって…」
「違うわよ、もう!そもそも、私は下手だから何のアピールにもならないし…」
…後半のセリフを言うや否や。少しだけモヤついた色が集くんの顔に広がった。
そしてそれについては、如何に私であっても気付くことが出来た。
その、嫉妬の色に。
ちょっとだけ嬉しくなってしまったから。
「…もう。集くんが気にすることないのよ。
本当に昔の、学生の時の話。
貴方にはどうしようもないんだから」
…この言葉に、ちょっとでも焚き付ける意図が無かったと言ったら嘘になる。
ほんの少しだけ、彼の嫉妬を煽ろうと。
だけど私が予想外だったのは、彼のその嫉妬の炎は、私が思ってるよりよっぽど激しかった事で。
「───んんッ!?」
─気付けば痛いくらい抱きすくめられていた。
気付けば舌の自由がなくなっていた。
そして気付けば、私の余裕が無くなっていた。
「…っは、ぁ…。
ちょっと、そんな急に…」
批難しようとして、出来なかった。
力が随分と抜けてしまっていて。
「…浮葉ッ…!」
「っ!」
咄嗟に、手が前に出る。
それに対してびくりと、集くんの動きが止まった。絶望したように、しまった、と、嫌われてしまった事を後悔するように。
それをなんとか、無くしたくて。
少し怖くても、手を下ろす。
それでも無くならない不安の色を無くすために、私はただ口を開く。
「…ごめんね、違うのよ」
…ああ。貴方に、貴方の愛に追い詰められるだけ追い詰められて。この焦燥感や、緊張に似たものの正体が、ちょっとわかったような気がする。
「…私、必死に大人ぶってるけど。
本当はただ歳を取っただけで、全然、大人になんてなれてなくて。でも、だからこそ」
「…少しだけ大人のふりをしたいの。
ほんの少しでも余裕があるように」
そう。君にとっての私は、まだ大人であってほしい。私は君を導いてあげれるような存在のままでいたい。
それは私の自己満足かもしれない。
……長々と言ったはいいけど。
ええと。要はその。
「……だから、私、その。
…ここでくらいリード、したいの…!」
ぎゅっと目を瞑って、そう言った。
表情はまともに見れなかったけど、ただきっと呆れたような、笑うような顔をしていたんだと思う。少なくとも、ぎゅっとした不安の雰囲気は消えてくれた。
代償に、本当に恥ずかしかったけれど。
「もう、酷いな先生。
あなたにとって俺は、まだ子供ですか」
「もう、先生じゃありません」
「俺だってもう生徒じゃないよ」
「そう…あっ!」
返事をしようとした私を、がばりと組み伏せるようにしてくる。
その大きな体躯に見合った力は、全くもって跳ね返せたりはしないで。これもちょっと。いいや、本当はかなり怖かったけれど。
「…もう、『ダメよ』とは言わないのか?」
「うん。言わない」
「……もう、手を出しても、声を出しても止めないからな。いや、止められないからな。
俺ももう限界なんだ。本当に、本当に」
「………」
怖い、怖い。
嬉しい、嬉しい。
色欲、混沌、熱気。
どれもがうやむやに混ざって行って。
「……いいわよ。来て」
震える声でそれを言うのが精一杯。
それが私の最後の、意地っ張り。
…
……
花燭洞房。
結婚して、はじめての夜の事。
…
……
「三夏、三夏」
肩を揺さぶられて、目を覚ます。鼻につくのはコーヒーの匂いと、汗や体液の匂い。
「…はっ!今、何時!?」
「はは、今日は休日ですよ。
それに、三夏はもう先生じゃないだろ」
そう言いながら、彼にそっとコーヒーを差し出される。ぼうっと受け取ってると、寝不足でほんの少し頭痛と、そして腰痛があった。
「ーっ…つつ…」
「う、大丈夫か、三夏?
…ごめん、その…ちょっと考え無しだったよ」
「う、うん。
それはその、大丈夫なんだけど…」
この気恥ずかしさは、寝起きの姿を見られてしまった事や、ボケをかましてしまったことじゃない。それよりも、もっと簡単な事。
「…そ、その。
名前呼びと、タメ口、やめてえ…
凄く、恥ずかしい…」
「…昨日そう呼んでって言ったじゃないか!」
「それでも、照れちゃうものは照れちゃうから…!」
そうなんとか返す。
返事が返ってこなくって。
不安に思って彼を見る。
するととても、とても。
意地悪な顔をしていた。
「わかった。
今度からずーっとタメ口で話すよ」
「〜〜〜ッ!この、不良生徒!」
「はは、もう生徒じゃありませーん」
そんな事をしていると、休日の、午前が終わる音が時計から鳴る。
その日は結局すっかりねぼすけで、だらだらとした日になってしまったけれど。そんなこともいいと思った。
それくらい、今が幸せだった。
貴方との夜が、幸せだった。
こんな日々が、ずっと続きますように。
取り繕った大人なんてぜんぶ捨てて。
ただ、それだけが。
私の望みになった。
今日はそんな、記念すべき日だ。
蛇足5、終わり
以上で定期更新したものは終わりとなります。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました。




