水底の泥人形
私は、今でもあの日ほど大声で笑った日はない。
あの日ほど、自分の馬鹿馬鹿しさを大声で嗤った日は無い。
…
……
これを言うと意外、かもしれないが。
変化にはすぐ気付いた。いつも仲良くやきもきするような距離感で話をしていた彼ら。羨ましくなるくらいにスキンシップが多かった彼ら二人の関係が、その時からとてもよそよそしく、恥ずかしげになっていたから。
ヒサメと、シュウ。
彼らの関係の変化にだけはすぐに気付くことができた。であるのに私はその時に言ったことはなんだったと思う?
ケンカをしたのですか。
早く仲直りをしてください。
なんて。
ハハ。笑えるでしょう?
私はどれだけ哀れで嗤える、道化だったろう。
結局、二人はちゃんと仲直りをした。
綺麗さっぱりに。二人が二度と離れることがないくらいに強力に、素晴らしく。
幸福そうに手を繋ぎ、見たことがなく距離が近しいそれを初めて見た時に、ぼうっと呆れてしまった事を覚えている。
ああ。素晴らしい事だ。
本当に仲が睦まじい。
私など入り込む余地がないほどに。
礼を言われた。
「アオのおかげだ」と。
ハハ、と反射的に笑いが出た。そしてそのまま、身体が求めるままに大笑いをした。
あの時ほど大声で笑った日は無い。
あの日ほど、自分を嗤った日は無い。
あれほど、自分を殺したく思った時は…
…
……
がらんどうになった部屋で泣き伏せている。
こんな事をしてなにになるでもないとわかっているけれど、それでも涙は止まらない。
悲しくて辛くて、痛くて気持ち悪くて。
それがどうやっても消えず、ただ泣いている時だけはそれがマシになったようで。
私は、道化を続けた。
彼らの関係に気付かないフリをして、今までと同じように彼に近付いて、そっと抱きついて、貴方に愛を囁く。何もわからない幼子を装って、貴方にそれでもくっつく。邪魔になっている事にも気付かないフリをして。
どれほどやっても。否、やればやるほど、私が惨めだった。私が入り込む余地など、全くもってないことがそのたびにわかる。
そっと優しく、それでも確固たる意志で近づいた私を引き離す彼。
その度に、彼は私に断りを入れようとする。
あの時の答えを。
あの日の問いの答えを出そうとして。
私に、Noを突きつけようと。
その顔でわかる。申し訳なさそうな。
その貴方たちの関係でわかる。私のあの日の答えは、否定されるべきものだったのだと。
その度に私はそれを遮る。
逃げて、逃げて。逃げなければ。
いつかその逃げ道は行き止まりに辿り着くのだとわかっていながらそれでも逃げて。
そしてその度に。
私は輝きに眉を顰めるんだ。
そうだ。
そうだった。
あの時に。彼らの関係に気付いた瞬間にぼうっと呆れたのは、失落の痛みでも気付きに伴う自嘲でもなかった。
美しいと思ってしまったんだ。
結ばれた彼らの姿が美しい。彼の慈愛の顔も、ヒサメのその薄く桜色に染まる頬も。
その全てが、輝いて美しく見えた。
水底から水面をのぞむようなそれは、きらきらと光って眩く、そして正面から見つめることが出来ないようなほどに、光っていて。
あれが陽の光を浴びて煌めく水面ならば、それを見やる私は、沈んでいく私は。沈殿した澱のように穢らわしいものになったのだろうか。
沈殿して、積もってしまうような汚い何かになったのか、はたまた内に鉛が詰まった器になってしまったのか。
もう、わからない。どちらでもよかったし、どっちであっても欲しくなかった。私がそんなようなものになってしまっているのだという事実を認めたくなかった。
『いっそ呪いの歌でも送ってやろうか』
そんな言葉がぼそりと口から出た。
つうと、また涙が止まらなかった。
それは図らずも自分のヨゴレの照明になってしまった。
鏡を見ることすら必要ない。きっとそこに映るものは泥だらけのものだ。
からっぽであった私は中身が汚物でいっぱいのピニャータになってしまったようだった。
ああ、ひどい、ひどい。
美しいもの、綺麗な感情をたくさん教えてくれた貴方は。最後に、こんなひどい苦しみを教えてくれた。こんな悲しみを、苦しみを、汚さを。あなたから学んでしまった。
こんなものを、与えないで欲しかった。
私が勝手に知っただけなのに、そんなことが浮かんでしまって仕方がなかった。
そしてある日。
死刑の執行が下された。
「……エ…」
それは、彼からの答えではない。
逃げ道は、急激に、別の方向から断絶された。
私たちは引越してしまうのだと。ちょうど、単身赴任で遠くにという話があった。だからいっそ、一家でそれについて行ってしまおうかという。そんな提案をされたのだ。
本来なら、貴女だけ残すつもりだった。
だけど。
そう、お母様は続けた。
『…荒療治なのはわかっている。
でも、もう見ていられないわ。
もう貴女はここにいるべきじゃない』
それだけを言って、踵を返す母。
その姿に何も言い返すことが出来なかった。
何も言葉が浮かんで来ず。そしてまた、首を締め付けられてるかのように、息ができなかった。酸欠で、頭がふらついた。
『………あ……ああ……』
待って。やめてお母様。まだ、まだ待って。
まだ。これから先、何かをできるから。
きっと奪ったりだとか、もしくはちゃんと諦めることとか、そういったことをちゃんと。
ちゃんとできるから。
『……イヤ。嫌…!』
だからそんな勝手な事をしないで。お願いします。そんな事はやめて。それでも私はまだ、彼が好きなの。それでも、離れたくないの。彼にとって私がそうでなくても、私には彼が必要なの。だからやめて。
待って離さないで待ってやめてやめてちがうの
『………待っ、て…』
嫌だ、嫌だ。置いていかないで。
私を、置いていかないで。
遠ざかっていく情景。
私を置いていく暖かい景色。
思い出も、記憶も、彼にとっての私も。何もかもが私を置いて行ってしまう。
私がいなくなる。彼がいなくなる。私は置いていかれる。消えていく。居なくなる。
なんで?どうしてこんなひどい事になる?これは、私がこんな汚いものになってしまった報いなの?ほんの少しでも、呪ってしまおうだなんて考えた私には当然の罪なの?それが罪なら、これが私に与えられた罰なの?
それなら、謝ります。何をしてでも陳謝し赦しを乞います。貴方に永遠に隷属します。
だから神様どうか、どうか。彼をわたしから離さないでわたしから彼を引き離さないで。
彼から私を過去のものにさせないで。
私をまた、ただのヒトガタに戻さないで。
そんなの耐えられない。助けて。やめて。おねがいだから。おねがいだから。たのむから。そんな酷いことをしないで。
どんなに祈っても祈っても。現実は何も変わりはしない。何も打開などせず、ただただ絶望だけが迫ってくる。会う時間が失せていく。
ただ、神に祈るより。
ただそれを呪う時間が増えた。
…
……
もう、人形にはなれない。
もう愛を知ってしまったから。
もう、人形にはなれない。
もう感情を覚えてしまったから。
もう、人形にはなれない。
それが齎す不幸がこんなにもひどいものならば、誰がもうそんなものになるものか。
もう、いい子にはなれない。
もうどうしても、この汚い穢れた想いが全てを汚染していく。純朴に見た景色も、純粋に感じた感覚も、すべて、すべて。
ああ、私は泥人形になったのだ。
沈み、沈み。
海底から、自分より救われている人間全てを許せず、羨ましく、引き摺り込みたいなんて思う。そんなどうしようもない、浅ましい、気色の悪い泥人形だ。
くたばれ、何もかも。
そう呟いて、大声で嗤った。
大声のつもりだったそれは、びっくりするほどくぐもったような声しか出なかった。




