禁断の果実
……あの時。あの夕暮れの教室の事を俺は未だに思い出す。忘れる事は、ない。
俺はあの時答えを一つ出した。
そしてそれを仕舞った。
二度と表に出ないように。
見なかったフリをした。
違う。見たその上で目を逸らしたんだ。
絶対に見てはいけないものだったから。
答えを出した上で、それを無いことにした。
先生の、悲しそうな顔を見るのは辛かった。
そっか。余計なこと言っちゃったかな。
そんな事を言う先生を見て、違うんですと。
本当ならそう言いたかった。けどそれは、これは、俺以外には見せてはいけないものだから。墓にまで連れなくてはならない感情だから。
親身に聞いてくれた先生をも裏切った。
自身の心も裏切った。
全てに、目を背けた。
糞のような真似をしてでも、安寧を選んだ。
俺はそれでも──
「っ!」
寝床でばちりと目を覚ます。
どぐ、どぐと心臓が高鳴るのは興奮からか、はたまた焦燥からなのか。
誰も居ない部屋で人知れずその追憶を見た自身の心を落ち着けてゆっくりと布団から這い上がる。
そうだ、誰も居ない。
部屋という話ではない、今住んでいる場所に。
俺はそのままゆっくりと部屋を出る。
鍵を閉め、まったり歩いていく。今日は確か2限からだ。まだまだ余裕がありそうだし、何処かに寄っていくのもいいかもしれない。
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…あのまま俺は高校を卒業し、大学生になった。その際、一人暮らしをしたいと申し出た。一回くらいは一人の生活を体験しておきたいとそう言い繕って。
そしてひとつだけお願いをした。
一人暮らしをするに辺り、俺が言い出した事だと鈴に伝えないで欲しいと。
きっと、彼女は、俺がそうしたいと言い出したことを知ったなら「私が何かしてしまっただろうか」と悩んでしまうだろうから。
ただ、今となってはそれを少し後悔している。
授業が終わり、日が暮れた中を戻る。
そうすると、俺の住んでいる所が見えて来る。そしてその部屋の電気が付いていた。
当然ながら俺に同居人は居ない。となると、「また」だろう。
前回はいつだったろうと、ほんの少しだけ頭を捻るが、別に無駄な事だと思ってすぐやめる。
そうしたまま、呆れ半分に部屋のドアノブを捻る。案の定そこには、見知った顔があった。
「どうも。おかえりなさい、兄さん」
「あー…ああ、ただいま。鈴」
劇場のように人工的で。
蝶のように完璧で。
胡乱なほどに清楚で。
古賀鈴。
そこには、俺の妹の姿があった。
ついでに鼻腔をくすぐる、美味しそうな匂い。
…なんというか。これじゃあまるで一人暮らしの意味というか、実感が湧かないじゃないか。
俺はあの時、全てから目を背けた。何を騙してでも、この子を穢したくなかったんだ。
…
……
いつからこうなったんだっけか。
強いて言うなら、最初に荷物を運ぶのに手伝ってもらった時か。
その時に力仕事は俺がやったが、代わりに荷解きとかの面倒臭い事をやってくれたり、その後に晩飯を軽く作ってくれたりした。
その日から、荷物を運ぶという名目に週一くらいのペースで来るようになった。いや、事によれば週二くらいかそれ以上かもしれない。
玄関前で待たれてしまってからは、合鍵を渡さないわけにも行かないし。
どれにせよ、こうまでのペースで家に鈴が居るとなるとまるで一人暮らしを始めた意味が無い。なんか普通に家にいるみたいだ。
それが嫌だって訳では無いんだが。
「?味が薄かったですか?」
ちゃぶ台の向こうでそんな事をぼーっと考えている俺を変に思ったのか、鈴が聞く。高校生になった彼女は、また少しだけ背を伸ばし、ほんの1年でかなり大人になったように見える。
「…兄さん?」
「…え!?ああ!いや違う違う。
美味しいよ。ありがとうな」
「そうですか。それなら良かったです」
彼女が優しく微笑んでそう言う。
よく、笑うようになった気がする。
そんな鈴の姿を見ていると、わざわざこんな所に来なくてもいいんだぞ?と言う気力も失せてしまう。いや、恐らく言ったにしても何も変わらないだろう。
というか、以前一度言った上でこれだ。
「…なあ。前も言ったけど本当に無理はしなくていいからな?それで学校生活に支障が出たりした方が兄ちゃん悲しいからな」
「相変わらず心配しすぎです。完璧とは言えなくとも、全てにおいて平均以上は行えていますよ」
「ならいいんだけどな…
優秀な妹を持って俺も鼻が高いよ」
いつもの癖で頭を撫でようとしてしまう。
そして、びくりと手を止める。それは今までの戒めというよりは、反射に近かった。
「…どうして、やめるんですか」
そして、それを咎めるような低い声が聞こえる。鈴の額にはさっきと打って変わり深い皺ができている。
「…いや。
そろそろ鈴も嫌がるかな、なんて思って」
「嫌だなんて!…一度も言ってません」
「周りの目もある」
「私は、気にしません」
「鈴はそうでも、お前の周りは勝手に気にするもんだ。言われなくてもわかってるだろ」
「……」
「…本当はもうここにも来ない方がいいんだ。
俺は、そう思うよ」
…言いにくいことを話すと、鈴はただ伏し目がちに静かになる。
嫌な気持ちにさせてしまった。そんなつもりでは無かったが、知った風な口を利かれる事はどうしても不愉快だろう。
すまん、と口にする。
返事は来ない。沈黙が場を支配する。
「……ないで」
「ん?」
「…いえ、なんでも」
そうしてまた静まり返る。随分と険悪というか、薄ら寒い雰囲気になってしまった。
ただ、いつか言わなければいけない事だ。心のどこかで分かっていたにしても、明言しておかねばいけない事。
鈴が俺に懐いてくれている事は凄く嬉しい。
そして………
……
だからこそ、距離を取らないといけない。
と言っても、意識してする必要も無い。ただ、それまでの家族の距離感に戻ればいいんだ。
今は、あまりにも近すぎし、過剰すぎる。
そしてその近すぎる距離は、周りに邪推をさせる。それは実際にそうでなくてもだ。
『火のない所に煙は立たない』なんて言うが、実際は、煙なんて立たせようと思えば好きなだけ立てられるのが人間だ。
だから、言わなければならない。
それが鈴を守る事に繋がる。俺が彼女の汚点になるのは耐えられないから。
彼女の足枷になんてなりたくないから。
「そういえば兄さん。
今日ここに泊まっていってもいいですか?」
「話聞いてたか!?」
話を丸々無視したような発言に目を向く。
暗い表情もどこへやら、澄ました顔だ。
「その上でです。明日、学校の実習があって。それがここからの方が近いんですよ」
「…うーん……まあ、わかったよ。
今日はもう遅いしな。ただ今後はこういう事を控えるように」
まあ、わかっていた。華奢でともすれば貧弱にすら見えるような見た目だが、鈴はこれでいて結構芯が太く、一度決めた事を曲げない。
一度こっちに来た時点で、そう易々と言うことを聞いてくれる事も無いだろうと。
そんな所は小さい時から何一つ変わらない。
自然と頬が釣り上がる。
まあ、聞き分けがいい子でもある。
いつかはきっと分かってくれるだろう。
それにいつか、ここに来ることも飽きる筈。
ここに、俺なんぞに逢いにくるのも。
…
……
『いい加減、世間体も考えてくれよ』
『離れてくれ。こっちに来るなよ』
嫌、嫌。
そんな事を言わないで。
違う。兄さんはそんな事を言わない。
『もううんざりだ』
明晰夢。
そうであっても、目の前の存在が兄じゃないと分かっていても。だめだ。それを受け入れる事が出来ない。反射が心を支配する。
『もう来ないでくれ!』
そんな事言わないで。
私から目を逸らさないで。
ねえその横にいる人は誰。
置いていかないで。お兄ちゃん。
待って。待って。
『…ないで』
『捨てないで!』
暗闇が目だけに映る。それは目の前が暗くなった、というような意味では無い。電気の付かない夜闇の部屋に目が覚めたという事だ。
急造の、少し居心地の悪い寝床に、強ばりを解こうと必死に脱力する。結局それすら出来ず、寝床から立ち上がる元気もないまま、眼から零れ落ちる涙を隠すように手を当てた。
誰も見てなんていない。
でも、万が一にも見て欲しくなかった。
声も押し殺した。
今寝ている、あの人にだけは見ないで欲しい。
(……っ…っ……!)
そう思っているのに、身体が勝手にふらふらと歩き始める。涙が落ちたままに、貴方の元に身体が動き始める。違う。それを見せたくないと思ったのは、他でもない私自身なのに。
やめろ。やめて。
「兄さん」
ああ、起こしてしまった。
声を掛けてしまった。
私は何をやってるんだろう。
ううん。私は、やりたい事をやっているの。
「ん…どうした。明日早いんだろ」
「…怖い夢を、見てしまったんです」
そして、ああ。言ってしまった。
言いたかったんでしょう。
え。と逡巡が空間を静かにする。
その一言で分からない筈が無い。私が小さかった頃に、何度かしてもらった事。おばけやお話や何かが怖くて寝れなかった時、いつも同じ布団の中でぎゅっとしてくれた。
もう高校生になったのだ、するべきではないとは思っている。絶対にすべきでないと。
それでも、兄さんはきっと承諾するだろう。妹が、辛そうにしているから。
それでも愛する妹の為になら、と。
「………分かった。おいで」
やっぱり。
兄さんはそう言って、布団を静かに上げる。顔は見えない。でもきっと、困ったような苦悩したような顔をしているのだろう。
悩ませたくはなかった。苦しませたくなかった。であるのに、今の私はこんな事をしている。大切に想っている人の優しさを、あまつさえ打算的に利用している自身の醜さに自嘲の笑みが溢れる。誰も見ていなくて、ほんとうに良かった。
二人が入った毛布の中で、彼の動きを感じた。出来るだけ端に行き、背中を向けて。間違っても身体が触れてしまわないように。
貴方は優しい。
私を傷つけないように。私が悲しまないように、そうしてくれている事もわかっている。
でも貴方は、そんな優しさが一番心を抉る事をわかってくれていない。
私に向けられるその優しさが、『妹』への愛であってほしいと思いながら、そうであってほしくない。そんな矛盾に、どれほど身を焦がしただろう。
そんな苦しみは、兄さんの優しさを裏切る理由になんてならない。勝手に自分で抱えて墓まで持っていけばいい。
そんな事、わかっている。
わかっているんだ。
勝手に押しかける事が貴方の不安になっている事も、ともすれば私は邪魔ですらある事も。
掃除も、料理も、兄さんの役に立つ事ならなんだってしたいと思っている。
それでもきっと、兄は私に困ったような笑みを浮かべるんだろう。
『そんな事しなくてもいいのに』と。
ただ『おかえり』と『ただいま』が嬉しくて。
あり得る筈も無い、「もしも」のごっこ遊びがほんの少しでも出来たみたいで嬉しくって。
何度も何度も押しかけた。
貴方は何もわかっていない。
私の感情も、なぜ私が此処に足繁く通うかも。親切や心配だけで、こうも来る筈が無いのに。
貴方は何もわかっていない。
私は到底、優秀な妹なんかじゃない。本当に優秀で完璧なら、私は貴方を困らせたりなんかしないのに。
貴方に妹として見られる事が、どれほど嬉しくて、どれほど苦痛だった事だろう。
「…こっちを向いてください」
「…ああ」
「もっと、近づいて…」
「……」
「……おねがい…!」
「……わかった」
渋々と、大きな身体がこっちに寄ってくる。
手を伸ばす。
大きな身体。隆々とした肩幅。痛々しい火傷。
光一つないこの空間では、それらは目で見えない。でも、見えなくてもわかる。
いつだって私を守ってくれた身体。私の為に。私を守る為に。私に傷をつけないように。
私は、本当に駄目な女だ。
「…ッ!?おい、さすがに…!」
情動のまま、強く強く抱きしめて。胸を擦り付ければ喜んでくれるだろうか。
髪が綺麗だと言ってくれた。ならこの頭を差し出せば喜ぶだろうか。
私が持つ何を差し出したら喜んでくれるだろうか。きっと、何を差し出しても、すまなそうな顔をして、喜んでくれないのだろう。
突き放そうとする貴方の手の温度すら嬉しく感じる。その緩い力の入り方は、私を想う心の表れだとわかる。嬉しくありながら、悲しい。
「このままで居させて…」
「鈴…!どけ、どいてくれ。早く…!」
お兄ちゃんはきっと、思っている。聡明な鈴なら、『もうあまりこっちに来るな』と言った事を、いつか聞き入れてくれるだろう。
言ったことを守ってくれるだろう。それが自身にとって、結局は一番いい事なのだという事をわかってくれるだろう。
「……嫌です」
違う。違う。
もう、無理なんです。
頭ではちゃんとわかっている。
両親の優しさも裏切る事になる。築いた信用も全て台無しになる。兄妹が結ばれてはいけないなんて事も、露見すれば何もかもを失う事も。
全部わかっている。
ああ、何より。この想いを曝け出してしまったなら貴方の愛を失ってしまうという事もわかっている。それら全てを考えるだけで、胸が、頭が、何処もが、引き裂かれるように痛い。苦しい。
それでも。
理性も、理屈も。
完璧さも貴方の評価も妹としての立場も、何もかも投げ捨ててしまっても構わない。兄さんが褒めてくれた高潔さも、完璧さも、全て捨ててしまったとしても。それでも堪えきれない。
あなたが好きで好きでたまらない。
情動が、理屈や理論を全てぐしゃぐしゃにしてしまう。全部忘れさせてしまおう。白い膜をかけてしまえ。見なかった事にしてしまおうと。罪の意識も、喪う全ても、全部全部どうでもいいじゃないかと思ってしまう。
「こっちを見て。お願いです、ねえ」
周囲がどう評そうと云うのだ。
周りが何を囃し立てようと云うのだ。
『そんな事』。
お兄ちゃんと一緒に居られるなら、なにもかもどうでもいい。
咎めようとしている兄の口に、唇を合わせた。顔の見えないその口付けは、顔全てに接吻するような毒々しいものになった。
「…な、何を…」
「好き。好きなの」
困惑した言葉に被せるように、そう言った。
また、口付けをした。長く、長く。
息継ぎをするように口を離す。
「愛してる。お兄ちゃんのその優しい眼が、大きな肩が、笑顔が、傷が、優しさが、何もかもが好き。嫌いな所なんて一つも無い。いつだっていつだって、お兄ちゃんの事を考えてる。貴方の事が、大大、大好き」
ああ、全部言ってしまった。
絶対に言わないでいようと思っていた。例え呪っても、それだけは隠そうと思っていたのに。
一人暮らし。冗談じゃない。
どうして私から離れていくの。
お母さんもお父さんも嫌い。私の眼に届かない所にいかないで。いかせないでよ。
どうしてもう来ないでなんて言うの。そんなに私が居るのが嫌?
私の周りじゃない。
私を見て。私を見てよ。
「私、ずっと頑張って来たんですよ。兄さんに見てもらいたかった。笑いかけて欲しかった」
「…妹としてだけじゃなく、一人の女の子として見て欲しかった。ずっと貴方の側に居られるように、愛して貰うように」
「なのに出て行ってしまうんだもの。
私になんか顔を合わせたくない、なんて言うようにそそくさと。どうして」
離れていくのなら。私の周囲を気にしてあなたが居なくなるなら。
私はあなた以外の全てを捨てて構わない。どうせ関係が無くなってしまうなら、一番心地よかった妹としての関係すら捨ててしまっても構わない。
ダメ。こんな、ひどいこと。
『いい子』の私が、それを咎める。
心が弾けそうな程に傷んだ。
じゃあ、どうすればいいの。どうすればよかったの。必死に、無くなりそうな関係を繋ぎ止められるなら何でも良かった。なのに私にはこんなことしか思いつかなかった。
「鈴」
「やめて!優しく呼びかけないで!」
そうじゃないと、私はこの瞬間を後悔してしまう。全てを、貴方すら裏切ってしまったこれを死ぬまで後悔する事になってしまうから。
「どうして!私じゃ駄目なの。
どうして…?」
「…どうして。
一緒に居てくれなかったの…」
「……」
もう、自分が何を言っているかすらわからなかった。今、私は何を言ったのだろうか。きっと、また兄を困らせる事を言ったのだろう。
「一つ、話を聞いてくれ。」
唇を噛み締めるような、ぐっという音だけが聞こえてから、兄さんがそう切り出した。
ゆっくりと、自身に言い聞かせるようにも。
「本当は、一人暮らしの話は俺から言い出したんだ」
「お前から離れたかった。お前と一緒に居たら、どうにかなりそうだった」
「……え」
「だから、離れてくれ。
もう、ここにも来ないでくれ…」
こうなることなんてわかっていた。
それでも、目の前にそれが提示される事は、臓腑が捩じ切られるような程に痛かった。
「…嫌」
「離れろ」
「嫌」
「離れてくれ」
「嫌ッ!」
「いいから!」
ぶんと振り回した腕に当たり、床に倒れる。
そのまま、立ち上がる気力も無いまま、横になる。自暴自棄で、もうどうなっても良かった。
カーテンが弾みで開いた。
月明かりが部屋の中を微かに照らした。
そうした私を見た兄から。
ぶちり、と。
何かが切れたような音がした気がした。
大柄な手が私の両腕をそれぞれ抑えた。
もがいても、びくりとも動かない。
もう優しさは、微塵もそこには無い。
怖い。目に正気を失った光。月に当てられて狂ってしまったかのように。
知っている兄の顔じゃない。
でも、何より。
昏い満足感がぞくぞくと心を満たした。
私にそんな姿を見せてくれる事。こんな姿を他の人に見せた事があるだろうか?
もう、どうなっても良かった。
目を閉じた。
ああ、その後の痛みは。
永遠に記憶に残り続けるだろう。
…
……
「…………首括る」
「ま、待ってください!
私も…いや、私が悪いんですから!」
「にしても俺…こんな…」
翌日の朝。
そこには死にそうなほど落ち込んだ兄の姿があった。冗談や誇大表現ではなく、本当に括りかねないような程の落ち込みようだ。
「…………こんな事、したくなかった。
だからお前から離れていったのに。
なのに俺、結局…」
「…私は、凄く嬉しかったです。
本当に夢みたいに」
そっと、頭を抱える彼に寄り添う。
その感触にびくりと、反応した。
「…だから、昨夜は全て夢だったって事でもいいです。互いに、そういう事にしましょうか」
「いや、そんなことはしないさ。
やった事の責任は、絶対に取る」
さっきまでの弱々しい声は何処へやら、毅然とそう様子を変えて言う兄。そしてまた、言って、す、と手を伸ばしてくる。いつものように頭を撫でてくれた。
だけど、少し不服。
「…私以外の事を考えてますね。
もっと、私だけを見てください」
「う。…悪い。
ちょっと色々と考えてた」
「駄目です。これまで、『鈴』を見ていなかった分も、それ以上もずっと私を見て、想っていてください。私以上に、私の事を思わないと駄目です」
嘘。
本当は、他の事も考えていてほしい。
それならそれでいい。
私はそういう貴方が好きになったんだから。
ただ。
これから先、貴方を私に夢中にさせてあげる。
私が貴方の事しか想えなくなったように、兄さんには私の事しか想えなくしたいと。
そう、思った事も本当。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「…一つ、質問しても?」
そう、鈴が問いて来た。
その手首には赤々と痣が残っているし、首筋はファンデーションが無ければ外を出歩く事もままならないだろう。
ああ、まず親になんて説明をしよう。
殺されても、文句は言えない。
「ん。なんだ?」
そんな事を思いながらの生返事。
「……その。
どうして、昨夜は急に豹変したんですか?
私はてっきり、その…兄さんは、私の事…」
豹変。
そうか。鈴にとっては、そうだったのか。
俺は、ずっと耐えていただけなのに。あの瞬間に、耐え切れなくなってしまっただけなのに。
ああ、でもそうだ。
その瞬間を、ばっちりと覚えている。
暗闇の中だった。電気も付けず、唯一頼りになるのは、暗順応した自分の眼くらい。
そんな中、あの瞬間。嫌だと震える声で泣き出した瞬間、窓から月明かりが差した。雲の切れ間から光が溢れたように。
月光が照らした、暗い眼を湛え、こちらをとろりと見つめて来る鈴。倒れ込んだ、その姿。
それを見た時、心の何処かで赤い果実が弾けるのを感じた。妹だろうと、なんであろうと。
「……本当に、単純な事だよ。
俺、ずっと鈴の事が好きだったんだ。
妹としても当然、その…」
気恥ずかしくて、最後を濁したままにしてしまう。それを聞いて、鈴が子供じみた満足げな笑みを浮かべた。こんな楽しそうな顔は、いつ以来に見たろうか。
「ふふ、そうですか、そうですか。へぇ。」
悪戯心を刺激されたような、少し幼いようなその笑顔を見る。
その顔を見て、俺はもう金輪際、鈴を『妹』として、家族として見る事は出来ないだろう事を確信してしまった。
食べれば余計な知恵が付く、禁断の果実。
俺はきっと、それに手を伸ばしてしまったんだ。あの時弾けたのは、それだったんだ。
この先、選んでしまった未来は地獄であると思う。だけどそれを、後悔なんてしない。
してやるものか。
「なあ、鈴」
「…はい」
「愛してるよ」
「はい。私もです、兄さん」
この失楽園の中、それでも。この目の前の笑顔だけは守ってみせると、そう強く思った。
最後にゆっくりと口づけをする。
そこからは確かに、甘い罪の味がした。
エンド5.おわり




