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彼の周りは少し愛が重い  作者: 澱粉麺
焦点の外側
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枯樹生花







「俺に」


「好きな人なんて居ません。

それが答えです」




くっきりと、声が響いた。それは、他に言うべきことも、何も無いと言いたげなものだった。夕暮れの空の温かさすら消え失せたようなほどに冷たく、渇いていた。



「………」


「…そう。ごめんなさい。お節介だったね」




「………」



「変に引き止めちゃったね。

さあ、下校して」



「……っす」




暫くして廊下に響く一つの足音。

一瞬、こっちを向くように止まってから、すぐに離れていった。


それを聞き届けてから、私は卓を戻す。

少し手に力を入れながら私は目を瞑った。瞑り、失敗したと自分を悔やんだ。


そんなことをしていたせいで卓の足で足の甲を踏んでしまった。







……





「おはようございます、浮葉先生」



「!…ええ、お早う。昨日はその…」



「ああ、昨日はありがとうございました。

おかげで、心が楽になった気がします」



さらりとそう言う彼の顔を見る。

昨日まであった迷いはもうそこには無い。それともそれは、もう私には見えないというだけなのかもしれない。


どちらにせよ、私には彼の迷いの有無は解らない。きっと、もう二度と。




「……そっ、か」



「はい。それじゃ、また後で。

ちょっと用事がまたあるんです」



「ふふ、いつもいつも忙しそうね集くんは」




そう言うと彼は照れ臭そうに笑みを浮かべてから、歩き去っていく。


笑い顔は、私がいつも見ていたものと何も変わらなかった。でも、ついさっきまでのあの声と顔が、脳裏に残っていた。



私は、失敗した。

そう悟り、確信した。


足の感覚が痺れるように鈍麻した。

世界が遠ざかるように思考が白くなる。



ああ。この感覚は、初めてだ。

これが、かけがえないものを失った感覚なのか。






……




かけがえのないもの。

かけがえのないものとは何か。

失ったものとはなんだろうか。


りーりーと鈴虫が鳴く音が外で聞こえる。物の少ない自室でただ、ぼうっと上を向いて考えた。

私は、何を失ったんだろう。



あの放課後の教室の中で私が一つ問いをした瞬間には気付けはしなかった。いや、その時までは確かに、集くんは悩み、迷い、想っていたのだ。それは間違いなく。


問題はその次の瞬間。

その表情は、ふと、消えた。

無くなったり、解消されたのではない。

消えてしまったのだ。


何が起きたのか、わからなかった。だけれどそれが、取り返しのつかない事であるとわかったのには、そう時間はかからなかった。


あの瞬間、彼は心を閉ざしたのだ。


誰からの理解をも拒むだとか、何の詮索も許さないだとか、そんな大仰な事ではない。

ただそれでも、少し踏み込むそれは拒絶する、明らかな意思。


心の奥の触れられたくはなかった部分に、土足で踏み込んでしまった報いだろうか。理解者面をしてずかずかと知ったような口を利いた、その代償なのかもしれない。

もしくは、絶対にしてはいけない恋を露見させてしまわない為に、全てに心を閉ざしたのか。


どれらかもしれないし、どれでもないのかもしれない。ただ事実として残るのは、もう二度と、集くんは私にその心を開かない事。

その深層の、奥に触れることは許されなくなってしまったことだ。



それは、私にだけ。浮葉三夏にだけ向けられた拒絶ではないのではないだろう。



そう、それだ。

失ったものの本質はつまり、それに由来する。

私にだけ向けられたものではない。それは、『誰とでも同じ』という事。

それに、由来する。



おそらく彼はこの先、誰からもそうした気持ちを問われても笑顔という壁を作ってまともに取り合わないだろう。それは、怒ったりだとか、逆鱗に触れた反応より残酷なことだ。


…本当に愛した人から問われたら、その壁は脆く崩れるかもしれない。でもそれについては、考えたくもないし、考える必要もない。



(私は……)


出来合いの惣菜を口に運びながら息を吐く。

すっかりと冷めて油が固まったそれからは砂を噛んでいるような味がした。



(……何をのぼせあがってたんだろう)




教育者として、皆をより良い方向へと導こうとしていた。そして最近は、それに繋がっていると思えていた。ちょっとだけ、自信がついてきていた。

そんな自負があったからこそ、つい、出しゃばったのかもしれない。

あんな、立ち入ったことを聞いて彼をいたずらに刺激した。


それだけじゃない。九条さんも、いたずらに傷付けてしまっていた。ひょっとしたら菜種さんも何か心を傷付けてしまったかもしれない。


負のループだ。一つ、何かを失敗すると、あれもそうだったのではないかと思う。そしてその度気持ちが沈み、更に他の事を思う。


最近は、あまりなかったのだけれど。




(わかってた事じゃない)



わかっていた。私が、居ても居なくても変わらないような人間であることなんて。そんなこと、よくよくわかっていたことじゃないか。



私は彼の何かであったり、特別な存在でありたかったわけではない。彼に想いを向けてもらうだの、お礼と言って彼の為に尽くしたいだの、そんな事は望んでは居なかった。




ただ、少し。

ほんのちょっとでも、そういえばあんな人が居たな、とか。同窓会の時でも、なんでも。人生にたった一度でもいいから、思い返してもらえるような何かになりたかった。

あわよくば、良い思い出として。私が居たのだということを、脳のほんの少しだけでも小さな片隅に置いておいて欲しかった。



集くん、一人にとってだけでいい。

私は彼にとっての、『居ても居なくてもどちらでもいい人間』にはなりたくなかった。

ただそれだけが、私が彼に向ける思いだった。


その独りよがりのために彼を救おうとしたのでは断じてない。それの為に導こうとした訳では、無い。それは、教育者としての善意からの行動だった。ただそれでも。


私があの時、彼に好きな人を聞いた事。それが自分自身がただ納得する為だったと、どうして言えないだろうか。その過ちこそが、私にこんな辛さを与えているのだ。




「………意外と、本気だったんだな…私」




ずきずきと痛む胸を、撫で下ろしさする。


諦める、とかそういうのですらなく。

この横恋慕はただ勝手に無くなって、それを悔やむ事すらないまま、誰にも知られないまま終わるだけのつもりだった。


なのにその瞬間を迎えた私は、そんな事としてしまえないほどに、ただ辛かった。

それは恋慕が破綻しただけではなく、もっともっと、大きな事のせいで。




ああ。

それはとても単純で、残酷なことだ。

私は彼の導きにすらなれなかったのだ。


彼を正しく、善なる道に導くことも。

彼にとっての正しい存在であることも。

心を許せる大人であることも。


それになる事なんて、出来なかった。

ただ、それだけだ。



そうだ。失った、かけがえのないもの。

私は彼の、彼にとっての、何かになる権利と価値を愚かな詮索で手放した。


そして、小さくちっぽけな、それでも何より大事に思っていた希望を失ったのだ。

君にとっての何かになりたいという、それを。



砂を、噛む。


貴方に手を伸ばして貰った日を未だに克明に思い出せる。その記憶は今でも、私には美しく映る。あの時に抱いた、おこがましい想いも何もかもを失って尚も、美しく。



「……ごめんなさい、集くん」


「貴方はきっと、あの時私に手を差し伸べるべきなんかじゃなかったんです」



空に呟いて、目を拭う。こんな涙すらないまま、私は諦められるはずだったのに。こんな辛い想いなんて、せずに済んだはずなのに。


洗面台で顔を洗い、そのまま鏡を一瞥した。

涙袋が浮いて、隈が一層濃く見えた。


ただ、鏡像から目を逸らした。

これを見ないふりをすることが、ただ今はその辛さを忘れる事が出来る、唯一と信じた。






……




枯樹生花。ひどく、つらいことの最中に、それから抜け出す方法を見出すこと。


…元は、心が相手に通じることを喩える言葉。






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