それは溶けた飴玉のような
夏の日だった。茹だるような夏の青さをしっかりと覚えている。それは水底から覗いた水面のように、ゆるゆると潤み、透き通ったようだった。
そして嘆息が漏れるんだ。
ああ、今まで俺の目は腐っていたのかと。
君は、君の瞳は。
こんなにも美しかったのかと。
…
……
静寂に蝉の声だけが響いていた。
顔を赤くし、どこか遠くを見るように、目が合わない彼女を見据えて、俺はただ呆然とした。
最初に、『しまった』と思った。
次に、自己を厭んだ。
これを聞いた事、彼女に想いを決めさせてしまった事、話させてしまった事。
そんな決意を前にしまった、なんて。と。
………
それはある夏の日のことだった。倉庫の中の整理を頼まれて。
俺らは、デスクワークに付き切りの会長を除いて、埃まみれのトタン屋根に来ていた。
その物置の整理をしてくれないか、と。
…ひどい意気地なし。それが俺だった。
あの日、あの時。心の中に答えが一つ出た。
そしてその上で、俺はただそれを口に出せないでいた。何かの理由があった訳ではない。
恐ろしくて、堪らなかったんだ。この想いを伝えてしまう事が。何が恐ろしい?わからない。関係が変わる事も、自身に歯止めが効かなくなるだろう事もか。またそれ以外の全てか。
「…古賀さん?大丈夫ですか?」
呆けた俺に、そんな優しい声が掛けられる。
おずおずと、弱気な声。その声が、俺を見透かすようで怖くて、そしてその声が今でも向けられる事が嬉しかった。
けほけほと互いに咳き込みながらも真面目に、それでいて真面目になりすぎないような状態のままに責務を行っていた。まあ、つまり、雑談をしながら作業をしていたんだ。
話す内容は、『あの時』の事。
先輩、後輩でも学友でもない。
図書館で出会った、奇妙な関係だった頃の話を、二人でしていた。二人だから出来る話。
二人にだけ伝わるあの頃の。
二人で居る時のあの子は、いつも学校で見る彼女よりもちょっと表情が豊かで。よく笑うように感じた。
村時雨ひさめ。
彼女の笑みは、ただそこにあるだけでその周囲に彩りを与えるようだった。
少し崩れた敬語と、汗ばむ身体に浮かぶ可愛らしい笑みが、あの憧憬を思い出させていた。横に並んで、鉛筆の音が響いた空間が、心にこだましていた。
不用意な発言は、俺がした。
そうだ。悪いのは俺だ。
「そういえば、どうしてこの学校に?」
純粋な好奇心からの質問だった。俺がその時に教えていた範囲から、この学校は当初狙っていなかっただろうし、彼女の家から近いと言う点で言うなら、他にもある。
だが彼女はここに居る。
それに、何か理由でもあるのか。
ただ、単に気になって。
それを言って、少し時間があった。
そのほんの少しの間は、彼女の熱っぽい顔に気づく事の出来る最後の猶予だったのかもしれない。でも俺は、何も気付けなかった。
ただ、その間に、素っ頓狂に何か失礼な事を聞いたのかもしれないと。思って。別に、言いたくないなら、なんて言いかけた時だった。
「追いかけて来たんです。古賀さんを」
こわばった声でそう言った彼女を、ぎょっとしたように見る。そこで初めて、その耳まで赤い様子に気が付いた。
どきりと心臓が跳ねた。
「…!それは…嬉しいけど。あまり、そういう風に言わないようにな。そんな事言われたら男の子は勘違いしちまう」
自分にする言い訳のように、そう言った。嘘をつけ。そんな事ではないと、分かっているくせに。この卑怯者め。
それを聞いて、彼女は息を一つ、浅く吸う。
そして一度目を閉じてから、ぱちりと開けた。
瞬間、ぐっと、音がした。彼女が唇を噛み締めた音だったかもしれないし、こちらに向き直ったローファーが鳴らした音だったかもしれない。
今となっては、わからない。
「勘違いなんかじゃありません…
…僕は、貴方にもう一度会いたかったんです」
「僕は、貴方が好きなんです。ずっと。
愛して、います」
………
今に至る。
じーわ、じわじわじわ。
蝉の音がただ物置に響く。
互いに汗が滴っていた。
顔が、赤い。
そのどちらも、暑さが理由ではない。
「いつからだ」
俺がようやく絞り出した言葉は、そんな、素っ頓狂なものだった。
聞くべき事は、そんな事では無いのに。
言うべき言葉はそんなものでは無いのに。
「…あの時、からです」
「…そう、だよな。
そうじゃなきゃ、追うなんてしないもんな」
あの時、という具体性に欠けた彼女の返答。この空間では一つの思い出を指していた。
息が早まり、ただ何も言えないまま、口を開けて、閉める。息の仕方を忘れたように、酸素を失った魚のように。間抜けな行動だった。
そして俺は、目を逸らした。
言うべきだった。
俺が、先に。言わねばならなかった事。
先に言わせてしまった。
その恥ずかしさ、気恥ずかしさ。そんな風な感情。それらが現れたものだった。
…それを、目を逸らす俺のことを、ひさめはどう思ったろうか。どう思うだろうか。
良いように、捉える筈があるだろうか。
彼女が寂しげに、笑った。
ようやくここで、自身の失敗を悟った。
違うと一言、言えたならよかった。であるのに、心の中の迷いがまだここで頭をもたげて、その声を出させしめなかった。
「はは、酷いですよ。必死に追いかけて、背中に辿り着いて、なんとか追い縋って。
それでも、気づいてくれないんですもん」
「…それは…」
「わかってます。
そう言われても、困るだけですよね。
だから、言うつもりは無かったんです。
今みたいな事も、この想いも」
「……」
「だから、すみません。
忘れてください。今、僕が言ったこと。
何もかも、ぜんぶ」
「…!」
目を細めて、震えた声で笑うその姿は、何度も何度も殴られたように見えるほどに弱々しく、痛々しく見えた。
そのままひさめは作業に戻ってしまう。カラカラと、古びた用具をゆっくりとどかしながら。
拒絶の意なんて無かった。
だのに、その一言すらも口に出来なかった。
何も話しかけられなかったんだ。何か話しかけてしまえば、壊れてしまいそうに見えた。
少しでも触ってしまえばそこから崩れてしまいそうに思えた。蜃気楼のように、触れば消えてしまいそうな気がして。
違う。この期に及んで自己弁護か。
俺の、俺自身が、どう言えばいいのか。どうしていいのかわからなかっただけだろうが。
ただ何もしなかったのは、お前の選択だろう。
…ただ、ひさめに倣って。
阿呆みたいに、用具を片付け始めた。
和気藹々とした雰囲気は消えて。先程まで気にすらならなかった蝉時雨がやけにうるさく感じた。
もう黙ってくれよ。そんな何の意味のない、蝉の音への罵倒が胸の中で溢れて消えた。
…
……
扉の前で、一寸、止まる。
目を閉じて、意を決して、部屋の扉を開けた。
生徒会室。
そこに在る筈の、おさげ髪を探した。
少しだけぼさついたあの、小さな頭を。
だがそこには誰も居ない。
誰も。
シドが居ないのは、多忙ゆえよくある事。
だが、ひさめが居ないのは?
ただ、用事があっただけかもしれない。
それは考えたし、あり得る可能性だ。
なのにその時は、そうは思えなかった。
居ない。来ない。逢えない。
それに嫌な予感がして、堪らなかった。
『もう、来ないんじゃないのか?』
そんな予感が。
俺のせいか。とか、そういう自己嫌悪は無かった。それよりもまず、もっと自分を埋め尽くす感情があったからだ。
もう出会えなかったらどうしよう。
あんなのがお別れなんて嫌だ。
俺はあの子に、また逢いたいんだ。考えて、考えて、ようやく答えも出して来たんだ。
そんな焦りと絶望が、まずあった。
(…………違う。)
(…違うだろうが!)
ばちぃん。
頬を思い切り、自分で叩く。
じんじんとする中、思い切り息を吐いた。
大きく吸い、もう一度吐いた。
ばち、ぃぃん。
そして、もう一度頬を叩く。
ようやく目が覚めたようだった。
あまりにも遅かったけれど、それでも。
(もう、自分に言い訳なんてするな。
仕方ない、なんて思わない。
どう思われても構わない。そうだろ古賀集)
気が付けば、ただ走っていた。君にただ急いで、逢いに行きたかった。
(どうあっても、この気持ちを伝えるんだ。
ひさめがそうしてくれたように、俺もその答えを返す。それが、それだけが!)
ある場所へ、あそこへ。
あそこに、君がいるから。
間違っているとは、微塵も考えなかった。君はそこにいると、不思議と確信を持っていた。
…
……
…自分で言うのもなんだけど。
僕は頭が悪いなりに、そこそこ真面目だったと思う。素行は悪くないし、いつも大人しいし、目上の人の言う事は守ってきたつもりだ。
…真面目だった、なんて過去形なのは。初めて学校をサボるなんていう不真面目この上ない所業をしてしまったからだ。
溶けるような炎天下の中、学校とは逆の方に足を向けて歩くのは確かな罪悪感と共に、変な爽快感を与えてくれた。
(うわ、涼しい…)
汗冷えしてしまうほどに、外気と建物の中はあまりにも違かった。でも倒れそうな程の暑さの後だとその寒さはむしろありがたかった。
平日の昼間。当然ながら、人はとても少ない。
ただでさえ人の出入りが少ない場所だった。だからこそ僕は此処を気に入っていたんだから。
机に座り、鞄を置いた。
課題用に筆記用具を幾つか出す。しかしどうしても頭が回らない。
仕方がないから本を取り出して読む。だけどただ目が列をなぞるだけで、読む事が出来ない。
仕方がないから、また、手持ち無沙汰に課題に手を付けた。
でも、ダメだ。
複雑な煩悶が思考を邪魔するだけじゃなくて、もっともっと単純に問題がわからない。
ああ、もう。と。
広げられた課題をそのまま押しつぶすように机に突っ伏せて、窓を眺めた。
あの時みたいに、誰かが教えてくれたなら。
(………誰か、が)
…あの時は、夏休みだった。
今は、就学真っ最中。条件がまるで違うのに、ついついそんな事を思ってしまう。
今、図書館に足を運んでしまったのは、そんな、もう存在しない日々をなぞるためだろうか。もう存在しないあの日を、ただ名残惜しむためなんて、情けない動機だったのか。
既に一度、拒絶された。
最早二度とないあの日への憧憬。
二度と、あの日は存在しない。
(………ッ…)
ずぐりと、胸が痛む。
丸くなってしまいたいような激痛が走る。その痛みはきっと、現実には存在しないけれど。
クーラーの効いた読書室の中。あの夏の日々と同じ。頭を悩ませながら、やけに煩い蝉の声だけにただ思考が滅入ってしまって。
あの時と同じように、ただわからない問いに頭を悩ませている。すると、貴方が来て、答えを一緒に考えてくれる。横で笑いながら、解るように教えてくれるんだ。
そうだ、あの時と同じで。
貴方は汗をかきながら、来てくれるんです。
遅れてごめんな。なんて言って。
「…よう」
「……!」
ああ、ああ。
今、一番逢いたくなくて。
今、一番逢いたかった人。
息を切らしながら、汗だくになりながら。
僕の好きな人がそこに立っていた。
そして、こう言った。
「遅れて、ごめんな」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「その…」
「図書室の中では静かに、だろ?」
「…はい…」
隣でそう囁かれて、僕はそのまま静かにする。
なんだかもう、どうしたらいいか判らない。
きっと僕自身の顔色も、赤くなっていいものか青くなるべきなのか、それすら分かっていない筈だ。
恐る恐る、古賀さんの顔を覗き見る。すると、アイコンタクトで、僕にペンを持つように言って来た。
言われるがまま持つと、目の前に広げられた僕の課題に、すらすらとペンが走り始める。
途中式についての赤ペン。
その問題を解くコツ。
そして、ちょっとだけ下手なマスコット。
クスリと笑う。
あの夏休みが、少しの間ここに戻って来たような幸福。
そうだ、これはきっと幸福だ。
幸せそのものであるのだ。
なのにその幸福を、ただ受け取る事はもう出来ない。そうするには、心にモヤがあってしまう。もうこの幸せすらも受け取るべきでは無いのだと。
目の前にいる愛しい古賀さん。
貴方はもう、僕のものではない。
ううん。そんな事わかっていたんだ。
最初から貴方は僕のものなんかじゃない。
そんな事、わかってたはずなんだ。
勝手に想い、勝手に傷つく。なんて馬鹿馬鹿しい逆恨みだろうか。こんな人間が、貴方に並ぼうなんておこがましかったんだ。
じわりと、視線が歪む。
僕は何がしたいんだ。勝手にのぼせあがって、好きな人にまで迷惑をかけて、挙げ句の果てに探させてまでしまった。
情けなくて情けなくて、ただ消えてしまいたかった。この夏の気温に溶けて消えてしまうことが出来たのならどれほどよかったろう。
(……)
そんな僕を見つめる彼の視線には、気付いてなかった。自分で自分を追い詰めて、自縛して。それに、ただ精一杯になってしまっていた。
この時、どんな顔をしていたろう。
ひどい顔をしていた筈だ。
トントン、と僕の二の腕を叩くペンの感触。
当然、彼が行ったもの。
ふと目を向ければ、その目の前でペンがさらさらと動ぬ。赤いペンが、計算式でも無くぶさいくなマスコットでも無く。
確かな文字列を描いた。
そこには、こう書いてあった。
『ごめんな』
…びくりと、背中が震えた。
…
……
『ごめんな』
そう、書いたその後に。
すぐまた文字を書く。
『ずっと考えてた』
そうだ。ずっと、考えた。
俺は君に、最低な事をした。
目を逸らした。君から、想いから。
想いを踏み躙り、逃げた。
そんな俺が君と再び向き合う価値があるか。
答えは出なかった。
代わりに、他の答えが出来た。
せめて、それを君に伝えさせてくれ。
言葉では、流れてしまうから。
文字にして、残したいから。何より、まだ言葉に出来る程の勇気が無いから。
ああ、その小さな口で告白してくれた、ひさめ。君はとても、凄かったんだな。
俺には到底真似できそうにない。
『俺は、君が好きなのか。
そうじゃないのか』
「……!」
『もし聞きたくもないなら、そう書いてくれ』
ほんの一瞬の間が、永劫にも感じた。
震える字で、書いてくれた。
『聞かせてください』
ペンを走らせた。
俺の文字も、震えに震えている。
…『君の笑顔を見ているのが好きだ。君のの声が好きだ。その、怖がりな所が好きだ。君ほど、一緒に居て胸が高鳴る人は居ない』
『俺も、君の事を愛している』
「!」
『だからこそ』
『俺と付き合うべきじゃないと思う』
「……」
『俺よりも、もっといい人は居る。
それでも』………
ぱあん。
書ききれないまま。
二つのペンが、机に落ちた。
ひさめの平手打ちが、その言葉を奪った。
初めて見るような顔をしていた。
怒り、失望、悲しみ。
その、全て。
「…僕は、貴方にとって、そんな言葉を投げかけるほどに子供ですか!?言い聞かせて諦めさせようとするほどに!」
「…そんな事、幾らでも考えました!何度でも、幾らでも貴方のことを!考えても考えても貴方が出てくるほど愛しているんです!好きなんです!」
涙を、ぼろぼろと流しながら激昂する。
感情の濁流は、もう、止まらない。
「…こんな…こんな事を言われるくらいなら、一思いに、嫌いだと言って貰えた方がまだ良かった」
「貴方に、せめて対等に見られていたんだと思っていたかった!子供として見られているんじゃないんだって!それなのに、こんなの、こんなの……!う…」
「…あああああ…ッ!」
頭を掻き抱くように慟哭する少女。
違う。
違うんだ。
君に、そんな事を伝えたかった訳じゃない。
「違う!俺は君を…!」
ひさめは、びくりと、俺から逃げようとする。
咄嗟に腕を掴んだ。
腕を振り回し、思い切り抵抗される。
引っ掻かれ、少しだけ血が出た。
「違うんだひさめ!
最後まで話を聞いてくれ!俺はっ!」
「嫌だ!離してくださいッ!離し…っ!」
今度は、俺が彼女の言葉を奪った。
平手打ちではなく、口付けで。
涙に塗れた唇は、ただ触れて無くなりそうなほどに柔らかく、そして暖かかった。
そのまま彼女を抱きしめて、言う。今度は、最後まで伝えられるように。
口頭で、君にちゃんと伝える。
今、最後まで伝えられなかった言葉を。
「……俺より良い人なんて、沢山いる。いるだろう。そしてその人たちの方がきっと、君を幸せにできると思う」
「でも、それでも、俺は。君をそいつらにどうしても渡したくなんて無いんだ」
腕の中で、びくりと動きがあった。込められていく力が少しずつ消えていくのを感じる。それに反比例するように、ぎゅっと腕の力をさらに強くする。少し痛くあってしまうくらいに。
「……なあ。ひさめ。俺と、付き合うべきじゃない。一度付き合ってしまえば、俺はもう絶対にひさめを手放さないぞ。絶対に」
ぎゅっと、もっと強く。
彼女は少しだけ痛そうに顔を歪めていたけれど、それに嫌そうな顔をする事はなかった。
「子供扱いなんてしてない。
俺は、むしろ君を誰よりも異性として見てる。
だからこそ、君は本当は俺なんかから逃げるべきなんだ。俺に近づくべきじゃない」
「…それを、伝えたかったんだ。気味が悪いと思うだろ。最低だろ。怖気がするかもな。
でも、それが俺の答えだ」
恐怖されてもいい。そのまま、嫌われてもいい。二度と近寄られなくなってもいい。破滅してもいい。それでも、この想いの丈を伝えたかった。それこそ、君のあの告白へのせめてもの返礼だと思った。
…抱擁を、ようやく解いた。これで、もう一度拒絶されるならばそれでよかった。
ふらりと、貧血を起こしたように後ろに倒れ込む彼女。それを支えようと手を出す。
その腕を、少女が掴む。
涙をまたぼろぼろと流して。
そして、言った。
「…なら、なら。絶対に離さないでください。
ずっと、貴方の側に居させてください。
本当に、それが貴方の気持ちなら……
それが、貴方の幸せならば…」
─それが、僕の幸せです。
そうして、二度目の口付けが行われた。
奪うような一度目には似ても付かない、静かなものだった。
…
……
「…ほ、ほんとうにごめんなさい!
痛くない…ワケないですよね!ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いや、まあ…これについては紛らわしい真似した俺が悪いから…」
そう、古賀さんは頬に出来た紅葉をさすりながら言ってくれる。うう、本当に申し訳ない…
めいっぱいの力でやったし、痛くないわけがない。なんなら、僕の手が痛いのだから。
そんな風に話しながら、夕暮れ空の下で手を繋いで歩く。すっかりと、時間が過ぎて日が落ちてしまった。
並んで、貴方と歩く。
これは、あの夏の日の夢だろうか?
こんな幸せが許されるのだろうか?
あの口付けは夢だったんじゃないか。
本当にあったことなのか?本当に。
今になって、実感が出てくる。
唇を、そっとさする。
顔がみるみると熱くなるのを感じた。
「…ま、一番謝らなきゃいけないのは図書館の職員さんだな。今度一緒に謝りにいこう」
「ひゃい!?
そ、そうですね!?」
「はは、なんだその返事」
…そう、あっけらかんとしている古賀さんの様子がやけに恨めしく感じる。ひょっとして、意識してしまっているのは僕だけなのだろうか。
「!うわ、凄いな!」
その声に、彼の見ている方向を見た。
そこには、素晴らしい光景が浮かんでいた。
橙色に光り、ゆらぎながら落ちていく日。
黄金で織られた絨毯のような美しさ。
光は、更に影を落とし、世界をその朱色の美に染めていく。
陰影が、僕たちを照らし出す。
並んだ二つの影を。
影に不安になったように、互いが互いの顔を見合った。愛おしげに、恥ずかしそうに、愛を讃えている。そんなものだった。
(ああ。こんなもの、いいのかな)
そんなことを思ってしまう。こんなこと、許されていいのだろうか?だって、あの夏の日に思い描いた、理想。それすら、もっともっと上回る現実がここにあるのだ。
それを、貴方が持って来てくれた。
貴方が、僕の全てになってくれた。
そう思うと、また、涙が出てきてしまった。
「お、おい?大丈夫か?
何か辛いことでも…」
…
……
…夏の、日だった。茹だるような夏の青さをしっかりと覚えている。それは水底から見た水面のようにゆるゆると潤み、透き通ったようだった。
泣き出した彼女は、ただそのまま雫を拭いながらそっとまた唇を合わせた。
目を閉じた瞬間が続いて。
目が互いにゆっくりと開いて。
そして嘆息が漏れるんだ。
ああ、今まで俺の目は腐っていたのかと。
君は、君の瞳は。
こんなにも美しかったのかと。
「……ねえ、古賀さん。僕、本当にこんな幸せになっていいんですか?」
「当たり前だろ」
「嘘だなんて、言いませんよね?」
「そう言われたら、俺こそ死んでやるさ」
頬を拭い、そうして向き合う。
見つめ合う、そのそれだけに多幸感が走る。
ああ、それはきっと溶けた飴玉のような。
溶けた飴玉のようにきらきらと。
そして、甘く、粘着質で。
それに囚われれば幸せになる。
そんな愛だ。
互いに、その愛に身を浸したのだ。
だからこそそれはきっと、何よりも心地よく。
「…僕も、絶対あなたのことを手放しませんからね。ぜったい、ぜったいです!」
……何よりも、綺麗なんだろう。
エンド1、おわり




