アフター・ザン
「ううん…」
青年の口から放たれるは唸り声。何か意識してというより、無意識が発する音。その座る場は特筆するような事では無い。ただ、ここが学舎であるという事だけは説明としてある。
「おやどうしたんだい古賀くん。このボクが居るというのにそんなアンニュイな溜息を吐いて」
座り込む大きな男へ、一人が話しかける。女性にしては高めの背丈と長い足、女性らしくもない一人称に、人らしくも無い赤い瞳は、いっそアンバランスを極め、美しくすらある。
呼ばれた男、古賀は微妙にうんざりとした様な風にそちらを向く。
「アンニュイでも溜息でも無いぞ」
「まあ心情は似たようなものだろう」
「いや、それもそうなんだけどまあ…
ただなんていうかな…ダメだわかんねえ」
「ハハハ、まあ元気を出しなよ。このボクが好きなだけ付き合ってあげるからさ。ほら、ありがたく思ってね?」
ニコニコと、喜色満面の言葉そのままに横に座り、絡み付くようにその腕を絡ませる。毒蛇のような手つきだ。
表情は笑顔のまま。しかし頬を上気させ眼が歪む様は、微笑みというよりも悦楽の貌。
「……シド…お前、わざとだろそれ」
「そりゃあ勿論」
「お前なぁ!」
「ハハハ」
そいつ。シドは、白々しく大袈裟に笑う。
この笑い方をしている時はろくでもない時か、
何かを企てている時だと青年は知っていた。
…
……
事の始まりは、たった1週間前の事である。
シドは古賀青年を強姦した。そこに様々な感情の機微や思う所があったのだろうが、その事実だけは変わりはしない。
だが大概に変人である青年は、その想いを受け入れる事を選択した。受容し、抱き止め。因果が逆転するように恋人の関係と成ったのだ。
そこからは早かった。
翌日。古賀集の想定では、学校内で臆面も無く、その関係を暴露するような距離感を取られるだろうかと思っていた。
しかし意外にもそういった事は無く、学校内での日常に殆ど変化は無かった。
曰く、「それぞれ崩したく無い日常があり、それを恋人と言えど一方的に壊そうとする事は無粋だろう?」との事だった。
それを聞き、古賀は一度安堵した。
彼女は行動的で、一度恋人関係になったのならば、とんでもない行動をしてくるだろうと覚悟していた。
だが、どうやらそれは無さそうだと。これならば「それ以降、変化があろうと大した事は無いだろう」と。
『ハハハ!』
…いやに耳に残る高笑いを怪訝に思った、ほんの数時間後に、その油断を後悔する事になるとも知らずに。
まず古賀青年が家に戻れば、自らの家族中が皆、付き合うこととなった事の顛末を(当然一部脚色アリだが)知っていた。
母は野次馬根性を丸出しに質問をぶちまけ、父は明らかにそわそわし、妹は半狂乱に色々と物を投げつけた挙句に泣き始めた。
だがまだそれは地獄の一丁目。
げっそりとした青年が、逃げる様にコンビニへ行く用事をでっちあげて外に出るとそこには道路に不釣り合いな程の黒塗りの高級車があり、ほぼ強制的に車内へ連れ込まれた。
『やあ、こんばんは。
…フフ、ひどい顔!』
目を閉じて死を覚悟していた所に、後部座席横に座っている人物がよく見知る赤い眼であった事に気づき、げんなりと安堵する。
が、その安堵も束の間。
また直後に、胃が擦り切れそうな現場に居合せなくてはならなくなる。
つまりは、呆れる程に広いホールで、シドの両親と顔を合わせ、それぞれから説教を食らいつつ、またその付き合いをしていく為の心掛けなどを洗いざらい吐かされるという現場である。
しかも、コンビニに行こうとしていた、そのラフな格好でそれをやらされるという地獄。
その場で卒倒しなかったのは、その真横に座って甲斐甲斐しくサポートしてくれたシドのお陰であり、その場では感謝の言葉も無かった。
後によくよく考えればこの状況を作り出したのはこの当人以外あり得ないと思い、感謝は取り消し、代わりに恨み節を放った。
『…ハハハ!』
…次にその高笑いを聞いた時は、晴れて互いの家族公認となり、二人きりの時間を過ごしていた時だった。
翌日。
学校に居る時だった。
不可侵条約じみて互いの関わりを中止している為、脳より彼女の存在を抜け落ちてた古賀は、昼休みに購買のパンでも買おうかとぶらついてる廊下で、とんとんと肩を叩かれる。
疑問符と共に振り向けばその眼前には、恋人の赤い瞳と、桃色の唇があった。
その感触に、古賀はその場でフリーズし、なんならその後一日中フリーズしていたが、必死に考えた結果、あの行動の意を類推することができた。
昼休みという時間であるならば当然人目もある。全員が此方を見ている訳も無いが、逆に全く見られていない可能性も少ない。
そういった『噂』レベルの光景を周囲に見せる事により日常を破壊的に変えるのでは無く、じわじわと、しかし確かに、関係性を周知するような。そんな状態にしたかったのではないか。
彼女に、シドに答え合わせをしてもらったら満面の笑みと共に花丸を貰った。それにほんの少し嬉しくなってしまった事は、伝えたらまた図に乗るだろうと秘密のままだ。
……この二つが、たった4日の間出来事。
途轍も無く迅速で爆発的だった。
後者の行動もその思惑通りにどんどんと噂が広まっていき、だんだんと好奇の目線と彼女のファンクラブの嫉妬の視線が痛くなっていく。
外堀どころかなにもかも埋められ…
最終的に、今に至るという訳である。
…
……
「ハハハ!」
さて、今彼らがいる場所。ここは屋上へ向かう階段である。屋上は過去に飛び降りをしようとした生徒がいるとか居ないとか、ともかく封鎖されており、故にわざわざそこに向かうこの階段に寄る者は誰も居ない。
「こ、今度は何企んでるんだよ」
引き攣った笑みで古賀が、また高笑いをする少女に声をかける。この女が高笑いをする時はろくでもない事を考えてる時なのだと。
だが、当の少女はそう聞かれると一瞬驚いたように顔を触ってから、遅れて返事をする。
「ん…?ああいや!違うんだ。
今のは単純に、その」
そこまで言うと、一回バツが悪そうに頬を掻く。傲岸に不遜な顔ばかりを見せるその顔つきが困ったような、照れ臭いような顔になる。
「…凄く、楽しくって。幸せでさ。
本当に、夢みたいな日々だから。つい」
恥ずかしげにはにかみ、頬を掻きながら。
そう、控えめに言った。
その姿は年頃の少女そのままだった。
が、直後に、真剣な顔つきになる。
赤い眼が殊更に映える。
かつかつと周りを歩きながら、いつになくシリアスな顔付きで、その微笑みすら無くして。
「…うん。確かに。済まなかったね。
ボクらしくもなく、色々と性急すぎた。別に怯えさせようとかじゃなかったんだ。恐怖による支配なんて恋人関係とは言えないしね」
こうしてから、足を一度止める。
「…言い訳というか、弁明ですらないんだけど。全く自制が効かないんだ。キミの事になると。つい。どうやっても」
そこまで言うと、座る古賀の前に躍り出て、屈んでその視線を合わせる。
「人ってさ。
何に恐怖を抱くと思う?』
「?急に何を…
怖さなんて人それぞれじゃないのか?」
「いいや、違う。人が怖がるものっていうのは、なぜ怖がるのか決まっているんだよ」
少女は彼の膝の上にふわりと座り込み、すっぽりと収まるような距離感となる。まるで、大きい服を羽織ったようなそれをふふんと満足そうに頷いてから、話を続けた。
「人は、自身に危害を与えるかもしれないと思うからこそ恐怖するんだ。造形の気色悪い虫は毒を持っているかもしれないから『こわい』。鼠は病を持っているかもしれないから『こわい』。お化けはとり殺されてしまうかもしれないから。疫病も言わずもがな」
「意識的か無意識か関わらずに。人は恐怖を、自分の命を脅かすかも、と思うものに抱くんだよ。分かるかい?」
「…なんとなく、わかったような気もする。
で、それがなんの関係があるんだ」
「……いじわるだなあ。そんなにボクの口から言わせないと気が済まないのかい?」
包み込んでいる彼の手を、ぎゅっと強く掴み込む。それは非難しているようでもあり、また殊更に甘えてるようでもある。
「ボクはもう、キミを失うことが『こわい』んだ。だからこんな事をして、外堀を埋めてキミを逃げられなくしてるの」
そう言い、しばらく。するりと身体を反転して向かい合うようにする。そして頬に手を当てた。顔と顔の距離を近付け、陳情するように。
「…愛想を尽かしたかい?そうなら言っておくれ。ボクと別れてしまいたいならこのまま別れてしまおう。今ならまだ間に合うから」
青年は溜息を吐いてしまう。これ見よがしに彼女がこう言う時は、8割方は虚偽。
彼に否定して貰える事を予測しての発言だ。
「そんな訳無いだろ。むしろこっちから頼む。俺にお前の彼氏のままで居させてくれよ」
それでも、こうした言葉を言ってしまう。
残り2割が虚偽でなく、彼女のほんの少しだけ残る弱々しい心から放たれた本心あることをわかっているから。
そして、何より。
古賀が、シドへ手を伸ばす。されるがままの彼女の首筋を、両腕で優しく触れる。くすぐったがって取ったその手のまま。伏目がちのままに、ぽつりぽつりと語り始める。
「ボクは…」
「ボクは臆病なんだ。未だにこれは夢なんじゃないか。ある時を境に覚めちゃうんじゃないかって、びくびくしてる」
「キミと心から繋がりあって、キミの事を境に父上や母上とも話せるようになって。こんな幸せは実はただの妄想で、いつかまたあの灰色の世界になってしまうんじゃないかって」
「…だから、こんな手段まで使って、形のあるモノを担保にして君との関係を繋ぎ止めている。ごめんね。嫌だったろう。ごめん」
一種のトランス状態のように、とろんとした目のままにそう語る。その彼女の頭部を抱え込むように、抱き込む。
そうだ。そして、何より。
あばたもえくぼ。
屋烏の愛。
惚れた欲目。
シドが行った行動と性格は全て、欠点として列挙されるべき点であったろう。しかし、最早彼の目にそれらは美点としか映って居なかった。
何よりも、愛してしまったからだ。
彼は、一連を嫌に思う事は無かった。怖く思う事は…無いと言えばまあ嘘になるが。
しかしそれくらいはどうという事は無かった。それをしている彼女は、意気揚々と、とても楽しそうで、可愛らしかったのだから。
「…俺も、ごめん。
もっとちゃんと言葉にするのを忘れてた」
「…?」
「俺、お前のことが大好きだよ」
「!」
「あの場でお前と付き合おうとしたのは、同情でも、優柔不断でも無い。俺が、俺自身の意思でお前を愛していたからだ」
「嫌なんて事は無いよ。だから安心し……
…まあ正直色々ともっと相談してほしかったとは思うけどな!?ほんとに!」
それを聞いて、伏せていた顔に儚げな表情が映る。だが次の瞬間にはそれは幻覚だったのではと思うほどに勝気で爛々とした表情が、バッと上を向いていた。
「ハハハ!流石は、ボクの旦那様だ。ただ気をつけてくれよ?もうこれからはそういった、好き勝手に女を誑す口は矯正していくからね?」
「だ、旦那様って…
っていうか元々そんな事してねえよ!」
「…えっ自覚無いの?本気?」
キョトンとした目が、互いに向き合った。
瞬間にチャイムの音が鳴る。
二人は慌てて教室に向かい走る。
…凸凹で、欠点だらけの二人。
それが嵌まる事は無いかもしれない。
彼らがそう遠くないうちに破綻を迎えるか
それとも末永く、末永く共に居るか。
それは、誰にも判らないのだr
「…おや?」
「いやだなあ。
そんなの分かり切ってるだろう?」
̶そ̶れ̶は̶誰̶に̶も̶判̶ら̶な̶い̶の̶だ̶ろ̶う̶
当然。末永く円満に暮しました。
めでたし、めでたし。




